2019.12.1 説教「目を覚ましていなさい」
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聖書箇所
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マタイによる福音書 24章37〜44節
37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
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説教 |
1.アドベントの意味と過ごし方
今年もクリスマスが近づき、今日から待降節、アドベントの礼拝が始まります。クリスマスがお祝いされるようになったのはローマ帝国の時代であったとされています。詳しい事情はよくわかっていませんが、ローマ帝国がキリスト教信仰を受け入れた後にクリスマスは祝われるようになったようです。それ以前にローマではミトラ教と言って太陽を崇拝する宗教を信じていた人々がこの時期に「太陽の祭」を行っていました。ローマの人々がその太陽の祭をイエス・キリストの降誕をお祝いする日に変えたのです。ご存知のようにイエス・キリストの誕生日は聖書のどこを開いても書かれてありません。古代ローマの人々は世の光としてやってきたイエス・キリストの誕生をこの「太陽の祭」にお祝いすることがふさわしいと考えたのでしょう。
キリスト教にはこのクリスマスよりも古くから祝われているもう一つのお祭りがあります。それはイエス・キリストが甦られたことを記念するイースター、復活祭です。日本ではイースターはクリスマスに比べると知名度が低いようです。しかし欧米諸国ではこのイースターもクリスマスと同じように盛大に祝われます。キリスト教会ではこのイースターをお祝いするために一月前から四旬節あるいは受難節と言って準備の礼拝がささげています。私たちが今日から献げるアドベントの礼拝はこの四旬節の習慣にならって、キリスト教会の中で始められたものと考えられているのです。
クリスマスもイースターも救い主イエスを信じる私たちにとっては大切なお祭りです。そのお祭りを本当の意味でお祝いするためには一月前から準備することが大切なのかも知れません。もちろんこの準備は私たちが家でクリスマスツリーを飾ったり、クリスマスカードを交換するようなことだけでは言っているのではありません。それ以上に大切なことは私たちの信仰の準備を行うことです。ですから私たちはこの時期にクリスマスの日にこの地上に来てくださったイエス・キリストは、私たちを救うためにやって来てくださった救い主であることを確認することが大切なのです。またそのイエスが私たちの救いを完成させため今なにをされており、これからどのようなことをされようとしているかを聖書の言葉を通して確認することも必要となります。このようにしてクリスマスのための信仰の準備をすることで私たちはこのアドベントの期間を送りたいと思うのです。
さて、このアドベントの第一週の日曜日に、クリスマスを準備するために集まった私たちに聖書が語るメッセージは「目を覚ましていなさい」と言う言葉です。私たちの信仰生活にとって「目を覚ます」とはいったい、どういうことを言っているのでしょうか。どうして私たちは目を覚ましていなければならいないのでしょうか。これらのことを聖書に記されたイエスのお話から考えて見たいのです。
2.目をさましていなさい
①眠っているとはどのような意味か
イエスは今日の聖書のお話の中で次のように語っています。
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(37〜39節)
「人の子が来る」とは救い主イエスが再び、この地上にやって来てくださるときのことを意味しています。つまりこの言葉はキリストの再臨のときを指しているのです。キリストは私たちに与えてくださった救いを完成させるためにもう一度、この地上に来てくださいます。またそのときには神に逆らう者たちを厳しく裁かれます。これらのことはクリスマスの約束と同じように神が聖書を通して私たちにはっきりと約束されていることです。ところが、そんなにはっきりと神が約束されていることを、全く気にすることもなく生きること、それをイエスは「眠っている」と言う言葉で表しているのです。そしてその「眠っている」と言う状態をイエスは旧約聖書に記されているノアの物語を示すことで説明しています。このノアの物語は旧約聖書の創世記6章から8章に記されています。
神はここでご自分に逆らい、罪を犯し続ける人類を見て後悔されています。もちろん聖書は人間の罪の責任が神にあるのではなく、罪を犯した人間自身の側にあることを教えています。しかし、それでも神は自分が人間を造ったという責任を感じられているのです。そしてその責任を自分で引き受けようとされたのです。企業が問題の起こった製品を市場から全部回収して、処分するのと同じように、神は大洪水によって人類と他の生き物すべてを滅ぼして、処分してしまおうとされました。しかし、神は信仰を持って生きるノアだけをこの処分の対象から外しています。さらにはノアの家族、そして地上の生き物をそれぞれオスとメスの一組ずつ集めて、ご自身がノアに作るようにと命じた箱舟に載せて、この洪水から救おうとされたのです。
しかし、地上の人々はこんなに重大なことが起ころうとしているのに、それに関心を示しませんでした。彼らは実際に雨が降り、洪水が起こって、自分たちが滅びるまで気づかずに普通の暮らしをしていたと言うのです。調べて見るとノアが作った箱舟のサイズは現在の測り方になおせば「長133.5m、幅22.2m、高13.3m」となるそうです。突然、神の命令に従ってノアが作った巨大な箱舟、そしてノアは地上から様々な動物を集めてこの箱舟に載せようとしました。こんなことを誰にも知られないようにノアが行うことは不可能です。おそらくノアの行った奇怪な行動をたくさんの人々は目撃し、また噂にもなっていたはずです。しかし、地上の誰も、このノアの行った行動に正しい意味で関心を示す者はいなかったのです。「これは何のために作っているのか」、「これからどんなことが起こるのか」とノアを問い詰めるような人は一人もいませんでした。だから、ノアとノアの家族以外の人々は洪水によって滅ぼされてしまったのです。
どうして彼らはこのような重大な出来事に対して無関心のままで生きることができたのでしょうか。彼らはこれから起ころうとする出来事と自分たちは全く関係がないと思い込んでいたのです。それよりも、毎日必死になって生きることの方が大切だと考えていたのです。だから、洪水が実際に起こったときにはもうどうすることもできずに、皆がおぼれて死ぬことになりました。私たちが今年実際に体験した台風でも同じようなことが起こりました。どんなに河川が危険な状態になっても、私たちはどこかで「自分だけは大丈夫」という根拠のない確信を抱いて生きています。だから、危険を警告されてもそれに耳を貸そうとしないのです。
イエスが実際にこのお話をされていたときのユダヤの人々はどうだったのでしょうか。実は当時の人々も同じような状態にありました。エルサレムには立派な神殿が立てられていて、そこで働く祭司たちによって神に対する生贄が毎日ささげられていました。人々は聖書に教えられた戒め、律法を生活の中で厳格に守って毎日生活していました。ところが神が聖書の約束通りに救い主イエスを地上に遣わしてくださったのに、そのイエスに彼らは全く関心を示しませんでした。むしろ彼らはイエスに対して敵対的な態度さえ取ったのです。それはどうしてでしょうか。彼らも自分たちは大丈夫だという思い込みをしていたからです。だからイエスの語る警告は自分たちに全く関係ないと考え、無視することができたのです。
こう考えると、「眠っている」と言うことは神の語られるメッセージに対して自分はその対象者ではないと勝手に思い込んでいることであり、それよりも自分の抱えている問題を解決する方が先決だと考えて生きることだと言うことができます。私たちは本当に、神の語られるメッセージの前で今、目覚めている者と言えるのでしょうか。それとも眠っている者たちになっているのでしょうか。
②知っていないことを知っている
イエスは目覚めている者について続けて次のように語っています。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(40〜41節)
ここでは目覚めている者とそうでない者の違いが語られています。畑で働く二人の男性も臼を引いている二人の女性も目に見える表面的な状態には全く違いがありません。しかし、神は一人を連れて行き、一人を残されるとイエスは語ります。人の目には同じでも、神は目覚めている者とそうでない者を見分け、目覚めている者をご自身の元に連れて行かれると言われるのです。この言葉を読むと、「目覚めている者」は何か他の人とは違う目に見えるような特別な行動をするわけではないことが分かります。同じように日常の生活に励んでいても、目覚めている者とそうでない者は違うと言っているのです。
続けてイエスはどうして私たちが「目覚めている者」である必要があるのか、その理由をたとえ話で説明しています。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。」(42〜43節)。
先日、茨城にある私の実家に空き巣が入りました。実家には今誰も住んではいませんし、家にいらなくなった両親の遺品だけが置いてあります。そんな家にも空き巣は入るのです。近所の人の話によれば、人気のまばらなこの地域の家を狙って最近、空き巣が頻繁に侵入していると言うのです。しかも、その大半の犯行は真昼間に行われていると言います。とにかく、空き巣は誰にも気づかれないように意表を突いたときに侵入して来ます。ドラマの二十面相ならば予告状をくれますが、実際の泥棒はそうではありません。だからいつ泥棒が侵入してもよいように気をつけていなければなりません。目を覚まして用心する必要があるとイエスは語るのです。
ここでイエスが私たちに教えていることは「あなたがたには分からないからである」と言う言葉に表されています。つまり、イエス・キリストが再び来られる時を自分は知らない、知らされていないと言うことを知ることが大切だと言うのです。そしてその上で必ずイエス・キリストはこの地上に再び来られて私たちの救いを完成し、地上のすべてを裁かれる時がくることを忘れないことです。それを忘れていない人こそが「目を覚ましている者」だとイエスは言っているのです。
3.キリストの福音
ロシアの作家トルストイが記した「靴屋のマルチン」という小さなお話があります。この物語はクリスマスには関係しませんが、この季節によく読まれるお話です。年老いたマルチンは靴職人として働いています。彼は妻や息子に先立たれて独りぼっちの生活をしていました。毎日、希望もなく自分が死ぬことだけを考えていたマルチンに、ある日、伝道者を通してキリストの福音が伝えられます。それから伝道者のアドバイスに従って彼は聖書を熱心に読み続け、イエス・キリストのことを知って行きます。こんな素晴らしいイエス様が自分と一緒にいてくださることを知ったマルチンは生きる希望を取り戻して行くのです。
ある晩、いつものようにマルチンが聖書を読んでいると、どこからかイエス様の語られる言葉が彼の耳に聞こえて来ます。「マルチン。明日、あなたのところにわたしは行きます。」その言葉を聞いた、マルチンは次の日、朝から窓の外を見ています。今までは自分のことだけを考えて一日を送っていたマルチンが、久しぶりに家の外を見るとそこには今まで気づかなかった情景が繰り広げられて行きます。朝から懸命に道に積もった雪かきをする老人、乳飲み子を抱えているのに、食べ物を買うお金を持たない貧しい母親、さらにはリンゴ売りの婦人とその婦人のリンゴを盗んで捕まえられている少年などです。マルチンはその人たちを一人一人家に招き入れて、イエス様が来た時に出そうとしていたお茶を振る舞います。そこではマルチンが今まで体験したことのないような人々との出会いが生まれるのです。その日の夜、またマルチンの耳にイエス様の声が聞こえてきました。「わたしは今日、確かにあなたのところにいきました」と言う声を…。
私たちも今、「あなたのところに行きます」と言うイエス様の声を聖書の言葉を通して聞いています。その言葉に従って、イエスの到来を待って生きることが私たちの信仰生活だと言えるのです。私たちは普段、何か人と違った特別な生活をしているわけではありません。しかし、神はイエスの到来を待って信仰生活を送る私たちのことをよく知っておられます。そしてこのキリストの福音を信じる私たちは、自分だけを見つめて生きる生活から解放されて、小説の主人公のマルチンのように新しい気持ちで、この世界を見ることができるようにされるのです。目覚めて生きる者は様々な人との出会いの中でこの世界に今も神が働いてくださって、私たちを祝福してくださっていることを知ることができます。
このような意味で、目覚めて生きる者は、イエス・キリストが再び来られるときを待ち望みつつも、今日の生活の中に神の恵みを見出すことで、喜びを持って生きることができる者と言えるのです。
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祈祷 |
天の父なる神様
今年もクリスマスのシーズンを迎え、今日のこのアドベント礼拝に参加することができたことを感謝いたします。世の光であるイエス・キリストは罪の闇に閉ざされた私たちを救い出すためにこの地上に来てくださいました。またその救いを完成させるために、再び私たちのところに来てくださる方であることを信じます。私たちが目覚めて、「人の子が来るとき」を待つことができるようにしてください。キリストの福音によって罪の闇の世界から解放された私たちがキリストの光によって、私たちの毎日の生活を見つめなおし、そこに神の豊かな祝福が隠されていることを知ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りたいします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスは私たちに与えてくださった救いを完成させるために、再びこの地上に来られます。「人の子が来るとき」とはその時のことを指しています。イエスはこのときのことを旧約聖書のどんな物語を使って説明していますか(36〜39節)。
2.あなたも創世記6章から8章の物語を読んでみましょう。この物語にはどのような人物が登場していますか。それぞれの人の生き方にはどのような特徴がありますか。
3.畑で働く二人の男と臼をひく二人の女に対する神の対応の違いの理由はどこにあると思いますか(40〜41節)
4.私たちが目覚めて生きる必要がある理由をイエスはどのように説明していますか(42節)。
5.イエスはここで泥棒に入られ人の失敗の原因はどこにあると説明していますか(43〜44節)。
6.「目をさましていなさい」と言うイエスの言葉に応えて、あなたはどのような信仰生活をこれから送って行きたいと考えていますか?
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