2018.8.12 説教 「罪の女」
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聖書箇所
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ルカによる福音書7章36〜50節
36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
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説 教 |
1.罪の女
毎月第二週の伝道礼拝では毎週行われているマルコによる福音書からの学びを離れて、新約聖書の中に登場する特定の人物にスポットを当てて、その人物と主イエスとの出会いについて学んでいます。私たちの人生にも様々な人との出会いがあります。しかも、その出会いの中には私たちのその後の人生を変えてしまうような出会いも存在します。私たちが今、学んでいるのは主イエスとの出会いを通して自分の人生を全く変えられた人たちの物語です。いったい主イエスと彼らとの出会いはどのようにして起こったのでしょうか。そしてその出会いは彼らの人生にとってどのような意味があったのでしょうか。私たちはこの礼拝でそれらのことを聖書を通して確認することで、彼らと同じようにイエスとの出会いを経験できたらと考えています。そしてそのイエスとの出会いがどんなに自分の人生にとってすばらしいものであるかをこの礼拝を通して味わって行きたいと考えるのです。
今日の聖書の物語に登場するのは一人の女性です。聖書は彼女の本当の名前を記していません。その替わりにこの女性を「この町に一人の罪深い女がいた」(37節)とだけ紹介しています。今日の物語の主人公はこの「罪深い女」と呼ばれる人物です。どうして彼女がこのように「罪深い女」と呼ばれるようになったのか、その事情はよく分かりません。ただ、この後でシモンと呼ばれるファリサイ派の人が彼女のことについてこう述べているところがります。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)。この発言から考えるとこの女性が評判のよくない人物であること、そしてそのために普段から彼女は「罪深い女」とたくさんの人々に呼ばれていたと言うことが分かります。つまり、この「罪深い女」と言う呼び名は町の人々がこの女性につけたあだ名と考えてもよいのです。この女性にもちゃんとした名前があったはずです。しかし、町の人々はその名前で彼女を呼ぶことはありませんでした。むしろ「罪深い女」と呼べば、誰でも彼女のことが分かったと言えるほど、彼女は有名人であったのかもしれません。
このあだ名が付けられたのは彼女自身に原因があったと考えることもできます。しかし「罪深い女」と言うあだ名は彼女にとって大変不名誉な呼び名であったと言えるはずです。だれも好んでこんな風に自分を呼んでほしいとは考えないはずです。しかし、聖書はこの女性と主イエスとの出会いにとって彼女が「罪深い女」と呼ばれることに深い意味があったことを教えるのです。
2.イエスの足を涙で濡らした罪深い女
①シモンとイエスとの関係
この物語にはもう一人の重要な登場人物が存在しています。それがファリサイ派の人シモンと呼ばれる人物です。この物語はおそらくこのシモンの家で行われた食事会が舞台となっていると考えることができるのです。このときシモンは自分の家で開催される食事会にイエスを客の一人として招待していたようです。シモンがどのような動機でイエスを食事に招待したのかは聖書にはっきりとは記されていません。もしかしたらシモンはイエスに対して強い関心を持っていたのかもしれません。しかし、シモンはイエスが自分にとって本当に大切な存在であるとは考えることができなかったようです。そのことは聖書の物語を読むと分かります。なぜならシモンはこの日、彼の家に招いた客であったイエスに対してふさわしい対応をしていなかったからです。イエスはシモンが客であるはずの自分を大切に扱っていない証拠を次のように述べています。
「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった」(44節)。「あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかった」(45節)。「あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかった」(46節)。ここに書かれているのは当時のユダヤ人が大切な来客を心からもてなすために行った行動です。シモンは来客に対してすべきこれらのことをイエスに対してすることがありませんでした。つまりシモンはイエスを心から歓迎してはいなかったのです。また、シモンは主イエスのなした罪深い女に対する応答を通して次のようなことを語っています。
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)。
この言葉から分かるのはシモンがイエスを「預言者の一人ではないか」と期待を持って見ていたと言うこと、そしてイエスの取った罪深い女に対する行動はそのシモンの期待を完全に裏切るものであったことが分かります。これらの言葉からシモンはイエスが自分の家まで来てくださっているのに、このイエスとの本当の出会いを体験することができなかったと言うことが分かるのです。教会に通うこと、そしてそこで聖書を学ぶことは私たちの信仰生活にとってとても大切なことです。しかし、このシモンの行動から考えるとそれだけではイエスとの本当の出会いを体験することができないと言うことが分かります。それでは私たちの人生を変えるイエスとの出会いとはどのようにして起こるのでしょうか。それをこの物語のもう一人の登場人物である「罪深い女」と呼ばれる女性とイエスとの出会いから学ぶことができるのです。
②罪深い女とイエスとの出会い
一方、このシモンの家で開かれた食事会に「罪深い女」がやって来ました。彼女は当然、この食事に招待されていた客ではありませんでした。おそらくこの食事会の会場の入り口はいつでも扉が開いていて招待客がそこから自由に出入りできるようになっていたのでしょう。「罪深い女」はこの開かれた入り口から入って、まっしぐらにイエスの元に進み出ました。彼女が持っていたのは香油の入っていた石膏の壺でした。この香油はよい香りのする油で、現在で言えば香水のような役割をするもので、オリーブ油などとは違って高価なものであったと考えられています。おそらく、この女性にとってこの香油は宝物のような存在であり、自分が持っているものの中で最も高価な品物であったと考えることができます。つまり、この女性は自分の持っている最上の宝物をイエスにささげようとしてここにやって来たのです。
ところがここでハプニングが起こります。イエスにお会いすることができた感動のためでしょうか、彼女はそこで泣き出してしまい、その涙がイエスの足に滴り落ちたのです。慌てた彼女はその涙を自分の髪の毛を使ってぬぐい始めます。そしてさらにイエスの足に接吻して、自分が持って来た香油をその足に塗ったと言うのです。
この一連の行動を目撃したシモンは「何ということだ」と考えました。そして「これでイエスが預言者ではないことが判明した」と結論付けたのです。なぜなら、当時の律法学者やファリサイ派の人々はこのような女性に触れられることを一番嫌っていたからです。このような女性に少しでも触れられた途端、その女性の罪の汚れが自分にも移って、自分も汚れてしまうと考えたのです。そして自分もこの女性と同じように神の愛の対象から外されてしまうと恐れたのです。
3.彼女の行動は何を示すのか
このような思いを抱くシモンに対してイエスは次のようなたとえ話を語られました。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(41〜42節)。
イエスはシモンに「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と尋ねられたのです。答えは明確です「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(43節)とシモンもはっきりと答えました。その上でイエスはこの女性の行った行動の秘密をシモンにこう語ったのです。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)。
このイエスの言葉でわかることはこの「罪深い女」と呼ばれる女性がここでイエスに示した行動はイエスを愛するがゆえの行動であったと言うのです。彼女の行動の真意を知らない人々は「何ということをしてくれたのか。大切な食事の席を台無しにしてくれた」と思ったかもしれません。しかし、イエスだけは彼女の行動の本当の意味をご存知でした。彼女はイエスに対して自分の愛を表すために、自分にできる最善のこと、自分の持っている最高のものをささげようとしたのです。
さらにイエスのこのたとえ話から分かるのはこの女性がどうしてイエスにこのように自分にできる限りの愛を表そうとしたのかと言う理由です。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」とイエスが語られた通り、この女性は自分の罪がイエスによって赦されたことを喜んだのです。それが彼女のイエスへの愛の行動として反映されたと言うことができるのです。つまり、彼女はイエスに何かをしてもらうためにこの行為をしたのでもありませんし、誰かに強いられてこのことをしたのでもありません。ただ彼女の罪がイエスによって赦されたと言う事実が、彼女のイエスへの愛の行為を生む原動力となったのです。
4.私たちも「罪深い女」、「罪深い男」
この同じ個所を解説しているある説教家はこの箇所を宗教改革者のマルチン・ルターがとても愛して、その生涯で何度も説教していると言っています。ルターはそれだけではなくすべての信仰者が最低でも年に一回はこの物語を読むべきだと勧めたと言うのです。ルターがそう勧めたのは彼にとってこの物語が自分の信仰生活を支える大切な箇所であったからだと言えます。
ご存知の通りルターは若くして修道士となり、当時のカトリック教会が奨めていた様々な信心業に励ました。それは彼が魂の安らぎを心から求めていたからです。しかし、どんなに厳しい修行に励んでもルターの魂が安らぐことは決してありませんでした。何をしても彼は自分が神から愛されていると言う確信を得ることができなかったのです。そしてどんなに修行に励んでも彼はむしろ、自分が神の前に汚れた罪人に過ぎないことを痛感して絶望するばかりだったのです。ルターは神に愛されるためには自分が罪人であってはいけないと考えていたからです。
しかし、そんな彼が魂の安らぎをついに獲得するときがやってきました。それは彼が聖書によってイエス・キリストが自分の罪をすべて背負って十字架につけられたと言う事実を知ったからです。イエス・キリストは罪人であった自分を愛して、十字架につき、自分を救ってくださったという救いの事実をルターは確信することができ、魂の安らぎを受けることができたのです。
それまでルターは自分が「罪人」であってはいけないと考えていました。だからその自分に与えられた「罪人」と言うレッテルを剥がすために懸命にがんばって来たのです。しかし、そのレッテルを自分の力ではがすことは不可能だったのです。ところがルターは聖書の教える真の福音を知ったときに、その「罪人」である自分をイエスが愛してくださっていることを知りました。イエスが自分に代わって自分の罪を背負い十字架にかかってくださったことで、自分は赦されたという真理を知ったのです。それ以来、彼が持っている「罪人」と言うレッテルの意味が全く変わってしまいました。今まで彼は自分の罪深さを知らされるたびに絶望するしかありませんでした。しかし、今はその「罪人」と言うレッテルを通して自分に対するイエスの愛の深さを確信することができるようになったのです。
「罪深い女性」と言う呼び名は当時の人々が彼女につけたあだ名のようなものでした。それは彼女にとって恥ずべき呼び名、また自分の人生を絶望に追いやるような呼び名であったかもしれません。しかし、彼女がイエスと出会ったとき彼女のこの呼び名の意味は大きく変わりました。「罪深い女」と言う意味は彼女が多くの罪を赦された事実を表す名前となったのです。そしてそのあだ名は彼女がどんなにイエスに愛されているのかを確信させる呼び名ともなったのです。
「罪深い女」と言う呼び名は彼女だけに付けられる特別なあだ名ではありません。聖書は私たちすべてが「罪深い女」、「罪深い男」と言う名前で呼ばれるべき者たちだということを教えています。しかし、だからこそ私たちはイエスに愛されていると言うことを知ることができるのです。かつて私たちは自分の罪の姿を示されるために絶望していましたが、今はそうではありません。自分の罪の姿を示されために、私たちのために十字架に付けられたイエスの愛を確信できる者とされたのです。そしてその確信こそが、私たちの信仰生活にとって最も大切なことであることを今日の物語は私たちに教えているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちも確かに神の律法の光に照らされるとき自分が「罪深い者」と呼ばれる存在であることを知らされます。そして私たちは神の厳しい裁き対象とされるべき者たちでした。しかし、あなたはそんな私たちに御子イエス・キリストを送ってくださり、そのイエスの十字架の御業を通して私たちの罪を赦してくださいました。多く赦された者は多くあなたを愛することができます。私たちに私たちの罪深さを知らせるとともに、その私たちを赦してくださったイエスの愛を確信することができるようにしてください。そのように人生を変えてくださった主イエスとの出会いを忘れることなく、私たちが愛を持ってあなたに仕える続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着かれていると、そこに誰が入って来ましたか。その人物はイエスに対して何をしましたか(36〜38節)。
2.ファリサイ派の人シモンはこの光景を見て、何と思いましたか。どうして彼はそのように考えたのでしょうか(39節)。
3.イエスはそこでどんな話をされましたか。そしてシモンに何と質問されましたか(41〜42節)。
4.このイエスの言葉から罪深い女がとった行動の意味は何であったことが分かりますか。どうしてシモンはこの女性のとった行動を理解することができなかったのでしょうか(44〜47節)
5.イエスは自分に対する愛を示したこの女性に何と声をかけられましたか(48節)。人々はこのイエスの言葉を聞いてどのような疑問を抱きましたか(49節)
6.イエスは最後にこの女性に何と言われましたか(50節)。イエスはこの同じ言葉を今日教会に集まって神に礼拝を献げている私たちにも語ってくださいます。私たちの人生でこの言葉をイエスから聞くことができることは、どのような意味があると言えますか。
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