2019.11.3 説教「本当に重要なことを見分けるために」


聖書箇所

フィリピの信徒への手紙1章3〜11節
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


説教

1.聖徒の交わりとは
①日本人の抱く誤解

 以前、「聖徒の交わり」について教会員の方から質問を受けたことがあります。私たちの教会の信仰を昔から伝えている使徒信条の文章には「聖徒の交わり」と言う言葉が登場します。この使徒信条の文章の直前には「きよい公同の教会」と言う言葉が記され、それに続いて「聖徒の交わり」と言う言葉が書かれています。この順序からも「聖徒の交わり」と「教会」には深いつながりがあると言うことがここから分かります。つまり、聖徒の交わりとはきよい公同の教会に集められた人々交わりであると考えることができるのです。
ただ「聖徒の交わり」と言う文章自体を読むと、「聖徒って誰のこと」、「その聖徒はどこにいるの…」と言う様々な疑問が生まれてくるのも事実かも知れません。なぜなら、私たちは「聖徒」と言う言葉の意味を特別にすぐれた素質を持つ人たちのことだと誤解してしまうことがあるからです。今は違うようですが昔、日本のカトリック教会ではこの使徒信条の部分を「諸聖人の集まり」と訳していましたから余計混乱が生まれてしまいます。なぜならカトリック教会で「聖人」と言えば特別に信仰的な功徳をつんだ人々を意味するからです。普通の信徒が「聖人」になることはできないのです。そうなると「聖徒の交わり」は私たちと大変に縁遠いものとなってしまいます。
 今でも教会やキリスト教のことをよく知らない一般の日本人は「教会には特別な人々が集まっている」と考えているような気がします。だからそういう方を教会の礼拝にお誘いしても「自分のような修行の足りない者がいくところではない」とお断りの言葉をいただくことが多いのです。でもその反対に、そういう人が何かの縁で教会に出席すると「何だよ、ここにいる人はこれでも信仰者と言えるのか?」とがっかりしてしまうことがあり得るのです。このように多くの日本人は教会やそこに集うキリスト者について誤った先入観を持っているのです。そこには聖人たちが、あるいは聖人を目指している人が集まっていると思っているのです。

②罪人が聖徒となる

 聖書の中でイエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)と言われています。ですから私たちは自分がイエスに招かれている「罪人」であると言うことを認めて教会に集められているはずです。使徒パウロも自分のことを「罪人の頭」、「罪人の中で最たる者」と呼んでいます(テモテ一1章15節)。だから教会は正しい人が集まる場所ではないとも言えるのです。
 それでは聖徒とは言った誰のことを言っているのでしょうか。この言葉の意味を踏まえて考えるとむしろこの「聖徒の交わり」は「聖なるものにあずかる者の交わり」と訳したほうがよいと言う人もいます。つまり、この「聖」は教会に集まる私たちを直接指して言っているのではなく、私たちをこの教会に呼び集めてくださったイエスが「聖なるもの」であると言っていると考えることができるのです。イエスが教会に集めてくださったのは私たち罪人です。しかし、その私たちを「聖なるもの」であるイエスが集めてくださったからこそ「聖徒」と呼ばれる存在になったのです。私たちはこのイエスを通して「聖徒」と呼ばれる存在にされたと考えることができるのです。
この「聖徒」という言葉を考える際に大切なのは私たち自身の持っている何らかの性質ではなく、私たちを教会に集めて下さった方であるイエスが「聖なる方」であると言うことなのです。フィリピの信徒への手紙を書いたパウロはこの点で一貫した見方を示しています。彼には相手がいまどのような状況にあったとしても、たとえ彼らが問題を持ち、欠点の多い人たちだとしても、キリストに集められた人々なのだから彼らは「聖徒の群れ」だと言う自覚を持っていました。そしてパウロはすべてのことをイエス・キリストを通して考え、判断する姿勢をこの手紙の中でしましているのです。

2.パウロの確信
①自由と平安を手に入れる方法

 パウロはここで「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(9〜10節)とフィリピの人たちのために祈っています。私たちの住んでいる現代社会は情報の洪水と呼べるような状態の中にあります。テレビを見ても、パソコンやスマフォを見てもそこには無数の情報が飛び交っています。本来、情報は私たちの生活に役立つために提供されるもののはずです。ところが現代の私たちはこの情報によって惑わされ、ときには恐怖を陥れられるような不自由な生活をしているのです。
 「フェイクニュース」と言う言葉がひと時流行りました。アメリカの大統領は自分に不都合なニュースはすべて「フェイクニュース」だと言い張って、そのニュースを相手にしようとはしません。それに反して真実ではないニュースであっても自分に役立つニュースを本当のように取り扱うと言うことが起こっています。実は私たちの周りにも根拠が明かではなく、真偽がはっきりしない情報が多く流されて、私たちの判断を誤らせてしまっています。
 パウロが語っている「知る力と見抜く力とを身に着け(ること)」、そして「本当に重要なことを見分ける」ことは私たちの生活でも大切です。もしそれができたら、私たちはどんなに自由になれるでしょうか。そして私たちが不安から解放されて平安な生活を送ることができる方法もここにあると言うことができるのです
 パウロは自らこの秘訣を使っています。そして彼は実際にフィリピの教会の人々と自分の関係を考える際も、その秘訣を用いて正しい判断を下していたのです。このパウロが持っていた秘訣こそ、すべてのことを救い主イエスを通して知り、また理解し、判断すると言う方法です。

②イエス・キリストによって集められた人々

 パウロはこの手紙の冒頭でフィリピの教会の人々のことを考え、また彼らのために祈る時、「喜びを持って祈っている」(4節)と語っています。フィリピの教会も不完全な罪人の集まりですから、当時様々な問題を抱えていました。そして、また彼らの将来にも様々な不安がありました。実際、この手紙を書いているパウロは福音を伝えると言う使命に忠実に生きようとした理由で、迫害を受けて、捕らえられてこの時、囚人の身となっていました。そしてこの迫害はフィリピの教会の人々の上にも及ぶ可能性があったのです。パウロはたぶん、フィリピの教会の人々がそれらの危険から守られるようにと熱心に祈ったはずです。しかし、それでもパウロから喜びが失われることはありませんでした。パウロはフィリピの教会の人々のために心配しながら祈ったのでも、不安になりながら祈ったのでもなく、喜びながら祈ったと言うのです。
それはどうしてでしょうか。パウロの関心はいつもフィリピの教会の人々を教会に招いてくださった方、イエス・キリストに向けられていたからです。だから彼は「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)とまで確信を持って言うことができたのです。パウロはこの後、この確信の根拠について次のように説明しています。

「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」(7節)

実際にこの手紙を読んで見ますとフィリピ教会の人々がパウロの伝道活動のために熱心に祈り、物質的な支援を送って支えていたことが分かります。しかし、それならパウロはここでフィリピの教会の人々を「自分と共に苦労する者たち」と呼んでもよかったはずです。ところが彼はそうは呼ばずフィリピの教会の人々を「共に恵みにあずかる者」と呼んでいるのです。この言葉の意味することはどのようなことなのでしょうか。パウロは自分や自分と共に労苦するフィリピの人々だけを見つめるのではなく、自分と彼らをそのよう生きることができるようにしてくださったイエス・キリストに目を向けているのです。だから彼はすべて「恵み」によるものだと言うことができたのです。
私たちがこのように教会の礼拝に出席し、様々な活動に参加できていることを、もし私の努力の結果と考えているならば、どうでしょうか。その努力はいつまで続くか分かりません。しかし、もしこれらのことが救い主イエスの働きによるものであると信じ、その恵みによって可能とされているのだとしたらどうでしょうか。私たちは、その主イエスがこれからも自分たちの信仰生活を導いてくださると言うことを確信することができるはずです。自分の努力に根拠を置く者の心配は絶えません、「もし何か問題が起こって今のような信仰生活が送れなくなったら、どうしようか」、「もし老いてこれができなくなってしまったら、どうしよう」、また「認知症になったらどうなるのだろうか…」と心配の種は尽きません。ところが事実は違うのです。私たちはイエスによって導かれ、イエスによって守られています。その恵みの中で信仰生活を送らせていただいているのです。たしかに私たちの信仰生活は様々な事情によって変わって行くでしょう。しかし、私たちの主イエスはその変化の中でも、私たちを必ず導き続けてくださるのです。私たちにとってこれほど安心なことはありません。

3.正しい知識と理解力

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(9〜10節)。

聖書の解説者によればパウロが言っている「知る力」とは聖書が教える律法を理解する能力、そして「見抜く力」とはその律法を自分の生活に取り入れる能力を言っていると考えられています。さらに「本当に重要なこと」とは何よりも神に従って生きることを教えていると言ってよいでしょう。
本来、律法は人間が幸せに生きるために神が与えてくださったものです。パウロはローマの信徒への手紙の中で教えているように、律法自体はよいものなのに、堕落した人間にはその律法を守る能力がないのです。だからこの律法によって逆に不幸になってしまうという悲劇が生まれてしまうのです。悪いのは律法ではなく人間の側なのです。ですからこの人間の能力が回復すれば、律法は本来の役目を取り戻すことができるはずです。また神に従うと言うことも、同じです。人間は神に従うことによって本当の自由に得ることができます。しかし、罪に犯された人間は神に従うより、自分の意思に従う方が自由だと考えるのです。そして返って様々なものに縛られ不自由になってしまっているのです。
私たちは今やキリストを通して新しい命に甦りました。霊的に死んでいた人間が神によって生き返らせられたのです。そして私たちは聖霊の力によって神に造られた人間の形を回復しつつあるのです。だからこそ、私たちは神の教えが記されている聖書の言葉に従い、また神に従う生活を生きることができるようにされています。そしてこれらのことができることこそ神の恵みであると言えるのです。

4.不完全な人間の交わりを完成させるキリストの愛

「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(10〜11節)。

このように私たちはイエス・キリストの恵みの中で、成長し、やがては完成に至るという確信を神から与えられています。ですから私たちは喜びながら、神の約束が実現する日を待ち望んで信仰生活を送ることができるのです。この神の御業は日ごとの信仰生活を通して私たちの上に実現しています。私たちは完成の日を待ち望みつつ、今はこの神の訓練を受けながら成長の歩みを続けているのです。だから私たちの教会生活は神の訓練を受けることができる恵みの場と言えるのです。
ユダヤ人の心理学者ビクトル・フランクルはその著書の中で完全な人間の集団には愛は成立しないと言うことを書いています。なぜなら、人間はそれぞれ不完全であるからこそ、お互いに助け合う機会が生まれるからです。完全な人間は神の助けも、人の助けも必要とはしません。すべて自分一人の力で成し遂げることができるからです。だから完全な者は独りぼっちで寂しい生活をしなければなりません。
このような意味で「聖徒の交わり」は決して「完全な人の集まり」ではないと言うことが分かります。なぜなら聖徒の交わりに愛によって成立する交わりだと言えるからです。私たちはそれぞれ不完全な人間です。だから兄弟姉妹の助けを必要としていますし、その兄弟姉妹のためには自分の助けが必要とされているのです。さらに何よりもこの不完全な人間の交わりのためにはイエス・キリストの愛が必要とされているのです。私たちの救い主イエスは私たちのためにその愛を出し惜しみされる方ではありません。イエスは私たちが恵みの中で成長していくために、私たちを愛し続けてくださるのです。
このイエス・キリストの愛を忘れてしまうならば、私たちの教会はお互いの不完全さを裁き合う集まりに変わってしまうのです。だから、私たちは教会生活を送るためにも本当に重要なことを知る力、見分ける力が必要なのです。パウロはそのために私たちがイエス・キリストを通して物事を見、また判断することを勧めています。そうすれば私たちはどこにおいてもキリストの愛を見出すことができます。不完全な私たちの集まりを、愛の集まりとしてくださるイエスの恵みを知ることができるようにされるのです。


祈祷


聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロがフィリピの教会の人々について「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と言える理由はどこにありましたか(7節)。
2.あなたは教会に集う兄弟姉妹の不完全さを見るとき、どんな思いになりますか。パウロはどのような思いを抱きましたか(8節)。
3.私たちの愛が豊かになるためには何を身に着ける必要があるとパウロは教えていますか(9節)。
4.私たちの信仰生活が神の恵みによって成り立っていることを知るならば、私たちの信仰生活からどのような心配が取り除かれると思いますか。