2019.10.13 説教「エマオの弟子たち」


聖書箇所

ルカによる福音書24章13〜32節
13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。


説教

1.常識人の集まり
①二人の弟子

 今日も聖書が伝える物語からイエスに出会った人々について学びたいと思います。今日のお話に登場する人物はクレオパと言う名前を持った人物ともう一人、こちらは名前の紹介されていない人物です。聖書には彼らが「二人の弟子」であったことが説明されています。イエスの弟子にはペトロたちのような「十二弟子」と呼ばれた特別なグループに属する人々がいましたが、その他にもたくさんの弟子たちがいたことが伝えられています。この二人は十二弟子に属さない人々だったようです。彼らはこのとき、イエスが十字架にかけられたエルサレムの町からエマオと言う村に向かって歩いていました。このエマオの村はエルサレムから「六十スタジオン離れた」場所にあったと言われています。私たちの知っている量り方で言うと約十一キロちょっと言うところにその村はあったようです。おそらく、エマオにはこの二人の弟子たちが住んでいた家があったのではないかと考えられています。
 東京恩寵教会の牧師だった榊原康夫先生がこの部分の説教したものが本として出版されて残されています。先生の解説によればここに登場するもう一人の弟子とはクレオパと言う弟子の奥さんではなかったかと説明されています。だから二人がイエスに気軽に「一緒にお泊り下さい」と言うことができたのは、このエマオの村にこの夫婦の家があったからです。彼らは自分たちの家に親しくなった旅人を招待して、夕食を共にしようとしたと考えることができると言うのです。

②暗い顔をして家に帰る

 この物語は「ちょうどこの日」と言う言葉で始まっています。この前の部分(24章1〜12節)には日曜日の朝、イエスの遺体を埋葬した墓に行った婦人たちがそこにあるはずのイエスの遺体がなくなっていることを目撃します。そしてその墓で出会った輝く衣を着た人物からイエスが復活されたという知らせを聞くと言う物語が記されています。ですから「ちょうどこの日」とはこのイエスが復活された日曜日ことを言っていることが分かります。今日の物語でこの二人の弟子と、復活されたイエスが道の途中で出会い、そこで会話を交わしています。そして、その会話からこの二人の弟子は、墓に行った婦人たちがこの日曜日の朝に何を経験したのかをすでに知らされていたことが分かります(22〜23節)。彼らはこの時、この日曜日の朝にイエスが復活されたと言う出来事を知っていたのです。
 しかし、イエスの復活と言う喜ばしいニュースを聞かされてもこの二人はちっとも喜んでいないのです。むしろ彼らは暗い顔をしていました(17節)。そして彼らは自分たちに伝えられたイエスの復活のニュースを受け入れることができないまま、エマオの村にあった自分の家に帰ろうとしていたのです。彼らはこのときイエスの死によって自分たちが抱いていた希望はなくなってしまったと考えています(19〜21節)。だから彼らは家に帰って、イエスの弟子になる前の生活に戻ろうとしたのでしょう。
 十字架で死んでしまったイエスが復活したと言う物語は古代人が作り出した幻想に過ぎないと考える人が現在でもたくさん存在します。19世紀、まだ科学文明が世界を幸福に導くと言う考えが多くの人に支持されていた時代に、聖書から迷信的な要素をすべて取り除いて、現代人でも信じることのできるキリスト教の教えを作ろうとした人々がいました。ところが彼らの試みは完全な失敗に終わってしまったのです。その失敗の理由は聖書を人間の科学と言うフィルターを通して読んでしまえば、結局は聖書の教えは味も素っ気もない人間の考えと同じものになってしまったからです。そしてもう一つの失敗は二つの大きな世界戦争を経験した後、科学が世界を幸せにするという信仰が大きく揺らいでしまったことが原因となっています。なぜなら、戦争でたくさんの人々の命を奪ったのは科学的な人間の作り出した恐るべき化学兵器だったからです。
 聖書を読んでみるとイエスの復活と言う出来事に出会った人々が、迷信を信じやすいような単純な人々ではなかったと言うことがよく分かります。今日の物語に登場する二人の弟子が道々論じ合っていたのは、イエスの十字架の死ではなく、むしろ日曜日の朝に起こった自分たちを混乱させる出来事でした。この二人だけではありません。復活のイエスについての出来事を取り扱うすべての物語の中で、この出来事を聞いた人々は、まず疑い、そして半信半疑のまま混乱に陥ってしまっていることが分かります。「わたしは前からイエス様が甦ってくださると言うことを信じていました」などと胸をはって言えた者は一人も存在しないのです。
 自分の力でイエスの復活を信じることができる人間は一人も存在しません。それではどうしてそんな人間がイエスの復活を信じることができるようにされるのでしょうか。聖書はその質問への答えをはっきりと示しています。復活されたイエスが弟子たちの前に現れて彼らと出会ってくださったからです。イエスご自身が、ご自分が復活したと言う事実を彼らに示し、そしてその出来事を信じることができるようにされたからなのです。
 これはイエスの復活に関してだけではありません。キリスト教信仰の根本は私たちが自分の力で神を信じたのではなく、神が私たちのような者たちに働きかけてくださり、信仰を持てるようにしてくださると言うところにあります。だから信仰を得た私たちは自分を誇ることはできません。ただ、私たちに神を信じることができるようにしてくださった神の御業を賛美し、感謝するだけなのです。

2.イエスご自身が近づいて、同じスピードに歩いてくださる

 私たちがイエスの復活を信じることができるようになるのは、実際に復活されたイエスが聖霊を送って私たちの心に働きかけてくださるためです。今日の物語に登場する二人の弟子たちはそのような意味で私たちと同じ体験をここでしていると言うことが言えるのです。二人がどんなに論じ合っても、この日曜日の朝に起こった不思議な出来事を理解することができません。すると、そこにイエスご自身が近づいて来て、彼らと一緒に歩き始められたと言うのです。
 私が聖書を読んで教会の礼拝に参加し始めたころのことです。私を教会に導いてくれたのは私と同じ高校を卒業した一級下の同窓生でした。彼は劣等生の私と違って、とても優秀な後輩で当時、早稲田大学に通う学生でした。その彼が、いつも言うのは「イエス様を信じると、何か目の前がパーッと明るくなるような体験をするんですよ…」と言う証しです。当時の私は彼が語るその信仰体験の意味をよく理解することができませんでした。だからでしょうか、「自分も同じ体験をしないと神さまに救われているとは言えないのだろうか」と思ってしまったのです。私は教会に通っていても、そこで教えられている聖書の教えがよく分かりませんでした。だから心も晴れずに、教会で語られる兄弟姉妹の信仰の証しを聞くたびに、自分は全然違うことに落ち込むような日々を送っていたのです。きっと、あの頃の私は、エマオに向かう二人の弟子と同じように混乱して、暗い顔をしていたのかもしれません。
この二人の弟子に近付いて来られたイエスは、そこでこの二人と一緒に歩き始められました。きっと、混乱して重い足取りの二人の速度にイエスの方が合わせてくださったのだと思います。私たちの信仰の体験は必ずしも同じものではありません。確かに他の人の信仰の証しを聞いて、一緒になって神さまを賛美できることは素晴らしいことです。しかし、私たちが必ずしも同じ体験をしなければ、同じ気持ちにならなければならないと言うことではないのです。むしろイエスは私たちそれぞれの信仰のスピードに合わせて、私たちを導いてくださる方なのです。
 イエスはこの二人に「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と語りかけられました(17節)。イエスは私たちが考えている問題に、また悩みに強い関心を持っておらえます。そして私たちに正しい答えを与えてくださる方なのです。

3.遮られた目がイエスによって開かれる

 ところがイエスがこの二人の弟子に近付いて来てくださって、一緒に歩いてくださり、彼らが論じ合っていることに関心を持って話しかけてくださったのに、この二人はそこに現れた人物がイエスだとは分かりません。聖書はその理由を「二人の目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)と説明しています。この二人の弟子が自分たちと一緒におられる方が復活されたイエスであると分かるのは、エマオの村に着いた後のことです。そこで彼らがイエスと一緒に夕食を取ろうとしたときに起こりました。そのとき「二人の目が開け、イエスだと分かった」(31節)と聖書は記しているからです。
 私たちの目が遮られて一緒におられる方がイエスだとは分からない。しかし後になって自分の目が開かれたとき、そのことが分かったと言う体験を私たちもそれぞれの信仰生活の中ですることがあります。
 ここで大切ことは、私たちの目がたとえ遮られていても、そしてイエスの姿を私たちが見ることができなくても、イエスは私たちと共にいてくださると言う事実です。私たちはこのような体験を自分の信仰生活の中で何度もしているのではないでしょうか。「今まで、あんな苦しいことはなかった。そう自分は思っていたけれども、今思えば、神さまはずっと私を導いてくださっていた」。後になってそのように神の恵みの御業を思い起こして、感謝することが私たちに信仰生活にもあるはずです。私たちの目には見ないのですが、イエスは確かに悩む私たちと共にいてくださり、苦しむ私たちと共にいてくださっているのです。そしてイエスは後になって私たちの目を開かれて、そのことを分からせてくださるのです。

4.どこで復活されたイエスと出会うのか

 私たちは自分の力ではイエスが復活されたと言う出来事を受け入れることも信じることもできません。この問題を自分の力で、自分の知恵で解決しようとすればするほど、私たちは混乱に陥ってどうしようもなくなってしまうのです。しかし、復活されたイエスはその私たちに近付いてくださる方です。そして私たちの遮られた目を開いて、ご自身が復活されたことを、そしていつも私たちと共にいてくださることを信じることができるようにしてくださるのです。
 この素晴らしい神の御業を私たちが経験できるヒントがこの物語には隠されています。日本では古来から、自分が特別な信仰的な体験をすることができるために、様々な修業が行われています。断食をしたり、滝に打たれたり、普段の日常から離れた特殊な体験をすることが大切だと教えるのです。しかし、聖書は復活されたイエスに私たちが出会うために、そのような特別な体験をしなければならないとは教えていません。その代わりに、ここでは二つのことが教えられています。
 第一は私たちが聖書を読み続けることです。イエスは二人の弟子の悩みに答えて「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明した」(26節)と語られています。聖書を読み続けること、しかも、その聖書を私たちがイエス・キリストを証しする書物として熱心に読み続けることが大切なのです。そうすればイエスは聖書を読み続ける私たちの心の目を開いてくださって、聖書の本当の意味を教えてくださるのです。そしてご自身が復活されて、いつも一緒にいてくださることを知らせてくださるのです。
 さらに第二のことは、ここで二人の弟子は「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)と語れています。これは私たちが礼拝の中で行う聖餐式と同じ動作を表しています。二人の弟子は、イエスと共に神を礼拝し、聖餐式にあずかることで、目が開かれ、イエスが共におられると言うことを知ったのです。
 ヨハネによる福音書にはトマスと言う弟子が「自分だけ復活されたイエスに会えなかった」と言う悩みを抱えて苦しんだ物語が記されています。よくこの聖書の箇所を読んでみると、トマスだけが復活されたイエスに会えなかったのは、日曜日に他の弟子たちと一緒にいないで、他の場所に出かけて行ってしまったことにありました。彼は日曜日の礼拝をさぼってしまったのです。ところが、そのトマスが復活されたイエスと出会い「わたしの主、わたしの神よ」と言うことができたのは、次の日曜日に他の弟子たちと一緒にいたからです。彼は信仰の仲間と共に礼拝の場にいたから復活されたイエスとお会いすることができたのです。私たちのささげている礼拝は、私たちが復活されたイエスと会うことができる出会いの場所です。重ねて言いますように、私たちがイエスの復活を信じることができるのは、私たちの努力や力によるものではありません。それはイエスの方が私たちに働きかけてくださることによってのみ可能となるのです。だから私たちはそのイエスが働きかけてくださる時を待って、聖書を読み、日曜日の礼拝に出席し続けることが大切なのです。そうすれば、私たちの主イエスは私たちの歩みの速さに合わせて、私たちの心にふさわしいときに働きかけて、その目を開いてくださるのです。


祈祷

天の父なる神様
 私たちに近付き、私たちと共に歩んでくださるイエスの御業に心から感謝します。私たちは自分の力や能力では決して、復活されたイエスを信じる信仰を持つことはできません。考えれば考えるほど混乱に陥ってしまうだけです。どうか私たちの心に働きかけて、その信仰の目を開き、復活されたイエスが私たちと共にいてくだることを悟らせてください。二人の弟子たちの心が燃やされたように、私たちの信仰生活に感謝と喜びに満たされた心を与えてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.この物語に登場する二人の弟子はこどこに向かって歩いていましたか。彼らはその道の途中でどんなことを話し合い論じ合っていたのですか(13〜14節、19〜24節)。
2.その道の途中で誰が彼らのところに近付いてこられたのですか。どうして彼らはその人の正体を正しく理解することができなかったのでしょうか(15〜16節)。
3.彼らがこのとき暗い顔をしていた訳はどこにありましたか(17節)。その理由を二人の証言の内容から考えて見ましょう(19〜24節)。
4.イエスはこの二人にどんな話をされましたか(25〜27節)。
5.一行が目的の村についたときイエスはどうされようとしましたか。二人の弟子はそのイエスに何を願いましたか(28〜29節)。
6.二人の目が開かれて、自分たちと一緒におられた方がイエスだと知った理由を聖書はどのように説明していますか(30〜31節)。
7.二人の弟子が自分たちと一緒におられた方がイエスだと気づいたときに、彼らは自分たちの心にどんな変化が起こっていたことに気づいていますか(32節)。