2019.10.20 説教「始めた方が成し遂げてくださる」


聖書箇所

フィリピの信徒への手紙1章3〜11節
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


説教

1.神に感謝を献げる
①他人に自分の評価をゆだねてはならない

 私たちがこの礼拝で学び始めたフィリピの信徒への手紙は使徒パウロの手によって記された手紙です。パウロとこの手紙の受け取り人であるフィリピ教会の人々との間には特別な関係がありました。私たちが前回も学んだように、まずこのフィリピの町での伝道は使徒パウロの働きによって着手されたものでした。この町で始められたパウロの伝道によって最初に紫布を商う商人だったリディアと言う婦人とその家族が信者となりました。その後、獄中に捕らえられたパウロたちの上に起こった不思議な出来事を通してキリストへの信仰を告白し洗礼を受けた牢獄の看守とその家族など、パウロの伝道の成果によって最初の教会のメンバーが集められて行ったのです。言葉を変えて言えば、このフィリピ教会はパウロの血と汗によって作り出されたものと言ってよいのかもしれません。
 私たちはどちらかと言うと自分の苦労話を人にするのを好む傾向があります。「あのときはこんなことがあって、本当に大変だった!」と言う話を好んで人に話します。ところが聞いている方も二度三度と同じ話をされるとうんざりして「あっ、またあの話か…」と思ってしまうことがあります。しかし、そんなこともお構いなく、いつものように自分の苦労話を話し続けるのです。
なぜ私たちは自分の苦労話を人に聞かせたいと思うのでしょうか。おそらく心のどこかで、「あなたはよくやったわよ!」と言う言葉を聞きたいからです。他人から自分の努力を評価してもらいたいからそんな話をし続けるのです。それなのにこちらの話もうわのそらで少しも聞いてくれない人に会うと、「まだ、この人は私の苦労をわかっていない」とばかりに、相手が分かってくれるまで、何度も同じ話を繰り返し話し続けることなります。
 パウロも本当なら、自分の苦労をよく知っている人々に対して、いえ、自分と苦労を共にしていた人たちに対して「あのときはこうだった。あの時は本当に苦労した」と言うような言葉を語ってもよかったはずです。しかし、彼はそのような苦労話をここでは一切語ってはいません。それはどうしてなのでしょうか。第一に考えることは、パウロは自分がすることができた働きの成果について他人から評価を受けたいとは思っていなかったからです。なぜなら、パウロは自分がしたすべての業を正しく評価してくださる方がおられることを知っていたからです。それをできるのは真の神お一人だけです。
 人間の評価は曖昧ですし、頼りにならないところがあります。その人の気分次第で変わってしまうことがよくあります。他人の評価に自分の人生の価値をゆだねることほど、不確かで愚かなことはありません。だから神が私たちの人生の歩みを正しく評価してくださると信じて生きることは大切なのです。そうすれば私たちは他人の評価に振り回されることのない確かな人生の歩みを続けることができるからです。

②自分の努力ではなく、神がしてくださったこと

 さらにパウロが自分の苦労話を語らない理由はもう一つ大切な意味がありました。それはパウロが自分のなしたすべてのことを、神が自分を通して働いてくださったからできたと考えていたことです。すべては自分がした努力の結果だと考える人は、自分の苦労話を繰り返し語ろうとします。聖書にはエルサレム神殿に祈るためにやって来たファリサイ派の人が、そこで自分が努力して行った功績の目録を延々と語ったと言う物語が記されています(ルカ18章9〜14節)。もちろん、このような祈りを神が受け入れられるはずはありません。しかし、自分が努力したことを誇る人と違い、自分がしたことはすべて神の助けによってできたのだと考える人は、神に感謝をささげるのです。パウロはこの手紙の最初の部分で神に感謝をささげています。

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し(ます)」(3節)。

パウロは獄中でフィリピ教会の人々と自分との関係を思い出しながらこの手紙を書いています。きっと、パウロにとって忘れることができない様々な出来事がそこにはあったはずです。その出来事を思い出すたびに彼が確信したことは、神が働いてくださったと言うことです。だからパウロはその神に真っ先に感謝を献げることができたのです。

2.わたしの神
①わたしと神との関係

 パウロはこの手紙の最初で神に感謝をささげています。この感謝の言葉の中にパウロの信仰をよく表す表現が記されています。それは「わたしの神」と言う表現です。皆さんは人に自分の信仰について説明するとき「わたしの神さまはね…」と言う言葉を使うことがあるでしょうか。たぶん、「私が信じている神さまはね…」と言うことはあっても、「わたしの神さま」とはあまり言わないかもしれません。「わたしの神」と言う表現は非常に大胆な言葉だと思います。このパウロの表現はいったい何を意味しているのでしょうか。「わたしの神」それは「私が所有する神、私の言うことなら何でも聞いてくれる神だ」と言うような意味なのでしょうか。多分そうではないと思うのです。
 むしろパウロが「わたしの神」と言う場合は、私を救ってくださった神、何よりも私のためにその大いなる御業を表してくださった神と言うように自分と神との密接な関係を表すためにこの言葉を使うのです。私たちの信じる神は天地万物を創造され、今もそのすべてを治めてくださっておられる唯一真の神です。そんな素晴らしい神を信じることができることは幸いなことです。ところがそこで問題になることがあります。その神と私との関係はいったいどのようなものなのでしょうか。
 先日、朝日新聞の新番組紹介のコーナに意外な言葉が記されていてびっくりしたことがあります。そのコーナーで紹介されていたのは、この秋から始まるドラマでした。主人公は手で触れた人物のこれからも運命がすべてわかってしまうと言う特殊な能力を持っています。相手がこれから事故に会って死んでしまうと言うようなことが分かってしまうのです。それならあらかじめ準備して、その人を危機から救うことができるはずです。ところがこの物語はそうはならないのです。どんなことをしても結局、決められた運命は変えられないのです。主人公はそれで苦しみ続けると言うのです。大変面白いドラマだなと思いながらその記事を読み進めると宗教改革者カルヴァンの話が登場します。「神は救われる人と救われない人をあらかじめ決めていて、それは人間には変えることができないとカルヴァンは教えた」とその記事を書いた記者は説明するのです。まるでこの記事を読むとカルヴァンが人の運命は変わらないと言うことを主張した運命論者のように思えてしまいます。
 神の御業は確かなもので、誰もそれを変えることができないことは真実だと思います。しかし、大切なことはその神の御業がこの私の人生にどのように関係してくるのか、私の人生のためにどのように働くのかということではないでしょうか。神は天の高みにおられて、私たちの意思とは全く関係なく私たちの人生を操っておられる、私たちは人形使いに操られる人形のようなものだと考えるのが運命論の神です。しかし、聖書が教える神はこのような神ではありません。

②惨めな私のための神

 パウロは神が自分の人生に深く関わってくださっていることを確信して「わたしの神」とここで呼んでいます。それでは私たちは自分と神との関係をどこで知ることができるのでしょうか。私たちには確かにその関係を確認する方法があります。それは私たちの救い主イエス・キリストを通して神を知る方法です。
 先日、私たちは聖書研究会でパウロの記したローマの信徒への手紙の7章を学びました。パウロの言葉は大変難しい論法が使われていて、分かりにくいと言う感想がありました。しかしこの部分はパウロの信仰的な確信を知るためにとても重要な箇所だと言えるのです。この部分でパウロは次のように自分の確信を語っています。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(24〜25節前半)。

パウロはここで自分の罪深さを告白しています。「神のために生きたいと思っても、それができない自分がいる」とここで大胆に告白しているのです。皆さんは自分の罪深さを痛感するときどんな思いになるでしょうか。「わたしはダメな信仰者です」と自分に嫌悪感をいだくことがあるかもしれません。その上で、「こんな私は本当に神から救われているのだろうか」と疑問を抱くことがあるかもしれません。パウロは確かに自分が惨めな人間だと痛感しています。自分はどうしようもない人間だと思っているのです。しかし、だから神は自分から離れて行ってしまうかもしれないなどと言う不安を抱くことはありません。むしろ、彼はそんな自分を見つめれば見つめるほど神に感謝をささげたいと考えるのです。
それはどうしてでしょうか、パウロはどうしようもない自分のために救い主が来てくださり、十字架にかかってくださったことを知っていたからです。だから惨めな自分に気づけば気づくほど、この私のためにイエスはやって来てくださった、私のために十字架にかかってくださったと言う信仰の確信がますます深まって行ったのです。このようにパウロが神を「わたしの神」と呼ぶのは、「このどうにもならない惨めな自分を救ってくださるためにイエス・キリストは働いてくださった。真の神はこの惨めな私のための神なのだ」と言う信仰を持っていたからなのです。

3.喜びをもって祈る

 神を「わたしの神」と呼ぶことのできるパウロは、同時に、その神は「あなたたちの神」でもあると言うことができた人物でした。パウロはこの惨めな私を救ってくださったイエスは、あなたたちをも必ず救いに導いてくださると言う確信を持つことができたのです。パウロのささげる祈りには彼のこの確信が表されています。パウロはフィリピの信徒たちのために次のように祈っていると語っているからです。

 「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(4節)

 この手紙を読み進めていく中で、パウロとフィリピの信徒たちはいつも信仰によって繋がっていて、お互いに助け励まし続けていた関係が分かります。そのような意味でパウロにとってフィリピの人々の存在は自分を慰め、励ますものであり、自分に喜びをもたらす存在であったと考えることができます。しかし、このフィリピ教会にも問題が全くなかったわけではありません。むしろ、この手紙を読むとパウロがフィリピの信徒たちに迫っている様々な問題を知り、そのために自分ができるアドバイスを送っていることが分かります。獄中に囚われているパウロがフィリピの信徒たちの元に直接行くことはできません。だからその代わりにパウロはこの手紙を書いてフィリピの人々を助けようとしたのです。
 パウロはここで自分がフィリピの信徒のためにとりなしの祈りをささげ続けていることを明らかにしています。私たちも兄弟姉妹のためにとりなしの祈りをささげることがあります。心配になって「神さま、あの人を助けてください」と祈ることが多いと思います。しかし、パウロは喜びながら祈っていると語っています。パウロは他人の苦しみに対して鈍感であったからそのように言えたのではありません。パウロは「わたしをあらゆる困難から助け出してくださった神が、あなたたちを困難から必ず救い出してくださる」と言う確信を持っていたのです。だからパウロはこの神の御業に心から期待を寄せた上でフィリピの信徒たちのために「喜びながら祈る」と言うことができたのです。

4.始めた方が完成させてくださる

 この手紙の最初の挨拶の言葉から分かることはパウロの信仰の確信がすべて神の上に築かれていたと言うことです。もし、私たちがこの信仰の確信の土台を神ではないところに求めようとしたらどうなってしまうでしょうか。たとえば私たちの信仰的な努力にそれを置いたとしたらどうなってしまうでしょうか。自分の力で頑張れるときは、確かに私たちも多少の安心を得ることができるかもしれません。しかし、私たちの頑張りが効かないときが必ずやってきます。頑張ろうとしても頑張れない時が必ず訪れるのです。そのとき私たちの信仰の確信は失われてしまうはずです。そうなるとこれほど不幸なことはありません。なぜなら、このときこそ信仰の力で立ち直りたいと願いながら、それができずにがっかりしてしますからです。だから信仰の確信を私たち自身の力、私たちのする努力や頑張りの上に置こうとすることは愚かなことです。
 そもそも私たちの信仰生活が自分の力、その頑張る力で維持されているとしたら、私たちはこの信仰はどうなってしまうのでしょうか。失敗したらそこで終わり、弱音を吐いたらそこで終わりとなってしまうのでしょうか。パウロはこの手紙の中で次のように語っています。

「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(5〜6節)

私たちに福音を伝えて、私たちにそれを信じる信仰を与えてくださったのは神ご自身です。私たちの信仰生活はこの神の御業によって始められたものなのです。その神は私たちに信仰を与えるだけで「後はあなたたちの力でやりなさい」と無責任に私たちを捨てられる方ではありません。ご自分が始められた業を最後まで責任を持って導いて、完成してくださるのが真の神の姿です。
この手紙を書いたパウロは誰よりも熱心に福音伝道のために働きました。そしてその福音のために命までささげた人物でした。しかし、彼は「それをしないと自分はダメになってしまう」、「一度救われたとしても、その熱心さを少しでも怠れば、自分は救いから漏れてしまう」と言う強迫観念に煽られて、信仰生活を送ったのではないのです。
自分は神の御業によってこのように働くことができていると考えたパウロは、自分を誇るのでなく、神を誇り、神に感謝をささげました。地上での信仰の戦いは続きます、その厳しい戦いの中で、パウロは勝利を確信しながら歩むことができました。「この業を始められた神は、かならず自分たちを最後の完成まで導いてくださる」。その信仰の確信が、何よりもパウロを熱心な伝道者の生活に影響したのです。なぜでしょうか。彼の払った努力のすべては決して無駄になることがないことを彼は知っていたからです。いくらがんばっても、最後に失敗してしまえば、その努力はすべて水の泡になってしまいます。しかし、私たちの信仰生活は違います。最後には神が必ず完成してくださるのです。だから私たちの働きは何一つ無駄になることがありません。伝道者パウロを動かし続けた力は神が成し遂げてくださるという確信から来ることを私たちは今日の聖書の箇所から学ぶことができます。私たちもこの確信に基づいて、信仰生活を続けて行きたいと思うのです。


祈祷

天の父なる神様
 私たちに信仰を与え、私たちを完成の時まで導いてくださるあなたの御業に心から感謝します。私たちの内からは善きものは何も見いだせませんし、出て来るともありません。もし、私たちの働きはすべてあなたの御業であることを信じ、そのあなたに心からの感謝をささげます。私たちがこの信仰の確信を最後まであなたの上に置いて生きることができるように助けてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはフィリピの教会に集っている人々を思い出すたびに、何を感じましたか(3節)。パウロはそう感じることができたのはどうしてですか。
2.パウロはフィリピの人々のために祈りをささげるとき、どのような態度でとりなしの祈りをささげていると言っていますか(4節)
3.私たちが信仰を得た時から今日まで福音にあずかることができていると言うことはどんなに幸いなことだとあなたは思いますか(5節)。
4.私たちが救われたのは、自分の力や努力によるものではなく、神の働きであると言うことを信じるもことは、私たちの信仰生活にどのような確信が与えられるとパウロは言っていますか(6節)