2019.11.24 説教「生きるにしても、死ぬにしても」


聖書箇所

フィリピの信徒への手紙1章18〜26節
18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。


説教

1.パウロの願い
①フィリピの教会の人々を励まし続けたパウロ

 今日も皆さんと共に使徒パウロの記したフィリピの信徒への手紙を学びたいと思います。ローマで囚人として捕らわれの身となったパウロが、フィリピの教会の人々に送ったこの手紙の中にはどのようなことが書かれているのでしょうか。今まで私たちが読んでわかることは、パウロは懸命になってフィリピの教会の人々を励まそうとしていると言うことです。牢屋に入っている人が、そうでない人たちを励ますと言うのは少しおかしな関係かもしれません。しかし、フィリピの教会の人々にとってパウロの投獄は、自分たちの信仰を揺るがすような大事件であったと考えることができます。
 第一に自分たちの指導者であったパウロが捕らえられてしまったら、今後、自分たちは誰を頼りにすべきなのか、そんな心配が彼らには残されます。もしかしたら、フィリピの教会の人々にもパウロを襲った迫害の手が及ぶ可能性もありました。また、問題は外部からの迫害だけではありません。パウロにライバル心を抱く人々が、「お前たちはパウロなどを頼りにしているからダメなのだ」と言って自分たちを攻撃してくるかもしれません。このような問題に自分たちはどのように対処すべきなのでしょうか。こんなときこそパウロの指導を受けたいと彼らは考えていたはずです。
 第二に彼らにとってパウロが投獄された出来事は、信仰的にどう理解するのかと言うこともありました。これも彼らにとっては大切な問題でした。「どうして、あんなに熱心にキリストの福音を伝えたパウロがこんなひどい目にあうのか?」。福音を信じても、自分たちが不幸になってしまったら、元も子もないはずです。それでも福音を信じるということにどのような意味があるのか…?この問題もフィリピの教会の人々には重要なことであったと考えることができます。
 パウロは獄中からこのような問題に直面しているフィリピの教会の人々に手紙を送りました。そしてパウロがこの手紙の中で強調したことは、自分が投獄されたことは決して不幸な出来事でないと言うことです。むしろ、自分が囚人の身となることを通して、福音が今まで以上に前進していると言うことにパウロは目を留め、フィリピの教会の人々にもそれに気づいてほしいと語るのです。
 今日の部分でも自分の身の上を心配するフィリピの教会の人々に、「自分が今、何を考え、何を願っているのか」を明らかにすることで、フィリピの人々を安心させようとするパウロの姿が示されます。

②パウロは一人ぼってではない

 パウロはこのときローマの獄中にありました。しかし彼は自分が決して一人ではないと言うことを知っていました。なぜなら第一に自分を心配して、祈り続けてくれているフィリピの教会の人々の存在がありました。そのフィリピの教会の人々は今でもパウロのために熱心に祈り続けていました。神は私たちの献げる祈りを決して無視されることはありません。その祈りの言葉に耳を傾け、ふさわしい答えを必ず私たちに与えてくださるのです。私たちが今、このようにして神を信じることができることも、礼拝を献げることができているのも、私たちがささげた祈りに対する神の答えであることを私たちは覚えたいと思います。
 ラザロ霊園にある教会の墓地に行くときに、私は必ず同じ敷地にある自分の母教会のお墓の前を通ります。そのお墓の墓誌にはたくさんの人の名前が記されています。私はその名前を読みながら、その人たちの顔を思い出すことができます。私が献身して神学校に行くときに、喜んで送りだしてくださり、その後も祈り続け、支え続けたくださった人たちの名前がそこに多く記されているからです。その名前を読むたびに「自分が今まで牧師を続けられているのは、この人たちが祈ってくださったからだ」と思えるのです。たとえ祈りを献げた人々が地上を去ってしまっても、神はその人たちの献げた祈りの答えを忠実に実現してくださる方なのです。
 さらにパウロは獄中の自分を支え続けたのは「イエス・キリストの霊」であると語っています。これは天におられるイエス・キリストが私たちにために聖霊を送り続けてくださって、私たちの信仰生活を導いてくださると言うことです。実は私たちの信仰の本当の指導者は天におられるイエス・キリストご自身です。そのイエスは天から私たちに聖霊を送ることで、私たちの信仰生活を指導し続けてくださるのです。獄中にあるパウロが希望を捨てることなく、自分の身の上を通して福音が前進していることを知り、それを喜ぶことができたのは、このキリストの霊である聖霊の働きの結果であったと考えることができます。
 人間の言葉は無力です。旧約聖書の中に登場するヨブと言う人物は、数々の厳しい試練に出会い苦しみました。彼を心配した友人たちが彼の元を訪れて、彼を励まそうとして様々な言葉を語りますが、その言葉によってヨブはさらに苦しめられると言う悲劇が生まれてしまいます。試練に立たされた人のために私たちができることは、その人のために祈り、本当の慰めを与えてくださる聖霊の助けが与えられることを願うことだと言えます。

2.キリストを大きくしたい
①自分は恥をかきたくない

 さらにパウロはここで次のように自分の願いを改めて語っています。

「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(20節)

ここに「恥をかかず」と言う言葉が登場します。「人前で恥をかきたくない」。私たちもそんなことを思うことがあるはずです。そのために、自分をなるべくよく見せようと努力するのではなにでしょうか。しかし、このパウロの「恥をかかず」と言う意味は私たちの考えているものとは全く反対であることがわかります。
なぜなら、パウロは続けてこう言っているからです。「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。この言葉から分かるのは、パウロはいつも自分の人生を通してイエス・キリストが崇められることを望んでいたと言うことです。つまり、パウロにとっての「恥」とは自分の人生がイエス・キリストのためになっていないと言うことなのです。
ここで使われている「あがめられるように」と言う言葉の本来の意味は「大きくされるように」と言うものだそうです。パウロは自分の活動を通していつもイエス・キリストが大きくされることを望んでいました。私たちが普通、「自分の恥」と考えるのは全く反対のことです。私たちは人々の間で自分が小さく見積もられることを「恥」と考えています。だからできるだけ自分を大きく見せたいと思って必死になって頑張っているのです。しかしパウロはそう思っていなかったのです。むしろ自分の人生を通してキリストが大きくなるなら、自分が小さくなっても少しもかまわないと彼は考えていたのです。

②地上の死はキリストにお会いするとき

 このような希望を持つパウロでしたから、その人生に対する考え方、パウロの人生観はとてもユニークであることが、ここでのパウロの言葉からも分かります。

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(21〜23節)。

 パウロは囚人として獄中にありました。これからローマの裁判を受けて、彼の取扱いが決まるはずでした。無罪となって釈放されるか、それとも有罪となって処刑されるのか。今は何もわかりません。だからとても不安な立場に彼は立たされていたのです。ところがパウロはここで「自分がたとえ処刑されて死んでも、それは自分のために利益となる」と語ったのです。それはどうしてでしょうか。「死んで、この苦しみから早く解放されたい」と多くの自殺希望者は考えます。しかし、パウロが利益と言うのはそんなことを言っているのではありません。パウロは「キリストと共にいたい」と言う熱望が自分の死を通して実現することが自分にとって利益だと語っているのです。だからパウロにとって地上の死は終わりの時ではありませんでした。
 パウロはかつてステファノと言う人物が石打の刑に会い殉教した事件に立ち会いました。彼はこのときステファノを殺した人々の一員としてそこにいたのです。しかし、パウロはそこで確かにステファノの最後の言葉を聞いていたはずです。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7章56節)。地上の生涯をキリストのために生きる者にとっての最高の喜びは、そのキリストに会い、いつまでも彼と共にいることです。私たちの地上の死は、このキリストに出会うときであり、私たちにとって利益なのだとパウロはここで語っているのです。

3.残された時間を用いてくださるのもキリスト

 キリストにお会いしたい、彼と共にいたいという熱望を語るパウロでしたが、彼はここでも自分の熱望を優先させることは決してありませんでした。彼はここでもキリストの御心を優先させて考えています。私たちは伝道礼拝で「神の国と神の義をまず求めなさい」という歌を毎月歌っています。これは今はやりの言葉に置き換えるなら「キリスト・ファースト」と言うことになるのではないでしょうか。パウロの人生観を一言で言えばこの「キリスト・ファースト」と言えるのです。

 「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(24節)

 パウロはもし自分の地上での命の時間が残されているとしたら、それはキリストのために使うようにと残されているのだと考えています。具体的には教会の兄弟姉妹を励ますために自分の人生の時間は残されていると言うのです。パウロの人生は最後の最後までキリストのためという使命感で貫かれていました。なぜなら、キリストが自分の人生を最後まで用いてくださるという信仰をパウロは固く持ち続けていたからです。

キリスト教信仰を自らの文学作品を通して表明し続けた作家の椎名麟三は、自分の生涯の意味について次のようなことを言っています。不器用な自分が何かを懸命にしようとすると、その姿が人には滑稽に見えるらしい。だから自分が頑張れば、頑張るほど、他人はその姿を見て笑う。でも、それでもいい。自分の姿を見て人が笑ってくれるなら、自分は神さまのために喜んで道化師を演じたいと思うと言うのです。
 キリストのために生きるとはどういうことか…。キリストを大きくするということはどういうことか。私たちがこの問いを自分の人生に当てはめようとするとき、自分にそれができるのだろうかと言う心配が起こります。また、どのようにすればそれが可能になるのだろうかと言う疑問を抱くことになります。しかし、結局私たちの人生をそのようにもちいてくださるのはイエス・キリストなのです。私の人生の価値を一番よくしっていて、それを十分に用いることができるのはこの方だけだからです。だから私たちは自分の地上の生涯の最後のひと時まで、イエス・キリストがその人生を用いてくださることを信じたいと思います。そのためにも私たちは「神の国と神の義を求める」信仰生活を、キリストファーストの信仰生活を追い求めて生きたいと思うのです。


祈祷

天の父なる神様
 私たちにパウロの書いた手紙を与え、私たちの信仰生活を励ましてくださるあなたの御業に心から感謝します。あなたは私たちの人生に無意味なことを与えることはありません。私たちの地上の死はイエス・キリストに出会う喜びのときであることを教えてくださりありがとうございます。また、私たちの残された地上での人生も、イエス・キリストが用いてくださることを示してくださり感謝します。地上の価値観に支配されて、自分の人生の本当の意味を見失ってしまうわたしたちです。どうか私たちに聖霊を遣わして、キリストのために生きえる人生を喜びとすることができるよう導いてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときに獄中にあるパウロを喜ばせるものは何であると彼は語っていますか(18節)。
2.キリストの福音が前進することが自分にとっての救いとなると言う確信をパウロはどこから得たと言っていますか(19節)。
3.パウロの生涯にとって「恥をかく」と言うことはどのようなことなのでしょうか。それは私たちの考えている「恥をかく」と言う出来事とどう違っていますか(20節)。
4.パウロはどうして死を自分の利益だと言うことができたのでしょうか(21〜23節)。
5.パウロにとって「肉にとどまること」、残された地上での人生を生きることにはどのような意味があると言っていますか(24〜26節)