2018.9.23 説教 「味方なのか、敵なのか」


聖書箇所

マルコによる福音書9章38〜50節
38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」


説 教

1.ヨハネの報告
①悪霊を追い出すことをやめさせたヨハネ

 皆さんは自分に厳しく、他人に対しては優しい方でしょうか。それともその反対に他人には厳しいが、自分には優しいと言うタイプの方でしょうか。おそらく、私を含め多くの人は後者の部類に属すると思っているかもしれません。実は、今日のお話の中でイエスは私たちに対して他人に対しては寛容な態度で接することが大切であることを説く一方で、キリストの弟子として生きている私たちには厳しい態度で自分自身を見つめることを求めています。今日はそのイエスの教えについて皆さんと共に考えて見たいと思います。
 この物語の始まりは弟子のヨハネが次のような報告をイエスにしたところから始まっています。

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38節)

 ご存知のようにイエスは様々な人々から悪霊を追い出すという御業を行いました。当時の人々の考えでは病気も悪霊が引き起こすものだと考えられていたのです。私たちは悪霊と聞くと映画の「エクソシスト」や、その他のホラー映画に登場する怪しげな現象だけを思い出しがちですが、当時の人々にとってはもっと日常的な問題がこの「悪霊のしわざ」として解釈されていたようです。ですからイエスが人々の病気を癒されたことも「悪霊を追い出した」と見なされていたと言う可能性もあるのです。
 イエスだけではありません、実はイエスの弟子たちも悪霊を追い出すことができていたようです。なぜなら、イエスが伝道旅行に出発する弟子たちに悪霊を追い出すことのできる権能を与えてくださったからです(マルコ6章7、13節など)。
 ところがヨハネは自分たち弟子以外の人で、イエスの名前を使って悪霊を追い出している人に出会いました。そこでヨハネは「イエスの名前を使って悪霊を追い出しているならば、お前も自分たちと同じようにイエスの弟子にならなければならない」と説得したのでしょう。ところが、その人はヨハネの説得を受け入れませんでした。だからヨハネは「それなら、イエスの名前を使って悪霊を追い出すことは許されない。もうこんなことは絶対してはいけない」とその人に命じたと言うのです。
 この人がこのヨハネが命じたこの禁止命令に従ったのかどうかは大変疑問です。なぜなら、この人は最初からヨハネの命令など聞きたくないと思ったから、ヨハネの誘いに応じなかったからです。結果はともかく、ヨハネは自分がイエスの弟子として当然なことをしたと考えていました。だからこのことをイエスに報告して、自分の行為をイエスに褒めていただこうとしたのです。もしかしたら、「自分が言ってもだめなので、イエス様ご自身があの人に言ってみてください」とヨハネはイエスに伝えようとしたのかもしれません。

②その人は敵ではなく味方

 ところがこのヨハネの報告に対してイエスは「やめさせてはならない」と言われたのです。そしてその理由について続けて次のように語られました。

 「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(39〜41節)。

 使徒言行録にはユダヤ人の祈祷師たちが無断でイエスの名を使って悪霊を追い出そうとしたと言う物語が記されています。そのとき祈祷師たちは、かえって悪霊の逆襲に会い大変な目に会ったという事件が報告されています。ここで悪霊は祈祷師たちにこう語っています。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」(使徒言行録19章15節)。この物語から考えて見るとイエスの名前を使ったからと言って誰でも悪霊を追い出すことができるとは限らないことが分かります。実際、私たちはイエスから悪霊を追い出す権能をいただいた弟子たちでさえ悪霊を追い出すことに失敗したと言う事件をちょっと前の礼拝で学んだはずです(マルコ9章14〜29節)。

 「イエスの名」、それは人が自分の都合に合わせて自由に使える呪文のようなものではありません。なぜなら、イエスの名によって行われた御業は、イエスご自身が行われた御業と言うことができるからです。イエスの名前を使ったのは弟子たちであっても、その奇跡を行ったのは弟子たちではありません。イエスが弟子たちを通してご自身の御業を表してくださったからこそ、悪霊が追い出すことができたのです。悪霊は人の命令など一切聞こうとはしません。しかし、神の御子であるイエスの命令には従わざるを得ないのです。
 それを考えると弟子たちのグループに属していなくても、イエスのみ名を使って悪霊を追い出すことができていたこの人は、同じようにイエスの弟子と見なされてよい人物であり、むしろイエスがその人物を用いて悪霊を追い出していたと考えることもできるのです。だからイエスは、「その人は敵ではない。私たちの味方だ」と言われたのです。その上でヨハネに「その人を拒否するのではなく、受け入れてあげなさい。そうすれば神は喜んでくださる」と教えられたのです。

2.ヨハネの熱心

 悪霊を追い出すと言う行為は、病や様々な問題で苦しんでいる人を救い出すと言う意味を持った行為です。そしてそのことを通して神がその人たちを愛してくださっていることを伝える業とも言えるのです。ヨハネがやめさせようとした人物は、彼らのグループに属することを望みませんでしたが、神の愛を人々に伝える使命を果たそうとしていたという点では他のイエスの弟子たちと同じだったのです。
 イエスの名を使って人々を惑わしたり、騙しているとしたら、イエスの弟子である私たちはそのことに対しては厳しく望まなければなりません。キリスト教会が異端と呼ばれる人々に厳しい態度をとるのは、彼らが聖書やイエスの名前を使ってイエスとは違うところに人々を導き、彼らを惑わし、騙そうとしているからです。ところが、ヨハネは自分と同じように神の愛を人々に伝えようとしていた人を受け入れることができませんでした。どうしてヨハネはそれができなかったのでしょうか。
 一番の理由はその人がヨハネの命令に従わなかったことにあったと考えることができます。前回、私たちはイエスの弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いかについて言い争っていたという部分を学びました(マルコ9章33〜37節)。おそらくヨハネもその論争をした一人だと考えることができます。「自分が一番偉い」と思っているヨハネが、自分の命令を聞かない、自分を無視するようなことをした人物を許すことができるはずはありません。むしろ、ヨハネはその人に対して怒りを抱いたはずなのです。
 さらにヨハネの行動の第二の理由は、ヨハネが熱心だったからということが考えられます。弟子として熱心に生きようとするヨハネの姿は確かに称賛に値するかもしれません。しかし、人の熱心はときとして大きな落とし穴にその人を追いやることがあります。なぜなら、熱心な人ほど、自分と同じようなことができない人を受け入れることができず、かえって裁いたり、怒りを覚えることがあるからです。自分が一生懸命やっているのに、どこか手を抜いているような人がいて、その人が自分と同じように評価されたとしたら、皆さんはどう思うでしょうか。その人のことを心から「よかったね」と喜ぶことができるでしょうか。聖書ではブドウ園で一日中働いた労働者が、後からやって来てわずかな時間しか働かないで自分たちと同一の賃金を受け取っている人の姿を見て不満を抱き、その主人に抗議したと言う物語が記されています(マタイ20章1〜16節)。
 かつてガリラヤ湖で働く漁師だったヨハネはイエスの弟子とされたときに、家を捨て、家族をそのまま残してイエスに従いました。イエスに従って生きるということはヨハネにとって決して簡単なものではなかったはずです。彼はここまでたくさんの犠牲を払ってイエスに従って来たのです。それなのに、ヨハネが出会った人物は自分と同じような犠牲を払わずに、イエスの名を使って悪霊を追い出しているではありませんか。「こんなことは許されない」とヨハネはきっと思ったはずなのです。

3.他人の罪に気づいて、自分の罪に気づかない私たち

 ヨハネはこのとき自分ではなく、神がその人をどのように見ておられるかを考えなければならなかたのです。神は私たちがロボットのように同じ行動をすることを望んではおられません。私たちに、それぞれ置かれた場所で、自分たちに与えられた賜物を使って神の愛を伝えるようにと求めておられるのです。
 ヨハネの命令に従わなかった人は、自分の置かれた場所で、自分の賜物を使って神の愛を伝え、イエスの弟子として生きようとしていたのかもしれません。ですからヨハネに求められたのはその人を裁くことではなく、受け入れることでした。もし、ヨハネがその人を受け入れていたら、その人もヨハネを受け入れることができたのかもしれません。イエスは私たちが人を受け入れるならば、神がそのことを喜んでくださり、祝福を与えてくださると約束してくださっているのです。

 イエスは人を受け入れず、人を裁く者の姿をたとえて、他人の目の中におが屑が入っていることには気づくが、肝心の自分の目の中には丸太のようなとてつもないゴミが入っていることに気づかない人だと語っています(マタイ7章1〜5節)。

 他人の犯した過ちや罪にはよく気がつくのに、自分がそれ以上の過ちや罪を犯していることに気づかない、実はそれが私たちの本当の姿なのだとイエスは教えてくださっているのです。私たちは自分のことがよく分からないで、勘違いしているから、他人を簡単に裁いたりすることができるのだと言えるのです。

4.自分のためにイエスが十字架にかかってくださったことを知る

 イエスは続けて弟子たちに「小さな者の一人をつかずかせてはならない」と教えています(42節)。このつまずかせるとは「その人と神との関係を壊すようなこと」を指しています。そしてイエスはそのようなことをすることは重大な罪に当たると語っているのです。だからイエスはそのような罪を犯せる可能性があるなら自分の片手を切り離しなさい(43節)、片足を切り離しなさい(45節)、片目をえぐりだしなさい(47節)と教えています。そのほうが罪を犯して地獄に落とされるよりもずっとましだと言うのです。
 かつて、ローマ帝国がキリスト教を受け入れて、国の宗教とする決定を下した後に、これからキリスト教会をどうするかという議題を扱うために、様々な国からそれぞれの教会のリーダーたちが集まり教会会議が開かれました。その時、集まった教会のリーダーたちは片目がなかったり、片手や片足を失っている人が多かったと言われています。実は彼らは自分から片目や片手片足を切り取ったのではなく、迫害の中で信仰を守るための代償としてたくさんの傷を負っていたのです。そんな彼らにとってはこのイエスの言葉は大きな慰めとなったはずです。彼らは自分たちが失ってしまったものとは比べることができない祝福を神が準備してくださっていることに、大きな慰めと励ましを受けることができたからです。
 しかし、この言葉は喜んで私たちが肉体の一部を犠牲にして信仰を貫くようにと教えているとは言えないところがあります。なぜなら私たちに罪を犯させるのは私たちの肉体の一部ではなく、私たちの心自身だからです。ですから大切なのは私たちがその自分の心の問題に気づくということだと言えるのです。むしろ、片手を切り離しして、片足を切り離しても、片目をえぐりとっても罪を犯すことをやめることはできないのが私たちなのです。私たちの罪の病はそれほど深刻だからです。
 しかし、そのことに気づくときに私たちにさらに示されることがあります。それは自分ではどうすることもできない罪の問題を解決してくださるために、救い主イエスが来てくださったこと、そしてその私を罪とその刑罰から解放するために、十字架にかかってくださったということです。
 自分に厳しく、人に寛容であることをイエスは私たちに勧めています。なぜなら、私たちが私たち自身の罪の問題を深刻に受け止めなければ、私たちのために成し遂げてくださったイエスの救いの御業の本当に価値を知ることができないからです。そして、その神の赦しを知る者は、自分と同じように罪を赦していただいている兄弟を受け入れることができると教えているのです。
 このように厳しい言葉をヨハネたちに語ったイエスではありますが、そのイエスはだからあなたたちは「だめだ」と言われることはありませんでした。むしろイエスは、どこまでも寛容にその弟子たちを受け続け、愛して続けてくださったのです。私たちは他人を裁く人を、さらに裁こうとします。その人たちに「なぜ、受け入れてあげないのか」と言って裁くのです。この裁きの連鎖から私たちは自分の力で抜け出すことはできません。ここから抜け出す道はただ一つだけです。私たちを受け入れてくださったイエスの愛に私たちが気づくことです。そのために自分に厳しく、人に寛容であることをイエスはここで私たちに求めておられるのです。


祈 祷

天の父なる神さま ヨハネと同じように人を受け入れることができず、人を簡単に裁くことしかできない私たちです。どうか私たちが自らが大きな罪を犯し続ける罪人であることを悟ることができるようにしてください。そしてその罪人である私たちを愛し、私たちを救うために十字架にかかってくださったイエスの素晴らしい御業の価値を知ることができるようにしてください。私たちが神に赦された者同士であることを覚え、受け入れ合うことで、私たちが地の塩、世の光としてイエスの愛を証することができる者となるように私たちを導いてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネはイエスにどんなことを報告しましたか(38節)。
2.どうしてヨハネはイエスの名前を使って悪霊を追い出している人の行為をやめさせよとしたのでしょうか。
3.イエスはこのヨハネに何と答えられましたか(39〜41節)。
4.このイエスの言葉からヨハネがとめようとした人をイエスがどのように思っていたことが分かりますか。
5.イエスは小さな者の一人をつまずかせる者の行為がどんなに深刻であるかをどのように説明していますか(42節)。
6.イエスの言葉に従ってもし私たちが片手や片足、片目を捨てたとしても、私たちの罪の問題は解決すると思いますか。
7.あなたはあなたと違った行動をする信仰の仲間の姿を見て、腹を立てたり、怒りを感じたことがありますか。そんなあなたに今日の箇所で語られているイエスの言葉は何を教えようとしていますか。