2018.8.19 説教 「山上の栄光」
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聖書箇所
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マルコによる福音書9章2〜13節
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。
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説 教 |
1.使徒ペトロから話を聞いたマルコ
今日も皆さんと共にマルコによる福音書から学びたいと思います。このマルコによる福音書の著者とされるマルコは教会の伝承によればペトロの協力者として働いた人物だとされています。初代教会の活動を伝える使徒言行録にはこのマルコの名前が登場しています。この使徒言行録ではマルコはパウロやバルナバの協力者として彼らの伝道旅行に加わっています。しかし、彼はその旅の途中で何らかの理由より伝道活動から離脱してしまいました。後になってパウロはこのマルコの行動を問題視しています。このような勝手な行動をする者は自分たちの伝道旅行に連れて行くには相応しくないとパウロは考えたのです。そしてこのマルコを連れて行くか、行かないかで大切な協力者であったバルナバとパウロの間で論争が生じ、その結果、パウロとバルナバはこれ以後は別々に伝道旅行に出発することになりました(使徒15章36〜41節)。ただこのずっと後になってパウロがローマの獄中で記したとされるコロサイの信徒への手紙の中にはこのマルコの名前が再び登場しています。この手紙のパウロの言葉から考えると、当時獄中で自由を制限されていたパウロのためにマルコが懸命に協力して働いていたことが分かります(3章10節)。
ペトロとマルコの関係に関してはペトロの手紙の中でペトロが「わたしの子」(ペトロ一5章13節)とマルコを呼ばれています。ですからマルコの福音書に記された物語は彼がペトロから直接に聞き取った内容が多いとされているのです。つまり、晩年になったペトロが自分と主イエスとの出会いの物語を思い出しながらマルコに語ったことがこの福音書の土台となっていると言えるのです。
今日の物語でも「ペトロは、どういえばよいのか分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたからである」(6節)という言葉が記されています。おそらく、これもペトロが「本当にあのときは怖くて、自分には何もわからなった」とマルコに伝えたのではないでしょうか。ペトロはイエスの十字架と復活の出来事を体験し、その復活の証人として人生を歩むことで、かつてイエスが自分に語ってくれた言葉、自分に示された行動の本当の意味を理解することができるようになったのです。
イエスは弟子たちにご自分が十字架にかかって死なれるという救い主としての自分に与えられた使命を何度も予告され、教えられました。ところが、その話を聞いた弟子たちはイエスの言葉の本当の意味が分かりません。しかし、イエスはそのような弟子たちに何度も何度も諦めることなく、教えられ続けたのです。やがて弟子たちが自分の語った言葉の本当の意味を理解する時がやって来ることを信じてです。
このイエスの姿勢は私たちの伝道の働きにも学ぶ必要があると思います。福音を伝えている私たちの言葉を聞いても相手は必ずしもすぐにそれを理解し、私たちの期待する反応を示してくれるわけではありません。私たちがどんなに熱心に伝えようとしても、相手は関心を示してくれないばかりか、私たちに対して厳しい反発をしてくることもあります。しかし、神が働いてくださるならば、私たちの伝えた言葉の意味がその人たちにも分かるときがやって来るはずです。そのときまで私たちは私たちにゆだねられた神の言葉を伝え続けることが大切であると言えるのです。
2.自分が負うべき十字架とは何か
今日の物語は「六日の後」という言葉で始まっています。マルコが自分の記した福音書の中でこのように日数を数えるのは珍しいと言われています。それではどうしてマルコがわざわざここで「六日の後」という言葉を入れたのでしょうか。それは六日前に起こったの出来事と今日の物語が密接な関係にあることを教えようとしているからです。それでは「六日前」にいったい何が起こっていたのでしょうか。それはおそらくこの物語の直前に記されたイエスによる弟子たちへの「死と復活の預言」の箇所の出来事だと考えられています。ここでイエスはご自分を「メシア」つまり「救い主」と認め、信仰を告白したペトロに対して、メシアである自分がこれから何をされようとしているかを詳しく語られたのです。
ところが、この話をイエスから聞いたペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(33節)と福音書は語っています。ペトロには救い主が十字架にかかって死なれることなど受け入れることができないと考えたのでしょう。前回、ペトロがこのように発言したのは、彼が「死んだらすべてが終わりだ」と考えていたからではないかとお話ししました。つまり、救い主が死んでしまったら何の意味もないとペトロは考えていたと言えるのです。死んでしまったら終わり、私たち人間は普通であれば死という現実を前にして誰もが同様の結論に行き着くはずです。
しかし、ペトロがイエスの発言をいさめたことの背景にはもっと別な要素があったとも考えることができます。それは十字架など経験しなくてもイエスは救い主としての使命を全うできるとペトロが考えたからです。イエスの力があれば、わざわざ十字架で死ぬようなことをしなくても、簡単に神の国をこの地上に実現することができる、そうペトロは考えていたのではないでしょうか。
しかし、イエスはご自分が救い主としての使命を果たすには十字架の死を必ず経験しなければならないと語られているのです。そしてその上で、イエスは弟子たちにも「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(34節)と勧められたのです。十字架は死、あるいは死ぬような苦しみを意味する言葉です。しかし、その十字架を避けるのではなく、自ら負って生きることが救い主イエスにとっては必要であったのです。そしてそれはイエスを信じる私たちにも同じように必要であるとイエスは教えてくださったのです。今日の物語はその十字架がどうして必要なのか、そしてその十字架を負って生きる私たちの人生のゴールはどのようなものであるかを教えているのです。
3.十字架を負うことの意味は
①モーセとエリアの出現
「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(2〜3節)。
この時イエスの姿が弟子たちの見ている前ですっかり変わってしまったと福音書は語っています。その変化はこの世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど服は真っ白に輝いたと言うのです。これはイエスの姿がこの世のものではない、つまり天上の姿に変わったことを意味しています。そして弟子たちが驚かされたのはこのイエスの姿の変化だけではありませんでした。そこに旧約聖書の物語に登場するエリアとモーセが現れて、イエスと語り合っていたと言うのです。旧約聖書に親しむユダヤ人にとってモーセは自分たちに神の律法を伝えた重要な人物として信じられていました。またエリアは神の言葉を自分たちに伝えた預言者の中でも最も偉大な人物と信じられていたのです。ですからこの二人の登場は、旧約聖書全体の教えを象徴するものと考えられるのです。つまり、旧約聖書が律法や預言者たちを通して教えて来たものが、今この二人と語り合っているイエスであると言うことを表しているのです。この同じ出来事を伝えるルカによる福音書はこのときモーセとエリアが何を話し合っていたかという内容にまで説明しています。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9章31節)。つまり、イエスが十字架にかかって死ななければならないことこそ、旧約聖書を通して教えらえてきた神の救いの計画の実現であるということを示そうとしているのです。
ペトロはイエスの話を聞いて「そんなことは不必要だ。そこまでしなくても救い主は神の国を実現させることができる」と彼は考えました。だから彼はイエスをいさめようとしたのです。しかし、ここでのエリアとモーセの登場はこのペトロの考えを完全に否定しています。救い主が十字架にかかることは絶対に必要なのです。なぜならそれこそが神が立てられた救いの計画させる重要な出来事だったからです。
②ショートカットは存在しない
私はこの説教をいつもパソコンを使って作っています。パソコンを使っている人はご存知かもしれませんが、パソコンにはいろいろと便利な機能が付いています。その中に「ショートカット」というものがあります。ショートカットは割り当てられた特定のキーを一度押すだけで、本来だったらしなければならない面倒な作業を省略することができるのです。「ショートカット」というのは近道という意味で、パソコンにはその近道をするための裏技が数々存在するのです。
ペトロはおそらく、イエスの話を聞いて、「そんな十字架のような面倒なことをしなくても近道がある」と考えたのかもしれません。しかし、今日の箇所でも共通して語られていることですが、イエスが救い主としての使命を果たすためには十字架は決して避けることのできないものなのです。十字架を省略するようなショートカットはどこにも存在しません。なぜなら、十字架こそ神が私たち人間を救い出すために立ててくださった大切な計画の一部だからです。
これは私たちが担わなければならない「自分の十字架」についても同じようなことが言えと思います。神は私たち一人一人の人生にも計画を持っておられます。そしてその計画を実現してくださるのです。この神の計画の中には私たちにとっても「十字架」と呼べるような出来事が含まれているのです。できれば、そんな出来事は経験したくないという私たちが思うようなものがそれです。しかし、私たちの人生にも自分の十字架を避けるためのショートカットはありません。私たちの人生にも神の計画が実現するためにはその十字架を背負う必要があるからです。
キリスト教信仰は私たちの人生からすべての苦労や、自分が望まないことを取り去ってしまうようなショートカットを教えるものではありせん。おそらく、このショートカットを教えるのは信仰ではなく「魔術」と言ってよいものだと思います。「魔術」、それは文字通り悪魔のわざと考えることができます。悪魔はかつて荒れ野でイエスに対してこのショートカットの道を選べと誘惑しました。石をパンに変えてみれば、あるいは高いところから飛び降りてみれば、そして自分の言う通りにすればあなたは苦労などする必要がないと語ったのです。しかし、イエスはその悪魔の勧めをすべて退けました(マタイ4章1〜11節)。なぜなら、それは神の計画とは違うからです。信仰とは私たち一人一人がこの神の計画に従って歩むことができるようにするものです。神はそのために私たち一人一人が自分の十字架を負ってイエスに従って生きることができるように助けを与えてくださるのです。
4.私たちもイエスと同じ姿に変えられる
このとき起こったイエスの変化は何を意味するのでしょうか。それはイエスが十字架の死の後、復活されて救い主としての使命をすべて果たし終えた時に受けるべき姿を先取りしたものだと考えられています。このとき弟子たちはイエスから話を聞いて、「救い主が死んでしまったらどうなるのだろうか」と考えました。「それでは意味がない」。彼らはそう考えたからこそイエスが語られる十字架と復活の預言を受け入れることができなかったのです。だからイエスはそのような不安を抱く弟子たちに、自分が十字架にかかることは神の救いの計画が実現するためにあるのだと教えられたのです。そしてその計画が実現したときの姿を目に見える形で弟子たちに表されたのです。このとき弟子たちが見たのは救い主イエスの勝利のお姿であったのです。
ペトロはこの出来事を福音書を記したマルコに語りました。「あのとき私は恐怖のあまり、何が何だかよくわからなかった。しかし、今はわかる。あれはイエス様が救い主としてのすべての使命を終えた後に実現する栄光に満ちた勝利のお姿だったのだ。私たちはその姿をあのとき予め見せていただいたのだ…」と語り伝えたのです。
ある説教家はこのイエスの栄光の姿を取り上げて、この姿は私たちがやがて受けることのができる姿でもあると教えています。なぜなら聖書は私たちもやがてイエスに似た者とされると約束してくださっているからです(ローマ8章29節)。私たちがそれぞれ自分の十字架を背負ってイエスに従ったならば、私たちもイエスに似る者とされるのです。だからこそ、この物語で示されたイエスの姿は私たちが神からやがて受ける栄光の姿でもあると言えるのです。
二人の人が道を歩んでいます。その道は旅人には簡単ではない険しい場所がたくさんあります。決して楽に歩くことができる道ではないのです。この同じ道を歩く二人には全く違う点がありました。それは一方の人は自分がこの道をたどればいったいどこに行きつくことができるのかを知らないで歩いています。しかし、もう一方の人は違うのです。彼はこの道をたどれば必ず懐かしい自分の故郷に帰ることができることを知っています。そこでたくさんの人が自分の到着を待ってくれていることも知っているのです。だから彼は行くべき道がたとえ険しくても、その道を喜んで進んで行くことができるのです。私たちは自分の人生がたどり着くべき場所をあらかじめイエスから教えられています。だからたとえその人生に十字架のような困難な出来事があったとしても諦めることなく、目的地を目指して歩み続けることができるのです。そのような意味で今日の物語で示されたイエスの姿は私たちの人生の目的地を教え、希望を与えるものであると言えるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちの地上での人生の歩みは、私たちにとって決して簡単なものではありません。険しい道が私たちの行く手に待っていて、私たちの思いを挫かせようとすることが度々あります。私たちはそんなとき、あなたのことを忘れて、もっと簡単な近道はないかと探し始めてしまうこともあります。どうか私たちが歩むべき正しい道をいつも教えてください。そしてその道を歩むことができるように助けを与えてください。私たちがイエスの栄光に輝く勝利を姿を思い出すことによって、私たちの人生にも同じような勝利が約束されていることを信じて歩み続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちと高い山に登った時、イエスにどんな変化が起こりしたか(2〜3節)。
2.そこに現れてイエスと語った人たちはどのような人々でしたか(4節)。ペトロはこの光景を見て何とイエスに言いましたか(5節)。
3.この後、雲が現れて弟子たちはその雲の中で何を聞きましたか(7節)
4.イエスはこの出来事の後、弟子たちに何を命じられましたか(9節)。
5.この後、弟子たちはイエスに何を質問しましたか(11節)。どうして彼らはこんな質問をイエスにしたのでしょうか。
6.イエスは弟子たちのこの質問に答えてすでに「エリアは来た」と言っています。イエスは「エリア」の名前を使って誰のことを言っていると思いますか(12〜13節)
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