1.ザアカイの好奇心
①教会に入り口があるか
先日、教会の伝道について書かれた本を読んでいてとても面白い言葉に巡り合いました。実はその本の最初の章は「入り口を作ろう」と言う題名で始まっています。この言葉を聞いて「入り口って、教会には大きな入り口がちゃんとあるじゃないか…」と思われる方もおられるでしょう。実は、この本が言う「入り口」とは建物に付いている、あの入り口のことではありません。別の言葉で簡単に言えば「きっかけ」と言うことを語っているのです。つまりこの本の著者は、人々を教会に導くきっかけが大切だと教えているのです。なるほど、そうですね。私たちの出会いは相手が人であっても、また神であっても何らかの「きっかけ」があって始まるものです。この本は今まで教会に行ったことがない人が教会に入ることのできる「きっかけ」を作ることが必要だと言っています。そしてそれを「入り口を作ろう」と言う言葉で表現しているのです。皆さんは、どんなきっかけで教会に行くことになったのでしょうか。またどんなきっかけでキリスト教信仰に入ることになったのでしょうか。
この本の中で、教会が何気なく使っている言葉にももっと私たちは考える必要があることが教えられています。たとえば、私たちは伝道集会や礼拝を知らせる看板やチラシに「どなたでもお越しください」と言う言葉を書くことがよくあります。「誰でも教会の集会に気軽に来てほしい」と願ってそう書くのですが、その本の著者はそれがいけないと言うのです。それを表すならば、むしろもっと具体的に「信者でない方も参加できます」と書けばよいと言うのです。そうすれば普段は「自分は教会のようなところは縁がない人間だ」と思い込んでいる人が、「自分でも中に入っていいのか」と思うかもしれません。それがきっかけになると言うのです。確かに多くの人は教会の集会や特に礼拝は「信仰を持った信者だけが参加するところだ」と考えているかもしれません。そのように思っている人々に「信者でなくてもだいじょうぶです」と書けば、その人たちが教会に入ることができる入り口が作られたと言うことになるわけです。
②小男ザアカイと徴税人
私たちはこの伝道礼拝で毎月、イエスに出会った人々の話を聖書から学んでいます。それぞれの話に登場する人はそれぞれ違ったきっかけによってイエスと出会っています。今日私たちが取り上げるお話に登場する人物はザアカイと言う一人の男性です。 このお話は大の大人が子供のように木に登ったという大変ユーモラスな物語としてよく人々に知られています。今日のお話の題名を「小男ザアカイ」としました。聖書はその登場人物の身体的特徴を記すことはあまりありません。だから私たちは「イエスはどんな姿をしていたのだろうか?」、「ペトロはどうだったのか…?、パウロは?」と想像するしかないのです。しかし、このお話の主人公であるザアカイに関しては「背が低かった」(3節)と言う特徴がちゃんと記されているのです。つまり、このザアカイとイエスとの出会いのきっかけにはザアカイの身長が普通の人よりも低かったこと、彼が「小男」であったということが影響していると考えることができるのです。
私は背が低い人の悩みをあまり知りません。他の人のこの箇所を説教している本を読んでいて、背が低いというのは親から引き継いだ遺伝のようなもので、自分ではどうすることもできないものだと言っていました。だから、ザアカイはそんな風に自分を生んだ親を恨んでいたかもしれません。そして神にさえも不満を抱いていたとも考えることができると言うのです。ザアカイは自分の背が低いと言う劣等感を持って生きていたとも想像できます。
福音書はこのザアカイが「徴税人の頭で、金持ちであった」と記しています。当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配の下にありました。そのローマは支配地域に住む住民から税金を納めされていたのです。その徴税の作業を請け負っていたのがこの「徴税人」と呼ばれる人々です。彼らはユダヤ人でありながら、ローマ政府に代わって人々から税金を徴収する務めを行っていました。この徴税人の収入には一つのからくりがありました。実はローマ政府は彼ら徴税人たちに対して正式な給与を支払うことはなかったのです。その替わり、徴税人は人々から集める税金の金額を自分で自由に決めることのできる特権を持っていたのです。つまり、当時の徴税人たちはローマ政府に納める金額だけではなく、自分の懐に入れる金額も付け加えて、人々から税金を徴収していたのです。ザアカイが金持ちであったのは、「税金」と言う名のもとに、かなりの額の金銭を人々から巻き上げた結果であったと言ってよいのです。
ザアカイの住むエリコの町は旧約聖書にもたびたび登場する有名な町です。ここには昔からオアシスがあり、たいへん栄えた町であったようです。されにこの町は交通の要所にあって、昔から多くの商人が行き交う場所でもあったようです。徴税人は彼らから通行税と言って税金を取ることが許されていました。ですからエリコの町は徴税人にとっては税金を集めやすい、大金を手にすることのできる好都合な場所であったと言えます。
心理学者は劣等感を持って生きる者は、その劣等感をカバーするために何か別の場所で自分が他人よりも勝ることができる状況を作りだそうと考えると教えます。もしかするとザアカイが金持ちになったのは、自分の背が低いと言う劣等感を克服するためだったのかもしれません。ザアカイは身体的にはいつも他人から見下ろされる立場にありましたが、彼は金持ちになることでむしろ人々を見下すことができると考えたのかもしれません。
2.準備された出会い
ある日、のエリコの町にイエスがやって来られると言うニュースがザアカイの耳にも入りました。するとザアカイは「イエスがどんな人か見ようとした」と福音書は説明しています。どうしてザアカイがイエスを見たいと言う好奇心を抱いたのかは詳しく分かりません。おそらく当時、イエスの噂は多くの人に伝わっていたはずです。しかし、人々の伝えるうわさは必ずしも正しい情報を知らせるものではありません。だからザアカイはその噂の真偽を確かめたいと思ったのかも知れません。またこの直前の物語にはエリコの町近くで盲人の目が見えるようにされるという奇跡がイエスによって起こされています(18章35〜43節)。このうわさもザアカイの耳に届けられていたのかもしれません。そしてそれらの噂がザアカイの好奇心を一層刺激したのでしょうか。しかし、ザアカイはこの時点では直接にイエスに会いたいと願っていたわけではないと言うことがこの物語を読むと分かります。エリコの町の多くの人々と同じようにザアカイも見物人の一人に過ぎなかなかったのです。
しかし、このザアカイを一人の見物人からイエスとの出会いに導く「きっかけ」が生まれました。なぜなら、ザアカイがイエスを見物しようと町に出ると、そこはすでに見物人で一杯になっていたからです。背がある程度高い人ならそれでも、後ろから背伸びをしてイエスが通りかかる姿を見ることができたはずです。ところが、ザアカイにはそれが不可能でした。なぜなら彼は背が低かったからです。ですからザアカイはどんなに背伸びをしても、何も見ることができないのです。こんなときには前にいる人にお願いして、場所を開けてもらって見えるところに行けばよいのです。しかしザアカイにはそれができませんでした。なぜなら、彼は人々から嫌われていたからです。そのことはこの後、イエスが「ザアカイの家に泊まりたい」と言ったときに起こった人々の反応からも分かります。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7節)と彼らは語っています。罪人のザアカイに、悪人のザアカイに親切に場所を譲る者は誰もいないのです。ましてや、ザアカイの方も人々に頭を下げてお願いするなどという気持ちはさらさらありませんでした。
それでザアカイは「イエスを見るために、先回りし、いちじく桑の木に登った」と言うのです。私はいちじくは知っているのですが、いちじく桑と言う植物をあまり知りません。調べて見るとこの木にはいちじくに似た実がなるのですが、その木の幹はいちじくよりずっと太く、人が昇ることができるものだったようです。その上、このいちじく桑の木は大きな葉で覆われていました。だからザアカイはその木の上に昇っても、自分の身を隠してイエスを見学することができたのです。しかし、彼がこのいちじく桑の木に登ったことで、彼の人生を大きく変えるイエスとの出会が生まれました。
ここまで見て分かるのは、ザアカイがイエスに出会うきっかけになったのは、彼が「背がひくかった」からであることが分かります。彼の背が低かったために彼はいちじく桑の木に登ることになったからです。ザアカイの劣等感の源であり、自分の心に残された傷のような部分がこの出会いでは大切な役目を果たしているのです。
私たちもそれぞれ完璧な人間ではありません。誰にでもどこかに劣等感があるはずです。そしてその劣等感を補うために私たちは日々、努力して来たのです。ザアカイは自分の劣等感を補うために金持ちになりました。しかしそれは彼の心を決して満たすものではありませんでした。なぜなら、彼は金持ちになることで、どんどん孤独になって行ったからです。
3.失われた者を捜す
①神の恵みと愛を示す予定論
さていちじく桑の木の上で様子を見ていたザアカイが驚く出来事が起こります。それはちょうどそのいちじく桑の木の下をイエスが通りかかると、彼は上を見上げて木の上のザアカイに語り掛けたからです。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)
どうしてイエスがザアカイのことを知っていたのか、また彼が木の上に隠れて見物しているのをイエスが見つけることができたのか、その理由はわかりません。ただ、イエスの語られた言葉を直訳すると「今日は、あなたの家に泊まることになっている」と言う言葉になります。つまり、イエスの側では最初からザアカイの家に泊まることが予め決まっていたと言う言葉になっているのです。いちじく桑の木に登ったザアカイとその下を通りかかったイエスとの出会いは一見、偶然のように思えます。しかし実はこの出会いは偶然ではなく、最初から計画されていたものであったことがこのイエスの言葉で分かるのです。
先日の修養会の講演の中で長田先生が改革派教会の大切にしている予定論の教理を巡って誤解される方がいると言うお話をされていました。私はあまり予定論をテーマにして皆さんにお話することは今までありませんでした。しかし私の聖書理解やその信仰の中心にはいつもこの予定論と言う大切なテーマが隠されています。つまり、皆さんに私は今まで予定論と言う言葉を語らなくても、その内容についてはお伝えしてきたと思っているのです。予定論を誤解する人の多くは、予定論を運命論のように考えてしまうようです。自分の知らないところで、すべてのことが予め勝手に決められえている、自分がどんなに努力しても、それを変えることができないと言うものが運命論の内容です。自分に関係なく自分の人生を神が勝手に決めてしまっていると言う教えが予定論だと勘違いしているのです。しかし、改革派の神学者たちはそのような意味で予定論を教えることはありませんでした。それでは改革派教会は予定論をどのように理解してきたのでしょうか。それは自分と神と出会い、自分が神の救いを受けたという事実が100パーセント神の恵みの御業によるものであると言うことを表すために教えられるものなのです。
ザアカイとイエスとの出会い、この出会いを可能にしたのもイエスの一方的な御業によるものであること、それが「今日あなたの家に泊まることになっている」と言うイエスの言葉が語っている意味なのです。イエスのザアカイに対する愛がこの出会いの出来事を可能にしたのです。その点で予定論は私たちに対する神の深い愛を語るものだと言えるのです。
②失われた者を探す勤め
アウグスチヌスと言う古代の神学者は「私たち人間は神に向けられて造られたために、神のもとに憩うまでは真の安らぎを受けることができない」と語りました。ザアカイとイエスとの出会いはザアカイが今まで探し求めていたものを見出すことができた出会いとなりました。今までどんなにお金を儲けても満たすことができなかった、彼の心の空洞がこの出会いによって満たされたのです。そのザアカイの喜びがザアカイの語った言葉の中に示されています。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(18節)。
今まで人を苦しめてもお金を貯めることがザアカイの人生の目標でした。しかし、イエスとの出会いによってザアカイの人生は変えられたのです。本物を手に入れることができた人には偽造品は必要ありません。ザアカイにとって財産は自分の心を本当に満たすものに巡り合えなかったために、買い求めた偽造品のようなものだったのです。だから、その偽造品の必要がなくなったザアカイは自分の財産を人々に返すと言い出したのです。
その言葉を聞いてイエスは次のように語りました。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9〜10節)。
アブラハムは旧約聖書に登場する有名な信仰者の一人です。神はこのアブラハムに彼の子孫を祝福すると言う約束を語られました。「この人もアブラハムの子なのだから」と言う言葉は、ザアカイも神の約束に含まれている者だと言うことを示しています。つまり、ザアカイも神の愛の対象の一人だと言うのです。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言う言葉は、イエスがキリストとしてこの地上に来てくださった目的を明確に語っています。何か失くしたら新しいものを買う、それが私たちがよくする方法です。しかし、神が造ってくださった人間の場合にはそれはできません。私やあなたの代用品はどこにもいないのです。だから神はご自分の独り子イエスをこの地上にキリストとして遣わして私たちを捜しに来てくださったのです。
私たちと神との出会い、私たちとイエスとの出会いには必ず「きっかけ」があります。そのきっかけはお互いに違っていても、この出会いは私たちに向けられた一方的な神の愛によって可能となったということに違いはありません。この神との出会い、本物との出会いを私たちは教会の礼拝の中で繰り返し体験しています。このように私たちの人生を変える出会いが神の働きかけによって続けられていることを心から感謝したいと思います。
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