1.イエスの言葉を受け入れないペトロ
①あなたは誰?
最近、教会で洗礼を受けたばかりの信仰生活に燃えている一人の青年がある日、牧師のところにやって来てこう言いました。「先生。やっと自分を捨てることができました。自分を捨てるって本当に難しいですね。でも頑張った結果、イエス様の言葉通りにとうとう自分を捨てることに成功しました」。そう喜んで語る青年に牧師も素直に答えます。「それはよかったね…」。しかし、牧師は喜ぶ青年に続けてこう語りました。「ところで君は頑張って自分を捨てることができたと言うけれど。それなら、それを喜んでいる今の君は誰なの…?」。
今日はイエスが語られた「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)と言う言葉について少し皆さんと考えて見たいと思っています。いったい、「自分を捨てる」と言うことは私たちの信仰生活にとってどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。そして、もし私たちが自分を捨てることができたとしたら、いったい、その後の自分は誰になってしまうのでしょうか。できるだけ聖書の言葉に従って考えて見ましょう。
②聖霊によって実現した信仰告白
そもそも、この言葉は誰に対して、またいつイエスが語られた言葉なのでしょうか。そのとき、この言葉をイエスから直に聞いた人たちはどのような思いでこの言葉を聞くことができたのでしょうか。そのことについてまず考えて見ましょう。先日、私たちはこのマルコによる福音書から弟子のペトロが語った「あなたは、メシア(救い主、キリスト)です」と言う信仰の告白について学ぶことができました。弟子たちはここまでイエスに付き従い、その御業を身近で目撃し、また語られた教えを身近で聞くことができました。ところが、彼らはそれでもイエスの本当の姿を理解することができないでいたのです。その原因は彼らの心の目が、そして心の耳が閉ざされていたからでした。イエスの救いに出会う前の私たちもこの弟子たちと同じような状態の中にありました。聖書を読んでも、イエスを偉大な宗教家や世界史に残る偉人とは考えることができても、自分の人生を救ってくださる「メシア」であるとは信じることができないでいたのです。しかし、イエスはそのような私たちに聖霊を遣わして私たちの心の目を開き、聞こえなかった心の耳を聞こえるようにしてくださいました。私たちはそのイエスの働きによって「イエスこそ私の救い主」とペトロと同じように信仰の告白ができるようにされたのです。誰でもイエスの遣わされる聖霊の働きを経験することによってだけ、イエスを自分の救い主と信じることができるようにされるのです。
③イエスを従わせようとしたペトロ
そしてイエスはこのような信仰の告白をすることができた弟子たちに、さらに自分がこの地上で救い主として果たさなければならない使命を明らかにされました。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。
イエスは「あなたはメシア」と信仰の告白をしたペトロたちにご自身がこれからたどらなければならない十字架への道を詳しく語られました。ところが、このイエスの言葉を聞いたペトロはそのイエスの言葉を理解することができませんでした。だからペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)と言うのです。ペトロは自分の救い主であるはずのイエスに対して、「そんなことは言ってはいけません。どうかあなたは私の言う通りに従ってください」と言ったと言うのです。ペトロはおそらく救い主が死んでしまったら、どうにもならないと考えたのではないでしょうか。なぜなら地上の人間にとって死はすべての終わりであるからです。そして死は私たちの人生にとって敗北の象徴のような存在でもあるのです。だから、ペトロは「救い主はそんなことになってはならない」と考えたのでしょう。
しかし、イエスはこのペトロを叱り「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節)と言うような激しい言葉で彼を非難しました。そしてこの言葉の直後にイエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言う言葉を語られたのです。
イエスは「わたしの後に従いたい者は」と語られています。イエスを救い主と信じると言うことは「イエスの後に従う者」になることだと言えるのです。ところが、このときのペトロは全くこの言葉とは逆の態度を示しました。ペトロはイエスの前に立って、「わたしに従ってください」と語ったと考えることができます。だからイエスはペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ったのです。なぜならペトロはイエスを通して今、明らかにされた神の計画に従うのではなく、むしろイエスに「自分の計画に従うように」と語ったからです。
リジョイス誌ではここ数日にわたってイエスが教えてくださった「主の祈り」が取り上げられて、教えられています。その中で私たちは「あなたの御国が来ますように」と祈るのではなく、いつも「自分の国が来ますように」と祈ってはいなかという問いが語られていました。私たちは自分の思った通りのことが実現してほしいと願っています。そしてそのために神に祈り、助けを求めることが多いのではないでしょうか。しかし、それはあたかも「自分の国が来ますように」と祈っているのと同じだとリジョイス誌は私たちに教えているのです。しかしもし、この私たちの献げる都合のよい祈りがすべて実現して、私たちの思い通りの世界が実現したとき、私たちは本当にそこで救いを受けることができるのでしょうか。それは不可能です。なぜなら私たちの本当の救いはイエスによってもたらされる神の国の中で実現するからです。
2.自分を捨てる
①全世界を手にいれても意味がない
イエスが語られた「自分を捨てる」と言う言葉は自分がどこかに行ってしまうことでも、自分の存在がなくなってしまうことでも決してありません。なぜならば神に愛され、イエスの命によって買い取られた「私」と言う存在はいつまでも残るからです。イエスがここで「捨てろ」と言っているのは「自分の国が来ますように」と祈り願うような自分中心の生き方を捨てなさいと言うことなのです。なぜなら、自分の願望がすべて実現したとしても私たちは決して幸せになることはできないからです。イエスはそのことを次のような言葉で表現しています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(36節)。自分の国が実現することをイエスは「全世界を手にいれる」と言う言葉で言い表しているのです。
ルカによる福音書に登場するたとえ話の主人公「愚かな金持ち」(ルカ12章13〜21節)は自分の畑が豊作になってたくさんの作物を手に入れることができたことを心から喜びました。彼は「これで一生、遊んで暮らせる」と有頂天になったのです。ところがその金持ちは有頂天になったその日の晩に突然死を遂げてしまいます。彼が大切に集めたものはすべて自分には何の役にも立たなくなってしまったのです。「自分の老後のため」と言っていろいろなものを貯め込んでも、結局、本人が死んでしまうと残されたものはゴミの山と言う悲劇が繰り返されます。イエスはそんなゴミの山を築くために私たちの大切な人生を使ってはならないと私たちに教えているのです。そしてそれが「自分を捨てる」と言う言葉の意味だと言うことできます。
②神から与えられたものをどのように使うのか
社会学者のマックス・ウェーバー (Max Weber)は宗教改革者カルヴァンの教えこそが資本主義を生み出す原因の一つとなったと教えたと言います。なぜなら、中世のヨーロッパを支配して来たカトリック教会は人が世俗の働きに携わることは卑しいことだと教えたからです。むしろ人は司祭や修道士のような聖職者になって、一生を祈りや瞑想に励み、神のために人生を使うことが大切だと教え続けてきたのです。しかし、宗教改革者カルヴァンはカトリック教会が「世俗の働き」と考え、卑しいものだと教えたこの世の労働もまた、神の栄光をあらわすために大切な業の一つであると教えたのです。このように宗教改革者たちによって今まで評価されなかったこの世の働きが信仰的にも肯定されることになったのです。
しかし、カルヴァンが教えたのは私たちがこの世の働きの中で巨万の富を得て、資本家になることではありませんでした。カルヴァンが強調したのは私たちが自分の人生で得たそれらの富を神のために用いることでした。なぜなら私たちの持ち物のすべては神から与えられてものだからです。だから私たちには神から与えられたものすべてを神の御心に従って使う使命が与えられているのです(クリスチャン・スチュワードシップ)。
神は私たちに救い主イエス・キリストを遣わして、私たちを救ってくださいました。そして救われた私たちの人生を豊かに祝福してくださるのです。それなら私たちはその人生を何のために用いるべきなのでしょうか
3.イエスに従う生活
①ネロの迫害を受ける人々に
このマルコによる福音書は四つの福音書の中で最初に記された書物であると考えられています。おそらく紀元70年に起こったエルサレム陥落の時代以前にすでにこの書物の原型は誕生していただろうと考えられています。そしてこのマルコによる福音書がそのころ、ローマの都で記されたと考えられるなら、ちょうどその時代はローマ皇帝ネロによるキリスト教迫害(紀元64年)の時代と重なるのです。皆さんも映画などでこの時代に起こったキリスト教徒への厳しい迫害の物語を知っておられるかも知れません。ネロの厳しい弾圧にもかかわらず信仰を捨てないクリスチャンたちがローマの円形競技場に集められて、ライオンに食い殺されて命を落としたと言う話は有名です。聖書学者たちの見解によれば、この激しい迫害の中にある信仰者に向かってマルコによる福音書が記されたと考えられているのです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34〜35節)。
当時のキリスト者にとって「自分の十字架を背負う」と言うことは信仰を守り通すことで受けるこの世でのすべての不利益をも、甘んじて受けると言うことだと言えるのです。そして福音のために殉教の死を遂げた人々は決して、自分の命を無駄にしたのではなく、彼らは信仰を貫くことで本当の命を得ることができたのだと福音書はイエスの言葉を借りて教えているのです。だからこのマルコによる福音書は迫害の中で、命がけで信仰を守る人たちに「あなたたちの生き方は間違っていない。あなたたちは地上で最も大切なことのために今自分の命を使っている」と教え、励ましたと考えることができるのです。
②自分を捨て、自分の十字架を負う生活とは
私たちの生きている現代は幸いなことに、このネロの時代のように文字通り信仰のために自分の命を失うと言うことはありません。私たちは自分の意思で自由に信仰生活に入ることができ、またその信仰生活を送ることができています。これは私たちにとってどんなに幸いなことでしょうか。この信仰の自由も神が私たちに与えてくださった祝福であると言うことができるはずです。しかし、だからと言ってこのマルコによる福音書に書き残されたイエスの言葉は私たちの今の信仰生活と直接に結びつかないと簡単に片づけてしまうことはできません。なぜなら、イエスは私たちにも「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招いてくださっているからです。
私たちが「自分を捨て、自分の十字架を背負う」目的は私たちがイエスに従って生きるためです。つまり私の人生を最も有効に、また価値あるものとして用いてくださるイエスに自分の人生を委ねて行く生活こそが「自分を捨て、自分の十字架を背負う」生活であると言えるのです。
私たちはそのためにどうしたらよいのでしょうか。重要なことは私たちがいつも、イエスの後に従うと言うことです。そしてそのために私たちにとって大切なのはいつもこのイエスから目を離さないで生きると言うことです。なぜなら、イエスから私たちの目を離してしまったら、すぐに私たちはどこかに迷い込んだり、またイエスの前に出て、イエスを自分に従わせようとする過ちを犯してしまうからです。私たちが持ち続けて来た私たちの古い、生まれながらの性格がそうさせるのです。だから、私たちは礼拝を中心とする信仰生活を大切にしなければならないのです。なぜなら、イエスは礼拝の中で語られるみ言葉を通して自分がどこにいるか、そして私たちがどこについて行けばよいかを教えてくださるからです。
私たちが自分の生活が守られるように、自分の健康が守られるように祈ることは決して悪いことではありません。そして神は私たちの献げるそのような祈りを決して無視されるお方ではありません。いつも、私たちの祈りに答えて私たちに最善なものを与えてくださるのです。しかし、私たちがたとえ全世界を得たとしても、それで私たちが幸せになれるわけではありません。肝心なことは神が与えてくださった私たちの命を、私たちが何のために使うのかということです。そのためにイエスはいつも私たちの前に立ってくださって、私たちが生きるべき道を教えてくださるのです。私たちもこのイエスの招きに答えて、イエスに後に従う信仰生活をこれからも続けて行きたいと思うのです。
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