2019.11.10 説教「トマス」


聖書箇所

ヨハネによる福音書20章24〜29節
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


説教

1.復活の主にお会いする日=日曜日

 今日は月に一度、献げられている伝道礼拝です。この礼拝では普段のフィリピの信徒への手紙の学びから離れて、「イエスに出会った人々」と言うテーマに沿って聖書のいろいろな箇所からお話をしています。今日はヨハネによる福音書に記されているトマスと言う人物について考え、皆さんと共に私たちの信じているキリスト教信仰の内容について改めて確認をしていきたいと思います。
 今日の箇所は次のような言葉で始まっています。

 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」(24節)

 この言葉の中にトマスの抱えた問題の原因が真っ先に説明されています。トマスはイエスに選ばれた十二弟子の一人でした。それなのに彼は何らかの理由で仲間たちから離れて、単独行動していました。そしてそのトマスが出かけていた時に、他の弟子たちが集まっていた場所に復活されたイエスが現れたのです。この一部始終は今日の箇所の直前のヨハネによる福音書20章19節から23節に詳しく語られています。
 イエスが十字架で命を引き取られてから三日目の日曜日の朝、女性の弟子たちがイエスの遺体が葬られた墓に行ってみると、イエスの遺体が墓から無くなっていることを発見します。このヨハネによる福音書ではこの後、弟子のペトロともう一人の弟子が墓に駆けつけて、同じように彼らもイエスの遺体がそこにないということを確認しています(20章1〜10節)。
 ヨハネによる福音書はこのあと復活されたイエスがマグダラのマリアと言う女性の弟子の前に特別にその姿を表された記事を記しています(11〜18節)。そしてこの後、復活されたイエスはエルサレムの一室に集まっていた弟子たちの元にもご自身の姿を現わされたのです。この出来事は日曜日の夕方の出来事です。ユダヤ人の一日の数え方は日没から日没までを基準に数えますので。イエスが弟子たちの前に現れたのは、もうすぐ月曜日になる直前の出来事であったということになります。
 今日の物語の中でも復活されたイエスに会えなかったトマスがそのイエスに会うことができたのが「八日の後」のことだったと語られていますから、これも日曜日の出来事だったことが分かります。福音書はここまで一貫して復活のイエスがすべて日曜日に弟子たちにご自身の姿を現わし、彼らと出会ってくださったと言うことを記しています。そしてここに私たちの信仰にとって日曜日がどのような意味を持つのかという理由が明確に語られているのです。キリスト教会は2000年の歴史の中でこの日曜日をとても大切にしてきました。信仰者は必ずこの日曜日教会に集まって、神に礼拝をささげます。このことは言葉を変えて言えば私たちは毎週、教会に復活されたイエスに会いに行っていると言うことになるのです。もちろん、私たちの礼拝にイエスが2000年前の出来事と同じように目に見えるかたちで、また手で触れる姿で現れてくださるわけではありません。その代わり、イエスは聖書の言葉を通してご自身の姿を私たちに一人一人に現わしてくださるのです。そのときイエスは天から聖霊を私たちに遣わして、2000年前の弟子たちがイエスに出会ったときに受けた感動と喜びを同じように私たち一人一人にも体験させてくださるのです。
 私たちは大切な人との待ち合わせの約束を忘れないようにするはずです。前もって約束の時間をメモに残して、当日は相手を待たせないようにと家を早めに出て、失礼のないように身なりを整えて約束の場所に向かいます。日曜日の礼拝は復活されたイエスと私たちとの大切な待ち合わせの場所であることを私たちはまず覚えたいと思うのです。

2.私は決して信じない
①孤独なトマス

 トマスが復活されたイエスに出会えなかったのは彼が日曜日の約束を破って、違った用事をするために出かけて言ってしまったからです。だから問題は彼自身にありました。しかし、トマスにはそれが納得いきません。復活されたイエスに出会うことができた他の弟子たちも、必死になってトマスに「わたしたちは主を見た」と語りかけます。イエスが復活されたという事実をトマスにも知ってもらいたいと彼らは思ったからでしょう。しかし、トマスはそのような仲間たちの言葉を聞いても、頑なな態度を示します。

 「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」」(25節)

 よくトマスを科学文明に影響された現代人の考え方に近い人物だと考える人がいますが。しかし現代人であっても古代人であっても死んだはずの人間が甦ることを信じることができる人はいないはずです。死んだ者は二度とこの世に帰っては来ないということを私たちは自分たちの経験の中で痛感しているからです。トマスも、「仲間の弟子たちがイエスの死を受け入れることができないあまりに、集団催眠に陥り、幻覚を見たのだ」と想像したのでしょうか。トマスは「それが幻でなければ、生前にイエスが十字架で受けた傷跡を確かめることができるし、また手で触ることもできるはずだ」と語ります。
 私はここまでトマスが仲間たちの言葉を否定する理由には、自分だけが取り残されてしまったという、孤独感のようなものがあって、彼を苦しめていたのではないかと想像するのです。私たちは周りの人たちが喜んでいるとき、自分だけがその喜びの輪に加わることができないと、何か自分だけが見捨てられているという孤独感を覚えるはずです。クリスマスやお正月になると一人暮らしをしている人は強い孤独感を感じると言うのもその一つです。トマスはもしかしたら寂しかったのかもしれません。だからこのとき、彼は懸命になって仲間たちの言葉を打ち消そうとしたのだと思います。

②正直なトマス

 しかし、同時にトマスはとても正直な人間であると言うことが分かります。人間は孤独を恐れるあまり、周りの人々に同調して生きると言うことをしがちです。ところがトマスはそうではありませんでした。正直に「わたしは信じられない」と強く主張したのです。ある教会では、復活と言う出来事を信じられない求道者を集めて「トマス会」と言うグループを作ったと言います。信じられない人に「信じなければだめ。あなたはクリスチャンとして失格です」と責めてもどうにもなりません。むしろ、私たちは信じられないという事実を受け入れた上で、そこに神の助けを求める必要があるのです。
 ここで私たちが忘れてはならないことがもう一つあります。この物語に登場するトマスも、また「トマス会」と言う集会にある人たちも「本当はイエスの復活を信じたい」と言う強い願いを持っているという事実です。そもそも「信じる必要はない」、「そんなこと自分の人生にあまり関係がない」と思う人はこんなことで悩みませんから、特別な反応もしません。しかし、トマスがこれほどまでに仲間たちに強い拒否反応を示したのは、「本当は自分も信じたい」という彼の願いがあったからではないでしょうか。
 大切なことは、自分が「信じたい」と強く願っているという事実です。なぜなら、人間はそもそも神の働きかけがなかったら「信じたい」と言う思いを持つことができないからです。神を信じなくても、この世を生きていくことはできます。事実は永遠の滅びに向かっているとしても、私たちはその事実を忘れていますから、何の痛みも、恐怖も感じないで生きることができます。しかし、その私たちが「神を信じたい」と思っているとしたなら、「永遠の命をいただきたい」と願っているとしたら、それは神が私たちにすでに働いてくださっている証拠なのです。だからトマスもすでに復活されたイエスの御業の影響下にあったことが分かるのです。そしてそのことがさらによく示されているのが実際に復活されたイエスがトマスの前に現れてくださったときの会話の内容です。

3.トマスを知っておられたイエス

 「イエスを信じたい」と言うトマスの隠された願望のせいでしょうか。彼は仲間たちから離れることはありませんでした。苦しみながら、そして迷いながら、孤独感を感じながらも彼は「八日の後」、つまり次の日曜日に仲間たちの集まりに参加しています。トマスもまた復活されたイエスとの約束の場所である礼拝に戻ってきたのです。イエスは頑ななトマスの態度に腹を立てることも、彼を見捨てることもしません。むしろ、イエスは信じることのできないトマスと向き合ってくださいました。そして彼にこう語ったのです。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)
 イエスがここでトマスに語られた言葉すべては先にトマスが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った言葉に対する応答になっていることが分かります。トマスは復活されたイエスに自分だけ出会うことができなかったことで苦しみました。しかし自分だけはのけ者にされているという孤独感の中で必死になって叫んだトマスの言葉を、イエスはちゃんと聞いていてくださっていたと言うことが分かります。つまり、トマスの目には見えなかったのですが、復活されたイエスは決してトマスから離れることがなく、彼と共にいてくださったのです。
 私たちは自分たちの持っている信仰次第で復活されたイエスが共にいたり、あるいはいなくなってしまうような勘違いをしているところがあります。しかし、実際にはそうでないことが分かります。イエスは確かに信じられないトマスと共にいてくださったのです。信仰は私たちの力から生まれるものではありません。信仰は私たちと共にいてくださるイエスが私たちに与えてくださる賜物なのです。イエスは私たちに「信じたい」と言う心を与え、その上で私たちの信仰を導いてくださる方なのです。

4.イエスを「わたしの主」と呼ぶ信仰生活

 トマスは自分の前に現れて下さったイエスに対して「わたしの主、わたしの神よ」と自分の信仰を告白しました。このトマスの告白についての興味深い伝説を東京恩寵教会の牧師だった榊原先生が紹介しています。復活されたイエスに出会った弟子たちは「全世界に出ていって福音を伝えなさい」と言うイエスからの宣教命令を実行するために、だれがどこに行くかということをくじで決めました。するとトマスはインドに行きが当たってしまいます。ところがトマスはインドに行くことを嫌がるのです。そのとき、ちょうどエルサレムの町にインドから旅人がやって来ます。彼はインドの王様の家来で王様のための宮殿を建設するための大工を世界中を回って探していました。
 するとこの旅人の前に復活されたイエスが現れて、「あそこに立っているわたしの奴隷をお譲りしよう。彼ならその仕事にうってつけです」と言い出して、すぐに商談を決め、その旅人に契約書を書いて渡しました。「わたし大工の子であるイエスは、私の奴隷であえるユダ・トマスをインドの王に譲ったことをここに証明する」と。するとその旅人は契約書を持って今度はトマスの前にやって来ます。「実は私はお前をあの人から譲ってもらったのだが、あの人は確かにお前の主なのか」と向こうに立っているイエスを指さしました。するとトマスは「そうです。あの人は確かにわたしの主です」と言って、その旅人に黙って従ってインドに向かったというお話です。
 私たちが復活されたイエスを「わたしの主、わたしの神よ」と呼ぶ意味をこのお話はよく表しているというのです。「わたしの主」とは「わたしはあなたの者です」と言う意味を持つ言葉なのです。私たちが神を信じて、イエスを自分の救い主、「主」と呼ぶということは、私たち自身がイエスのものとなったこと、イエスの奴隷になったということを意味しています。「そんなことは嫌だ、自分は自由でいたい」と思う人もいると思います。しかし、聖書はイエスを「主」と呼び、彼のものとなる人生よりも、私たちが普段自由だと思っている生活の方がもっと不自由であると言うことを教えます。何よりも、私たちはこのイエスのものとならない限り、罪の奴隷として生きなければなりません。自分のしたいことをして、自由に生きていると思ってはいますが、実は罪の奴隷として悪魔の計画通りに滅びへの道を進んできたのが私たちの今までの人生だったのです。
 しかし、イエスを「主」と呼んで、その主のものとなる人生は違います。何よりも、この方は私たちを愛してくださっています。ご自身の命を十字架で献げてくださるほどに私たちを愛してくださる方なのです。そしてイエスは私たちよりも私たちのことをよく知っておられます。どうしたら、私たちが自分の人生を喜びを持って、自由に生きることができるのかをイエスは知っておられるのです。だから、イエスを信じて、この方に従う信仰生活は決して不自由な奴隷生活ではありません。むしろ喜びに満たされた人生を送ることができるのが、イエスを「主」と呼ぶ者の生活、私たちの信仰生活なのです。


祈祷

天の父なる神様
 トマスの物語から学ぶことができました。自らの犯した過ちのゆえに復活されたイエスに会うことができなかったトマスを、イエスは決して捨てることなく、苦しむ、迷い続けるトマト共にいてくださいました。そしてイエスはそのトマスに信仰を与え、ご自身が共におられることを明らかにしてくださいました。どうかわたしたちの心の目を開いて、復活されたイエスが共にいてくださるという素晴らしさを教えてくださり、そのイエスに従って生きる信仰生活を送ることができるように助けてください。トマスと同じように、わたしたちもイエスを「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白することができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスはどうして、イエスが来られたとき、イエスと会うことができなかったのでしょうか(24節)。
2.他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」とトマスに語ったとき、彼はどのような反応を示しましたか(25節)。
3.その日から「八日の後」にトマスは何をしましたか(26節)。
4.このとき弟子たちの前に再び現れたイエスはトマスにどのような言葉をかけられました(27節)。
5.トマスはこのイエスの言葉を聞いて、どんな反応を示しましたか。(28節)。
6.イエスがトマスに語った言葉の中で、イエスはどのような人を「幸いである」と言っていますか(29節)。
7.あなたはこのイエスの言葉をどのように受け止めますか。あなたの今の正直な気持ちをイエスに打ち明けて見ましょう。そしてイエスに助けを求めましょう。