2019.11.17 説教「福音の前進」
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聖書箇所
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フィリピの信徒への手紙1章12〜18節
12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
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説教 |
1.獄中でも自分の不幸を嘆かない
今日も皆さんと共に使徒パウロが記したフィリピの信徒への手紙から学びたいと思います。私たちは自分の人生についてそれぞれ「こうあったらいいな」というような期待や希望を抱いて生きています。しかし、現実には私たちの希望通りにはすべての出来事が進む訳ではありません。むしろ自分の望んでいなかった予想外の出来事が人生に起こって苦しむと言う経験をして生きています。人間はこんなことが繰り返されると、「人生思うようには進まない」とあきらめ気分になってしまうこともあるはずです。しかしだからと言って、夢も希望も持てないような人生を送るほど苦しいことはありません。それはまるで拷問のような人生となってしまうからです。
また、案外自分の希望通りのことが実現しても、それですべてはがうまく行くと言うことにもなりません。自分が希望していたことが実現できても、そのことを通して予想もしなかった別の問題が起こると言うこともよくあるからです。
使徒パウロの人生を考えて見ても、彼の人生は彼の思い通りに進んだわけではないことがよくわかります。パウロは伝道旅行を企画し、様々な町を訪ねて、人々に福音を伝え、信じる者の集まりである教会を立て続けました。使徒言行録の記事を読んでも、パウロの活動がどんなに活発なものであったかがよく分かります。パウロは当時の人々が世界の西の果てと考えていたスペインまで行く宣教旅行を計画していたようです。しかし、その計画はパウロの逮捕という出来事によってついに実現することはありませんでした。彼は自分の計画に反して、ローマに囚人として護送され、そこで殉教の死を遂げたと考えられているからです。
フィリピの信徒への手紙の中でパウロは自分が今、囚人として捕らわれの身であることを語っています。おそらくパウロはローマにあった獄中からこの手紙をフィリピの教会の人々に送ったと考えられています。世界の果てまで行って福音を伝えるという希望を持っていたパウロにとって獄中生活を送ることは決して好ましいことではありません。重ねて囚人として自由に活動することができないことは、パウロにとってはとても残念なことだったに違いありません。しかし、パウロはフィリピの教会の人々に、自分が獄中で捕らわれの身であることを残念に思わなくてもよいとここで語っています。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。
パウロはここでフィリピの教会の人々に、自分が囚人として獄中にいることを知っても、がっかりする必要はないと教えています。なぜなら、パウロの身に起こった様々な出来事、それは決してパウロが計画したものでも、希望したことでもありませんでした。しかしかえってそのことが福音の前進に役だっているとパウロは言うのです。パウロの人生において、もっとも特徴的なことは彼が自分の人生の目標を「福音の前進」と言う明確な課題に置いていることです。だから彼は、自分の人生に起こる、様々な出来事をこの「福音の前進」という事柄を通して考えます。だから、どんなに自分の人生に予想外のことが起こったとしても、そのことは福音の前進のためにどのような意味を持つのかと言うことを考え、判断しようとしたのです。その人生でどんなことが起こってもパウロの人生にぶれが生じないのはそのためであったと言うことができます。
人生に目標を持たないで生きる人の人生はそうではありません。人生に起こる様々な出来事に振り回されて、最後には自分自身さえも見失ってしまうとことになりかねないからです。神はわたしたちにもパウロと同じように「福音の前進」という人生の目標を与えてくださっています。そんな目標に従って生きることは自分にどんな利益があるのかと考える人がいるかもしれません。しかし、私たちがこの目標を自分の人生に掲げるときに、わたしたちもパウロと同じように様々な出来事の中でも決して揺り動かされない確かな人生を歩むことができると言えるのです。
2.獄中でも福音を語り続けるパウロ
パウロは自分の獄中での生活がどんなに福音の前進のために役に立っているのかを次のように説明しています。
「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(13〜14節)。
パウロは福音の前進のために自分の人生をささげて生きました。そしてその使命に忠実に生きようとしたときに、迫害を受け、囚人として捕らわれの身となりました。しかし、たとえ囚人になっても自分の使命に忠実に生きようとするパウロの姿はたくさんの人々に影響を与えたと言うのです。ここに「兵営全体」と言う言葉がありますが、これは「法廷」とも訳される言葉だと言います。パウロは囚人として裁きの場である法廷に立たなければなりませんでした。しかしその法廷でパウロは大胆に福音を証ししたのです。そしてそのパウロの法廷での証言を通して、様々な人々が新たに福音を聞く機会を得ることができました。
それだけではありません。このようにパウロが囚人の身でありながらも、命がけで福音を語り伝えていると言う姿を知った人々、つまり教会の仲間たちがパウロと同じように自分たちも福音の前進のためにがんばろうと立ち上がったのです。このように福音の前進のために生きるパウロの姿は様々なところに影響を与え続けました。
作家の井上ひさしと言う人が「自分はどうしてカトリック教会で洗礼を受けて信者になったのか」ということを語っている文章を読んだことがあります。井上さんは家庭の事情で幼いころ、弟さんと一緒にカトリック教会が経営する児童養護施設で暮らしました。この施設にはカナダからやってきた修道士たちが働いていました。修道士たちは使い古してぼろぼろの修道服を身にまといながら子供たちのために毎日働いています。実は本国の信徒たちはこの修道士たちが立派な修道服を着れるようにと多額の献金を送っていたのだそうです。しかし、その修道士たちはその献金をすべて施設の子どもたちの食料を買うために使い果たしてしまいます。その結果、修道士たちの服はますますぼろぼろになっていきます。井上さんはそんな修道士たちの姿を見て育ちました。そして「あのぼろぼろ修道服を着ている人たちが信じている神様を信じたい」と思ったと言うのです。
一説によれば、パウロは決して雄弁な人間ではなかったと言われています。だから人はパウロの巧みな話術で信仰に導かれたのではないのです。パウロが真剣になって福音を伝えている姿を通して多くの人が福音を信じることになったのです。
わたしは神学生時代に夏季伝道に派遣された教会で、しばらくの間その教会の長老家族にいろいろとお世話になったことがあります。私はその時に自分の家族がなぜクリスチャンになったのかという話をその長老から聞いた覚えがあります。その家族は元々、四国の高知の出身で、たぶんその長老のおじいさんの話だったと思います。当時、アメリカの南長老教会の宣教師が四国にやって来て伝道活動を始めました。「外国人が外国からやって来て、外国の宗教を伝えている。」その人はそれがとても気にいらなかったらしいのです。あるとき、酒に酔った勢いのせいもあったのでしょう、「自分がアメリカ人宣教師をとっちめてやろう」と宣教師の元を訪ねていったのだと言うのです。その宣教師は丁寧にその人を教会に迎え入れました。そしてその人の前で、なれない日本語を使いながら宣教師は熱心に聖書のお話をし始めたと言うのです。ところがその人、酒に酔ってやって来ていましたから、その宣教師の話を聞いていてすぐに眠ってしまいました。しかしその宣教師はその人が眠ってしまっても、真剣になって聖書の話をし続けたのです。やがて、酔いがさめて目を覚ましたその人は、宣教師が自分に何を言ったのかは覚えていませんでしたが、自分に対して真剣になって話し続けてくれていたことを覚えていて、それに強い感銘を受けたと言うのです。そして、「すみません。また後で出直して来ます。その時にもう一度聞かせてください」と謝って、教会を去りました。その人は後日、改めて宣教師のところに訪問し、その宣教師から聖書の福音を熱心に聞いて信仰者になる決心をしたのだと言うのです。そしてその後、一家すべてがクリスチャンになったと言うのです。何よりも自分の祖父も自分に対して真剣に語る宣教師の姿に心動かされて信仰に入ったのだとその長老は一家の証を私に語ってくれたのです。
3.敵対者たちの働きも評価する
パウロはここで大変興味深いことを語っています。それはパウロに好意を持つ仲間たちのことではありません。むしろパウロの働きを快く思わない人々の行動についても彼は評価を与えているのです。パウロはその人々のことについて次のように説明しています。
「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」(17節)。
パウロがここで語っている人々はパウロを牢獄にいれたような人々ではなく、むしろパウロと同じ信仰を持ったクリスチャンたちであったと考えることができます。しかし、彼らはパウロの働きに明らかに反感を持っています。もしかしたら、自分たちが伝道した人々が自分たちから離れて行ってしまって、パウロのところに行ってしまったという経験を持っていたのかもしれません。いずれにしても彼らは何らかの理由でパウロの活動に強い反感を抱いていたのです。だから、パウロが牢に捕らえられたと言う出来事は自分たちにとって絶好のチャンスだと彼らは考えたのです。「鬼のいぬ間に…」ではありませんが、このときばかりと彼らはより一層熱心になって福音を伝えました。つまりその動機はどちらかと言うとパウロのことを出し抜いて、教会内で自分たちの影響力を強めようとするところにありました。しかし、パウロは結果的に彼らの活動を通しても福音が前進したことを喜ぶとここで言っているのです。パウロはここでも自分の損得ではなく、そのことが神のためになっているのかどうかで出来事を判断しています。
今から500年ほど前に日本にキリスト教を伝えるためにやって来たフランシスコ・ザビエルを皆さんはご存知であると思います。彼はパリ大学というところで学生として学んでいたときに、ロヨラと言うとても熱心な信仰者に出会います。その後、このロヨラの元に集まった人々が「イエズス会」と言う伝道者の集まりを作ります。そしてザビエルはそのイエズス会の宣教師としてアジアに向かい、やがてそのアジアの東の果てにあった日本にまでやって来たのです。
実はザビエルが日本にやって来たころ、ヨーロッパでは宗教改革運動が起こっていました。当時のヨーロッパではプロテスタントとカトリックが勢力争いをしていて、大変な混乱が起こっていました。一説によればロヨラ達のイエズス会はヨーロッパで劣勢になっているカトリックの力を挽回するためにまだキリスト教が伝わっていない世界に目を向け、伝道することでカトリックの力を回復させようとしたと言われています。ザビエル自身が実際にそのことを考えていたのかどうかは分かりませんが、いずれにしても日本におけるキリスト教の伝道が開始された理由は、もともとはヨーロッパで生まれた宗教改革運動が原因があったと考えられるのです。
パウロは誰がどのような動機で福音を伝えたかと言う理由ではなく、結果的にキリストの福音が伝えられたと言うところでその出来事を判断しようとしました。パウロがこう考えることができたのは、福音宣教の働きは神御自身が行ってくださる神の業だと言うことを知っていたらからです。つまり、パウロ自身が福音を伝えることができたのも、神がパウロを用いて、そうさせてくださったからなのです。そして、パウロに反感を抱いた人々も、彼らの思いをはるかに超えて働かれる神によって用いられて伝道することができたのです。
福音書の中ではイエスの弟子の一人であるヨハネがあるとき、イエスの名を使って悪霊を追い出している自分が知らない人々に出会いました。ヨハネはその人々に「イエスの名前を使うのは自分のような弟子たちに許されたものだから勝手に使うな」と叱りつけたと言うのです。そしてヨハネはこのとき自分がしたことをイエスも喜んで褒めてくれるだろうと思って、報告します。ところが、ヨハネの期待に反してイエスはそのことを報告したヨハネを叱りました。そして「わたしに逆らわない者は、わたしの見方なのである」と語られたのです(マルコ9章38〜41節)。パウロがどんなに時に見失わなかったのは、このような視点です。
「わたしの人生を用いているのは自分自身だ」。そう考えてしまうならば、私たちの人生で自分が思ってもいないような出来事が起こったとき、人生はこんなものとあきらめる他ありません。また、自分の人生を呪って生きるしかありません。しかし、パウロは自分の人生を通して神が働いてくださることを知っていました。そして、その神の働きには失敗がないと言う確信を持っていたのです。だから、自分がたとえ捕らわれの身となり、自由を奪われたとしても、パウロはそのことを通して自分に何ができるかを考え、実行することができました。また、自分の周りに起こる出来事をも神の働きとして評価し、自分も共に喜ぶことができたのです。
神は私たちの人生を通しても「福音が前進」するために働かれます。そのことをもう一度、心に刻んで、パウロに倣って信仰生活を送りたいと思うのです。
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祈祷 |
天の父なる神様
自分の人生に起こった思いもよらない出来事をパウロは経験しながらも、かえってその出来事を通して福音が前進していることを彼は喜ぶことができました。そして自分の置かれた場所で、忠実に使命を達成しようとしたパウロを神さまは用いてくださいました。わたしたちにも、パウロのような信仰を与えてください。私たちは思いもよらない出来後にがっかりし、希望を失いかけることがあります。わたしたちに自分たちが経験する出来事の価値を正しく判断できる知恵を与えてください。そして神に信頼して、それぞれが与えられている人生の使命を全うすることができますように、助けを与えてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.パウロはこの手紙をフィリピの教会の人々に送ったとき、どのような状況に置かれていましたか(18節)。
2.パウロはフィリピの教会の人々に自分に起こった出来事を通して、それが何に役だったかを知ってほしいとフィリピの教会の人々に願っていますか(17節)。
3.パウロが牢獄に監禁されることでどのようなことが起こったと彼自身は語っていますか(14節)。
4.ある人たちはどのような不純な動機に基づいてキリストを告げ知らせようとしましたか(17節)。パウロは彼らの行動を知ってどう思うと言っていますか(18節)。
5.私たちの人生を神が用いてくださるという信仰の確信は私たちの信仰生活にどのような確信を与えると思いますか。
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