2018.9.23 説教 「一番偉いのは誰か」


聖書箇所

マルコによる福音書9章33〜37節
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


説 教

1.弟子たちの関心

 今日も皆さん共にマルコによる福音書の伝える主イエスと弟子たちの物語から学びたいと思います。今日、取り上げる物語は「一行がカファルナウムに来た」、そして彼らは「家に着いた」と言う言葉から始まっています。マルコはここでカファルナウムの家と言う言葉を使うだけでそれ以上詳しくこの家について説明していません。これはカファルナウムとここに登場する家がイエスや弟子たちにとってはよく知られていた家であったことを表していると考えることができます
 カファルナウムはかつてペトロやヨハネたちが暮らしていた町であり、ガリラヤ湖の漁師だった彼らがイエスの弟子とされたのもこの町でした。そしてこのカファルナウムの町にはその弟子たちの家があったと考えられています。つまり、ここでイエスと弟子たちは自分たちの家に戻って来たと言ってもよいのです。弟子たちにとってこのカファルナウムの町には、自分たちが残して来た家族や友人や知人がいるところでした。ですから「久しぶりに家に帰ることができる」。そんな気持ちを彼らは抱きながら故郷に帰って来た、それがこの物語の発端となっているのです。
 ところが福音書はこの時の彼らの関心は「誰が一番偉いのか」と言うものだったと報告しています。もしかしたら、弟子たちは故郷の人々の前で偉くなった自分を示したいと思っていたのかも知れません。だから誰が自分たちの中で偉いのか家族や友人たちに再会する前にはっきりさせておこうと道の途中で論じ合っていたと考えることができるのです。
 しかし、このような議論をすることが彼ら弟子たちにとっても決して好ましいことではないと言うことが彼らにも分かっていたようです。なぜなら彼らはイエスから「途中で何を議論していたのか」と尋ねられたとき、黙ってしまったからです。彼らは後ろめたい気持ちがあったからこそ自分たちが何のために議論していたのか、その議論の中身をイエスにすぐに伝えることができなかったのです。弟子たちがこのとき「黙ってしまった」のは、自分たちが熱心に議論していた内容を主イエスに聞かれたらはずかしく思ったからです。だから彼らははっきりとイエスに答えることができなかったのです。
 しかし、イエスはこのとき弟子たちが道の途中で何について議論していたのかをよく知っていました。おそらく、興奮した弟子たちの議論の声は一緒に歩いていたイエスには筒抜けであったのだと思われます。このときイエスは弟子たちにあえて尋ねなくても、彼らが何について議論していたかをよく知っていました。だからイエスはそのような弟子たちに教えるべきことがあることを感じて、彼らにあえて「途中で何を議論していたのか」と尋ねられたのです。

 「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。」これは当時の律法の教師が弟子たちに大切なことを教えるときに取る態勢でした。そしてこの時、家の中心にイエスが座り、その周りに弟子たちが集められます。ここで弟子たちにとって大切なことをイエスは教え始められたのです。

2.イエスのリーダーシップ

 イエスは弟子たちに次のように語られました。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)。

 誤解してはならないのは、イエスはここで「偉くなってはならない」と私たちに教えているのではないと言うことです。ですからキリスト教信仰を持っている者が企業の社長になることも許されますし、国会議員になることもできるのです。実際にオランダの改革派教会の神学者でアブラハム・カイパーという牧師がいましたが、彼はオランダの総理大臣にまでなった人物でした。様々な集団には必ずその集団を導くリーダーが必要です。イエスはここで弟子たちにリーダーになってはならないと言っているのではないのです。むしろ、イエスが強調しているのはそのリーダーがどのように人々を導こうとするのかと言う方法、つまり言葉を替えればリーダーシップについて語っているのです。
 イエスがここで語っているリーダーシップはイエス自身がいつも弟子たちに対して行って来たものでした。イエスはかつて弟子たちを集めて、彼らの足を洗おうとされたことがあります(ヨハネ13章1-20節)。このとき弟子たちはイエスが自分たちの足を洗おうとされる姿を見て大変驚いたと聖書には記されています。それは当時、足を洗うのは家の中でも最も身分が低い者たちがすることになっていたからです。弟子たちは自分たちが一番尊敬し、また仕えようとしているイエスがしもべのような行動を示したことに驚いたのです。その上でイエスは「あなたがたも同じようにするよう」と弟子たちに勧め、自分が行ったことはそのための模範なのだと教えられたのです(同14〜15節)。
 イエスは私たちに仕えるためにこの世に来てくださいました。弟子たちの足を洗ってくださったように、イエスは私たちの罪を洗い流し、私たちを清い者とするために十字架にかかり、その救いの御業を成し遂げてくださったのです。私たちの主イエスは私たちに仕えてくださることでそのリーダーシップを発揮されたのです。そして私たちにも同じようにするようにと模範を示されたと言うのです。
 よく現在のアメリカの大統領は「アメリカ・ファースト」と言う言葉を繰り返して語ります。おそらく口にはしなくても他の国のリーダーたちも同じような思いを抱いているはずです。世界の多くの指導者たちは自分の国がファーストだと思って行動しようとしているのです。世界中でどの国が偉いかと言う議論が絶え間なく起こっているのが現代の様相の一つであると言えるのです。しかし、そのために世界では争いが絶えず起こり、国家間の緊張も高まって来ているのです。
 このような国際社会の流れが誤っていると批判する私たちでさえ、「誰が偉いか」と言う議論からまったく無関係に生きているとは言えません。様々な集団で、あるいは私たちの身近な家庭でもこのような議論が起こっているからです。そのようなこの地上の世界でイエスが示したリーダーシップの模範こそ、むしろ世界を一つにし、私たちの国家や様々な集団、そして家庭を一つにすることができる原理であることを福音書は私たちに教えようとしています。

3.子供を受け入れる者は私を受け入れる
①誰が一番役に立つのか

 しかし、私たちはあえて主イエスに教えていただかなくても誰が偉いかと議論することが、自分たちの内で誰がファーストかと議論し、そのために争うことが、誤っていることを知っているのかもしれません。だから私たちもイエスに「何を議論していたのか」と聞かれたときの弟子たちと同じように沈黙せざるをえないのです。ところが、私たちはそれが誤りだと分かっているのに、議論を止めることができません。争いから手を引くことができないのです。それはどうしてでしょうか。なぜなら、この「誰が偉いか」と言う問題から私たちが解放されることは簡単なことではないからです。
 「誰が偉いのか」、この議論はそのまま「誰が一番役に立っているか」と言う問題に結びついていきます。なぜなら「誰が偉いか」と言うことは「誰が一番、役に立つ存在か、誰が一番、価値がある人間なのか」と言う言葉でも置き換えることができるからです。おそらく、弟子たちは自分たちの中で主イエスに一番、価値がある存在として評価されている者こそが一番偉いと考えていたはずです。もしかしたら、弟子たちがこのとき黙ってしまったのは、主イエスが自分たちの中で誰を一番お気に入りなのか、一番価値がある弟子だと思っているのかをはっきり言われることを恐れていたかもしれません。
 このように私たちがいつも問題にしている「誰が価値があるのか」、「誰が一番、役に立つのか」と言うことについて、イエスはさらにメスを入れ、その誤りを正すために弟子たちに教えを語られました。

②子どもとはどのような存在か

 「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(36〜37節)。
 突然、ここで一人の子どもが登場するので、これは誰の子どもかと考える人もいます。この家がペトロの家であればペトロの子どもではないかと言っている人もいるのです。しかし、この子供が誰がと言うことよりも大切なのは、イエスは何のためにここで子どもの手を取り、弟子たちの真ん中に立たせて、抱き上げられたのかと言うことです。イエスは「このような子供の一人を受け入れなさい」と弟子たちに語るためにここで一人の子ども抱き上げられたのです。それは、この子どもを受け入れた者は、主イエスを受け入れる者であり、そのイエスをこの世に遣わされた父なる神を受け入れることにつながると教えるためでした。
 それでは「子どもを受け入れる」とはいったいどのような意味を持っているのでしょうか。これは子どもが好きか、嫌いかというようなことを尋ねているのではありません。むしろ子どものような存在をどのように考えるのかと言うことを尋ねていると言えるのです。
 このことを理解するためには当時のユダヤ人たちが持っていた価値観を理解することが必要になります。当時のユダヤ人は人間の価値を神の律法を基準に考えたと言われています。つまり、神の律法をよく知っていて、その上でその律法に忠実に従うことのできる者こそが最も価値のある人間であり、神はそのような人間を評価し、受け入れてくださると考えていたのです。そしてこの評価の基準に照らした場合、子どもは律法もまだほとんど理解していませんし、ましてやその掟に従うこともできないために価値のないものと判断されていたのです。つまり当時の人々は、子どもは役に立たない、無価値な存在だと考えられていたのです。ですから子どもを受け入れるとは、人々から価値のない存在と判断されている者を受け入れると言うことになるのです。

③イエスによって示された神の価値基準

 神は私たちが役に立つから受け入れてくださるのではありません。むしろ、罪人であって神のために生きる能力を失っている私たちは皆、神にとって役に立たない存在、無価値な存在でしかないからです。しかし、その私たちを受け入れるために、父なる神はイエスをこの地上に救い主として遣わしてくださったのです。神の愛は人間の価値観とは相容れないところがあります。だからこそ、私たちはこの世の価値観を基準として人を見るのでなく、子どもを抱き上げて弟子たちに示されたイエスのまなざし、イエスの教えを通して、神の価値観とその愛を理解する必要があるのです。
 日本でも「生産性がないから、価値がない」という主張をする人が最近問題になっています。おそらく、この話が全く見当はずれのことを言っていれば多くの人がこれほど問題にすることはなかったはずです。なぜ、これほどまでこの主張が世間で問題になったのでしょうか。それは私たちも同じような価値観の元に生きているからです。姥捨て山の伝説はこの価値観がずっと昔からこの日本を支配して来たことを物語っています。しかし、聖書の世界に姥捨て山伝説はありません。なぜなら、神は生産性で人間の価値を判断することはないからです。

4.神に造られた人間の本当の価値

 西条八十と言う詩人が作った歌に「カナリヤ」と言う童謡があります。この歌は「歌を忘れた カナリヤを どうしたらよいのか」と言うセリフを繰り返し歌います。歌を忘れたカナリヤ、それはもうカナリヤの価値を持っていない無価値な存在に過ぎません。だからこの歌はそのカナリヤを「うしろの山にすてましょうか」とか「せどのこやぶにうめましょうか」とか、あるいは「柳のむちでぶちましょうか」と歌っているのです。しかし、この詩人はそのすべてを否定します。そして最後にこう歌います。「歌を忘れた カナリヤは ぞうげの舟に 銀のかい 月夜の海に 浮かべれば 忘れた歌を 思い出す」と。忘れているならば、その歌を思い出せるところにいけば、かならずその歌を思い出すと詩人は語るのです。
 私たち罪人は確かに神の前で役に立たない存在かもしれません。しかし、私たち人間は本来神に造られたものであり、私たちは素晴らしい価値を持っているのです。そして私たちが持っている人間としての本当の価値は、私たちが本来あるべき場所に戻るときに発揮することができるのです。その私たちがあるべき本来の場所に私たちを戻すためにやってきてくださったのが救い主イエスなのです。
 ですから子どもを受け入れるとは、価値のない私たち罪人をそのままで受け入れてくださった神の愛を受け入れることにつながるのです。そして、この愛を受け入れる者は、神が造ってくださった本来の人間の価値を取り戻すことができるのです。私たちはこの福音の内容を今日の物語を通しても確信することができるのです。


祈 祷

天の父なる神様
 あなたの私たちに対する愛を知らず、「誰が一番偉いのか」と言う議論に明け暮れ、他人の押しのけても自分の存在を示そうとする私たちです。あなたはそのような私たちに仕える者の道を教えてくださいました。私たちがあなたの愛の中に憩い、あなたから力を受けて、信仰者としての正しいリーダーシップを発揮することができるようにしてください。この世の価値観に振り回されて、自分の価値を見失って苦しむ者に、あなたの福音を伝えることができるように私たちを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスと弟子たちの一行はこのときどこの町に着きましたか。この町はイエスや弟子たちにとってどのような町であったのでしょうか(33節)。
2.ここでイエスは弟子たちに何を尋ねましたか(33節)。
3.この質問に対する弟子たちの対応はどのようなものでしたか。弟子たちなぜこのときそのような態度をとったのでしょうか(34節)。
4.このときの弟子たちの議論は何をめぐって起こったものでしたか(34節)。
5.このような議論をしていた弟子たちにイエスは何を教えられましたか(35節)。あなたはこのときイエスが示されたリーダーシップの原則をどのように思いますか。
6.次にイエスは弟子たちに教えるためにどのような行動をしましたか(36節)。
7.イエスは「子供の一人を受け入れる者は」誰を受け入れることになると教えてくださいましたか(37節)。
8.どうして「子供の一人を受け入れる」ことがそんなにも大切なのでしょうか。