2019.12.15 説教「道を準備せよ」


聖書箇所

マタイによる福音書11章2〜11節
2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 わたしにつまずかない人は幸いである。」7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。


説教

1.獄中でのヨハネの誤解
①クリスマスと自分の人生の関係は?

 イギリスの作家チャールズ・ディケンズが記した「クリスマス・キャロル」と言う作品は今でも多くの人に知られています。何度も映画やドラマにもなったとても有名な作品です。小説の内容がクリスマスと関係してくるので、クリスマスの時期によくこの作品が取り上げられます。この物語は、「金のためなら人が不幸になってもかなわない」と考える冷血漢の金貸しが主人公となっています。彼は「クリスマスなど自分には全く関係ない」と思い込んで生きています。
物語はクリスマスが近づいたある晩、この金貸しの元にかつての自分の金貸しの相棒であり、すでに世を去ったはずの人物が幽霊になって現れたところから始まります。鎖につながれて苦しそうな姿で現れたその幽霊は主人公に「このままなら、お前も自分のようになる」と警告されます。その後、この主人公の元に過去、現在、そして未来を見せてくれる精霊が現れて主人公の人生を振り返らせると言う話になって行きます。過去の精霊からは自分はかつて自分を愛してくれた人の愛を拒んで、こんな寂しい人生を送っていることを知らされます。また、現代の精霊からは自分がよく知っている人物の家庭が今、苦しい境遇に立たされていることを知らされます。そして未来の精霊からは自分の将来には孤独で寂しい、墓穴だけが待っていることを知らされるのです。この夢のような出来事を経験した主人公はクリスマスの朝を迎えます。そして彼は「今ならまだ間に合う」と叫びながら町に出て行って、クリスマスを祝う人々と喜びを分かち合おうとするのです。
 クリスマスは神が私たちのために救い主イエスを送ってくださったことをお祝いするお祭りです。この御子イエスを通して私たちへの神の愛が確かな形で示されました。しかし、クリスマスがどんなに素晴らしい出来事だとしても、そのクリスマスと自分との関係に気づくことができなければ、クリスマスの喜びは私たちのものとはなりません。クリスマスの本当の意味を知らない人々は盛大なパーティーを開いて騒ぐことはできますが、その結果はむなしい疲れだけが残るクリスマスで終わってしまいます。クリスマスを私たちが喜びを持って迎えるためには、私たちの心の準備する必要があります。このクリスマスの出来事と私たちの人生がどのように関係しているのかを知る必要があるのです。今日の聖書の物語に登場する洗礼者ヨハネは救い主イエスの登場を準備した人物として有名です。ヨハネは今までこの世の出来事や自分自身のことにだけに関心を持って生きて来た人々に悔い改めを呼びかけました。彼らにこれからやって来られる救い主に心を向け、自分との関係を知るようにと促したのです。

②ヨハネの抱いたメシア像

 ところが人々に救い主イエスを迎える準備をするようにと熱心に呼びかけたヨハネが、今日の物語では一転して「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と言う疑問を抱えるような人物になってしまっています。ヨハネはその問いの答えを知りたいと自分の弟子をイエスの元に遣わしました。イエスこそ神が自分たちのために遣わしてくださった救い主であるという確信を持っていたはずのヨハネが、どうしてイエスを疑うような問いを抱えることとなったのでしょうか。
 聖書によればこの時、ヨハネは牢の中にいたと記されています(2節)。ヨハネがなぜ牢の中にいたのかについては、この後で彼の悲惨な死の報告と一緒にマタイによる福音書の14章で詳しく説明されています。その説明よれば彼は領主ヘロデが行った結婚が律法違反であることを公に批判したために、ヘロデの反感を買って牢獄で捕らわれの身となっていたのです。そしてヨハネはその獄中でイエスの活動の様子を聞いて、先ほどのような疑問を抱くこととなり、その答えを求めてイエスの元に自分の弟子たちを遣わしたのです。
 確かに洗礼者ヨハネが人々に語ったメッセージは正しいもので、そこに誤りはありませんでした。なぜなら、そのメッセージはヨハネ自身から出たものではなく、神から伝えられた言葉だったからです。しかし、ヨハネは自分が語ったメッセージのすべてを正しく理解している訳ではなかったようです。特にヨハネはイエスについて「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(11〜12節)と語っていました。このヨハネのメッセージの全体を考えると「来るべきメシアは神に背く罪人を厳しく裁かれる方だ」と言うような印象を受けるはずです。
 しかし、実際のイエスの活動は厳しい裁きを行うようなものではありませんでした。ヨハネは自分が理解していたメシア像と実際のイエスの姿との間に大きな違いを感じて悩んだのです。
 実はこのようなことは洗礼者ヨハネだけに起こる問題ではないと言えます。確かに聖書の言葉は誤りのない神の言葉なのですが、それを理解しようとする私たちは絶えず誤りを犯す存在です。だからせっかく聖書が私たちに福音を語っているのに、それを裁きのメッセージと勘違いして悩むことが多く起こるのです。
今でも映画やドラマで取り上げられる日本の作家で太宰治と言う人がいます。彼はよく聖書を読んでいたと言われています。しかし、彼の聖書の読み方は結局そこから福音を読み取るものでありませんでした。彼は元々自分をダメな人間だと考える傾向がありましたから、結局その自分のダメな部分を確認するために聖書の言葉を読んでしまったのです。これではいくら聖書を読んでも神の救いにあずかることはできません。

2.無学な者に聖書を理解させる聖霊の力

 このようにイエスのことを誤解していたヨハネでしたが、それでも彼が優れていた点は自分の疑問を隠すことなくイエスに伝え、その答えをイエスに求めようとした点です。これは勝手に神の言葉を誤解して、勝手に絶望してしまうような人とは大きく違うものです。
 昔から教会では聖書の言葉は無学な人にもわかるものだと言われています。大学に行ってギリシャ語やヘブル語を専門的に研究しなくても、誰もが聖書を通して語られる神の真理を理解することができると言うのです。それなのになぜ、私たちは聖書の言葉を誤解してしまうことがあるのでしょうか。
 数日前に私は今年も幼稚園で聖書のお話をしてきました。私はいつも、小さな子供たちにお話することを楽しみにしています。なぜなら、子どもたちは私の語る聖書のお話にとても素直に反応してくれるからです。面白いときには目を輝かせてお話を聞いてくれますが、お話が少し難しくなったり、退屈だと、すぐに飽きてしまいます。それでも、最後に「皆さんもイエス様を信じてくださいね」と呼びかけると、毎年大きな声で「はーい」と元気のよい返事をしてくれます。
しかし、大人の場合はこうは行きません。大人はこんなに素直に福音が語るメッセージに応答してはくれないのです。その理由は、私たちは大人になるに連れて自分の持っている知恵や経験を絶対化して、それに反する事柄を受け入れることができなくなってしまうからです。これはイエスの時代の多くの人々にも見られた傾向でした。彼らも自分たちの持っている聖書の知識や宗教の経験を絶対化したために救い主として来られたイエスを受け入れることができなかったのです。
 聖書の言葉は無学な人にも理解することができるものです。しかし、なぜ無学な人でも理解できるのかと言えば、それは神の御業がそこで働かれるからだと言うことができます。福音のメッセージを正しく理解したいと考えたヨハネがイエスにその言葉の正しい意味を教えてもらおうとしたように、私たちも聖書の言葉を正しく理解するために、その答えを神に求めなければなりません。私たちが神の言葉である聖書を正しく理解したいと神に願うなら、神は私たちに聖霊を遣わしてくださり、私たちにその言葉の正しい意味を教えてくださるのです。この神の聖霊の働きがなければ、どんな人も聖書の語る福音のメッセージを正しく理解することはできないのです。

3.貧しい者の幸い

 イエスはご自分に対して素直に疑問を投げかたヨハネに確かな答えを与えてくださいました。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(4〜6節)。
マタイによる福音書に収録されているイエスの語られた山上の説教の冒頭は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5章3節)という言葉から始まっています。ここで登場する「貧しい人」という言葉には「小さく縮こまっている人」という意味があります。人は苦難や深刻な悩みに出会うと「小さく縮こまってしまう」傾向があります。ですから聖書の語る「貧しさ」は単に金銭的な貧しさだけを表しているのではないのです。それは苦難の中で苦しんで「小さく縮こまって」いる人を指していると考えることができるのです。イエスがここで語っている「目の見えない人」も「足の不自由な人」も「重い皮膚病を患っている人」もそして「耳も聞こえない人」、また病苦の末に死んだ人もすべて「貧しい人」と言う言葉で表現することができるのです
イエスが活動していた当時の人々の宗教観から考えるとこれらの「貧しい人」は神に見放された人と考えられていた傾向がありました。なぜなら、当時の人々は地上の生活の繁栄こそ神からの祝福の証拠であると考えていたからです。だから貧しい人や不幸な境遇に陥っている人は、神の祝福から除外されていると考えられていたのです。
ヨハネによる福音書の9章には生まれつき目の見えない盲人の話が記されています。先ほどの説明に従えば彼もまた「貧しい人」の一人であったと考えることができます。当時の人々は彼の目が生まれつき見えないのは、神に見放されている証拠だと考えました。そしてその原因を彼か彼の両親が作り出したと考えたのです。しかし、イエスはこの生まれつき目の見えない人に対して「(この人の目が生まれつき見えないのは)、神の業がこの人に現れるためである」(3節)と語られました。
イエスによってこの時に明らかにされたことは、この生まれつき目の見えない人の人生は決して神に見捨てられた人生ではなかったということです。そして彼がイエスに出会うことになったとき、そのイエスを通して素晴らしい御業が彼の人生に実現します。先ほども言いましたように、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と語れました。どうして苦難の中で苦しみ続けているような「貧しい人」が幸いだと言えるのでしょうか。その人生の秘密はイエスに出会うことによってはっきりと分かるようになります。私たちが味わうこの世の苦難の意味は私たちがイエスに出会うときに始めて明らになるのです。このようにして私たちは神に見捨てられているのではなく、神に愛されていることを私たちの救い主イエスは私たちに教えてくださるからです。

4.私のために来てくださった救い主

 今日の物語に登場する洗礼者ヨハネはイエスの登場を準備した人でした。私が青森県の三沢で牧師をしていたときに、近くの農業施設を皇太子が訪問することがありました。そのとき、行政は皇太子が車で通る道を事前に舗装し直すという工事を慌ててしていました。洗礼者ヨハネは来るべき救い主がこの地上で働くために道を整える仕事をしました。ヨハネはそのために当時の人々に救い主を迎えるための心の準備をさせたのです。そのヨハネの準備を象徴する行為が人々を荒れ野に導いたということでした。私たちは普段、様々なものに守られて生きています。荒れ野はそのすべてがなくなってしまうような場所であると言えます。様々なもので満ち足りた普段の生活の中では、私たちは本当は自分一人で何もできないような「貧しい」存在であることを忘れてしまっています。だからヨハネはわざわざ人々を荒れ野に導いたのです。そのようにして荒れ野にやって来た人たちに自分がどんなに「貧しい」存在であるかを理解させようとしました。しかし、ヨハネは人々に自分の貧しさだけに気づかせようとしたのではありませんでした。その貧しい人のために救い主がやってくださることをも伝えようとしたのです。
 イエスによって「貧しい人に福音が告げ知らせる」とは、貧しい人がイエスと出会うことによってその人生の苦難の意味を知り、神に見捨てられたとしか思えなかった人生が、実は神の祝福の中に生かされていた人生であることを教えられることだとも言えます。
 ヨハネの質問にイエスが丁寧に答えてくださったように、私たちの人生の問いにもイエスは答えを与えてくださるはずです。このクリスマスのためにやって来てくださった救い主は私たちの人生の本当の意味を教えるためにやって来てくださった方です。このようにイエスが私のためにやって来てくださった方だと言う思いを持って、このクリスマスを迎えたと思います。


祈祷

天の父なる神様
 私たちを待降節第三主日の礼拝にお招き下さり感謝します。クリスマスの良き知らせを聞かされながらも、目の前の出来事や自分のことばかりに関心を注いでしまい、心を騒がせてしまう私たちです。どうか私たちに聖書を通して、このクリスマスが私たちのために与えられていることを知ることができるようにしてください。そのために聖霊を遣わして、私たちが福音を正しく知り、受け容れることができるようにしてください。私たちが心からの喜びを持って、クリスマスを迎えることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.洗礼者ヨハネは獄中でどのような疑問を感じましたか。そしてヨハネはその疑問を解決させるために何をしましたか(2〜3節)
2.イエスの到来を準備したはずのヨハネがどうしてこのような疑問を抱いたのだとあなたは思いますか(3章1〜12節)。
3.イエスはこのヨハネの疑問にどのような言葉で答えられましたか。(4〜6節)。旧約聖書のイザヤ書35章には来るべき救い主が実現させる世界の様子が預言されています。この言葉を踏まえてイエスの語られた言葉を考えてみましょう。
4.ここでイエスは洗礼者ヨハネをどのような人物であると言っていますか(7〜11節)。
5.イエスが今日の聖書箇所の最後の11節で語っている言葉をもう一度読んでみましょう。あなたはこの言葉の意味をどう考えますか。イエスがここで語るヨハネよりも偉大な者とは誰のことを言っているとあなたは思いますか。