2019.12.22 説教「神の愛が示された」
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聖書箇所
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ヨハネの手紙一 4章7〜12節
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
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説教 |
1.クリスマスのプレゼント
今年もクリスマスの礼拝を迎えました。クリスマスは御子イエス・キリストのご降誕を記念する日です。私が毎年、お話のために参加している幼稚園のクリスマス会では、私が「クリスマスは何の日」と尋ねると、「イエス様の誕生日」と大きな声で小さな子供たちがちゃんと答えてくれます。どうやら「サンタクロースの誕生日」と答える園児は一人もいないようです。この点でこの幼稚園の子供たちは、町行く大人たちよりも正しい知識を持っていると言えます。
そこで私は園児たちに続けて次のような質問をします。「どうして、クリスマスはみんなにとってとてもうれしい日なの」と…。するとこの質問に対しては多くの子どもたちから「プレゼントがもらえるから」と言うとても素直な答えがすぐ帰って来ます。
幼稚園の子どもたちの答えのようにクリスマスとプレゼントは切っても切り離せない関係にあると言えるかも知れません。アメリカの小説家O・ヘンリーはクリスマスのプレゼントをテーマにして『賢者の贈り物』と言う作品を残しています。聖書では東の方の国からやって来た占星術の学者たちが幼子イエスに「黄金、乳香、没薬」という高価な贈り物をささげたことが記録されています(マタイ2章1〜12節)。「賢者の贈り物」とはその学者たちの贈り物を本来は意味する言葉です。しかし、O・ヘンリーの小説ではこの学者たちのささげた贈り物とは全く違ったプレゼントが紹介されています。
若くて貧しい一組の夫婦がO・ヘンリーの小説では主人公になっています。この夫婦はお互いに相手に贈りたいクリスマスのプレゼントを準備します。夫は妻の美しい髪の毛のために鼈甲の櫛を買い求めたいと思いました。しかし、彼にはそれを買うお金がありません。だから彼は親から譲り受けた大切な金の懐中時計を質屋に売って、その鼈甲の櫛を手に入れます。そして彼はそのプレゼントを持って「妻はどんなによろこんでくれるだろう」と思いながら家路に着きます。ところが家に帰って妻の姿を見た夫は驚きます。妻は自慢の美しい髪の毛をバッサリと切ってしまっていたからです。実はその妻も夫へのプレゼントを準備するために自分の大切な髪の毛を商人に売ってしまっていたのです。そしてその金で夫の大切な懐中時計につけるプラチナの鎖を買い求めたのです。結局、夫が準備した鼈甲の櫛も、妻の準備したプラチナの鎖も何の役にも立たないものとなってしまいました。人はこの夫婦の行為を愚かだと思うかもしれません。しかし、このO・ヘンリーは彼らの準備したプレゼントこそ、賢者の贈り物だと言って小説を終わらせています。
プレゼントの価値を表すものは、そのプレゼントのために払われる金額ではありません。私たちはそこにそれを贈ってくれた人の気持ちが表されているからこそ、そのプレゼントを受け取ってうれしく感じるのではいでしょうか。このクリスマスの礼拝で私たちが最も注目しなければならないものはこの日、ベツレヘムの家畜小屋でうぶ声を上げた赤ん坊です。聖書はこの日に生まれたイエス・キリストこそ神が私たちに贈ってくださった最も素晴らしい贈り物だと教えています。それでは神は私たちに御子イエス・キリストを贈ることで、ご自分の持っているどんな思いを私たちに伝えようとしたのでしょうか。今日の礼拝ではそのことを皆さんと考えてみたいと思います。
2.神の愛と人の愛
今日のテキストとなっているヨハネの手紙一は御子イエス・キリストを通して神は私たちへの愛を表してくださったと説明しています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(9節)。
神は私たちが生きるためにご自身の「独り子」であるイエスを私たちに遣わしてくださったとヨハネは語っています。旧約聖書に登場する預言者の一人ヨナは神からバビロンの都であったニネベと言う場所に遣わされました。神に罪を犯し続けるニネベの町の人々に悔い改めを訴えるためです。なぜなら神はバビロンの人々が滅びることなく、生きることを望まれたからです。しかし、この使命を神からいただいたヨナにはその神の愛が理解できません。なぜなら、ユダヤ人のヨナにとってバビロンの人々はいつも自分たちの国を苦しめ存在であったからです。彼らは実際に自分の同胞たちを殺害し、捕虜として連れて行くような残虐行為を行っていました。ヨナにとってはバビロンの国の人々は憎むべき仇敵であったのです。だからヨナにはニネベの町の人々が速やかに神の厳しい裁きを受けてこの世から消え去ってしまったほうがよいと思えたのです。彼らは神御自身に対しても罪を犯し続けている存在でした。彼らを生き残らせることは神にとってもよくないとヨナは考えていたのです。ところが、神はそのニネベの町の人々が滅びることがないようにとわざわざヨナを遣わされました。その上で、ヨナの呼びかけに答えてニネベの町の人々が悔い改めを示すと、神はすぐに彼らを許してしまったのです。ヨナはこの神の愛を最後まで納得することができないでいるのです。
ヨナが納得いかないのは当然であると言えます。人は自分に得であるか損であるかを基準にその人を愛するかどうかを決めているところがあるからです。自分に役立つと思える人々を大切にし、そうでないと思える人々を疎んじたり、排除したりするのです。
イエス・キリストを通して示された神の愛を私たちが知っている人間の愛と同じように考えてしまうと、私たちも預言者ヨナと同じように神の愛を理解することはできなくなります。確かに私たちも愛はすばらしいものだと思っています。世界中の人々が愛し合うことができれば、世界は平和になれるとも思っているはずです。しかし、私たちは「愛」ほど頼りにならないものはないと考えているところはないでしょうか。私たちは日常に出会う様々な愛を通して、いつの間にか、「愛ほど儚く、頼りにならないものはない」と考えてしまう傾向があるのです。
だからもし、神の愛が私たちの考えているような愛と同じであるならば、これほど頼りにならないものはないと言えます。しかし、聖書は神の愛は人間の愛と根本的に異なると言うことを教えています。そして神の愛が明確に示されたのが、神が私たちのために独り子イエスを遣わしてくださったというクリスマスの出来事と言っているのです。
3.キリストによって示された神の決断とその意思
ヨハネは今日の箇所の最初で、私たちに次のように呼びかけています。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(7節)。
ヨハネはここで私たちに「互いに愛し合いましょう」と勧めています。ところが私たちは愛を私たちの心の中に自然に生まれてくるような感情の一つであると考える傾向があります。だから、聖書から「愛し合いなさい」と勧められても、「そう人に言われても、簡単に人を愛することなどできない」と考えてしまうのです。昔は日本でもお互いの両親が決めた相手と結婚することが当然であったという時代がありました。結婚する男女は結婚式を迎える日まで相手の顔さえ知らないと言うこともあったと言います。当然、このような形で結婚する男女は最初から愛情で結ばれていると言うことはできません。彼らの間で本当の愛情が芽生えるのは、実際に結婚生活を送り始めて、お互いのことを理解できてからだからです。
聖書が語る愛が、私たちが普段、考えている愛と全く違うことを最もよく理解できるのは、イエスが私たちに言った「あなたの敵を愛しなさい」という言葉からです。正確にはこの言葉はマタイの福音書5章44節にイエスの語られた言葉として次のように収録されています。
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
「自分の敵を愛しなさい」と言われても私たちは「いったいどうすればよいのか?」と悩みこんでしまうはずです。自分が普段から憎んでいる敵の姿をいくら見つめ返しても、私たちの心に愛情が生まれてくることはありません。ただいつまでも消えることなく燃え続ける憎しみの感情だけが私たちの心に残り続けるはずです。
先ほども言いましたように人間は自分を中心にして物事を考えます。だから自分に都合のよい人を愛して、そうではない人を憎む傾向があるのです。そんな私たちが自分の敵を愛することは不可能に近いと言ってもよいかも知れません。ところがこの点において神の愛は全く人間の愛とは違っているのです。使徒パウロはこの神の愛について次のように語っています。
「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5章9〜10節)。
ここでパウロが言っている意味は、そもそも神が私たちのために御子イエスを遣わしてくださったことこそ、敵を愛する神の御業そのものであったと言うことです。つまり、私たちも預言者ヨナの物語に登場するニネベの町の人々と全く同じ存在であったと言っているのです。本来、厳しい神の裁きによって滅ぼされるのがふさわしい敵こそ私たちだったのです。しかし、神はその私たちを生かそうとされたのです。そしてそのために御子イエスを私たちの元に遣わしてくださり、私たちを救ってくださったのです。
このように聖書に現わされる神の愛は、私たちが知っている人間のはかない愛の感情のようなものではないことが分かります。神の愛は、そのような不確かなものではないのです。
神の愛は私たちに対する神の決断であり、そこには神の明確な意思が表されていると言ってもよいでしょう。神は私たちがご自分のために役に立つからと言って、愛してくれるのではありません。私たちはこの点においても、信仰生活の中で誤解しているとこがあります。私たちが信仰者として立派に生活していると思えるとき、私たちは自分に対する神の愛を確信することができます。しかし、ひとたび、自分がしていたことができなくなってしまうと、「自分は神の役に立っていない」と考えて、神の愛があたかも自分から離れて行ってしまうのではないかと心配するのです。これは神の愛を人間の愛と同じようなレベルのものと考えてしまうことから起こる誤解です。
私たちに対する神の愛は決してそのようなものではありません。なぜなら私たちのために御子イエス・キリストを遣わしてくださった神の決断は決して変わることがないからです。ですから私たちは私たちに対する神の愛を、御子イエス・キリストを通していつも知る必要があるのです。もし、私たちが他の方法で私たちに対する神の愛を確認しようとするなら、むしろ私たちはその愛を見失い、悩み苦しむことになります。
4.クリスマスをどのようにお祝いしたらよいのか
ある幼稚園でクリスマスの生誕劇をやったときのことです。一人の園児がベツレヘムの町でヨセフとマリアの夫婦の宿泊を断る宿屋の主人をすることになりました。その子に与えられたセリフはただ一つ、「宿は満員です。あなたたちのとまるところはここにはありません」と言うものでした。劇当日、その子は必死になって覚えていたセリフを語りました。しかしその子は覚えていたセリフで終わるとすぐに続けてこのように語ったのです。「僕の家に来てください。イエス様、僕の家に泊まってください」。いつも幼稚園でイエス様のお話を聞いてイエス様のことが大好きになったこの園児は、冷たい宿屋の主人に成りきることはできなかったのです。
クリスマスの日に、神は私たちに御子イエス・キリストをプレゼントとして贈ってくださいました。この贈り物には私たちに対する神の変わることない確かな愛が示されています。それでは私たちは、どうすればよいのでしょうか。まず、大切なことはこの神からのプレゼントを私たちが喜んで受け取ることです。それは私たちがイエス・キリストを信じることを意味しています。
でも、せっかくプレゼントを受け取っても、そのままで包装紙も開かずに、家のどこかに置きっぱなしにしては意味がありません。イエスを信じた私たちは、そのイエスによって示された神の愛に信頼して生きるべきです。そうすれば聖書は私たちの信仰生活に次のような変化が起こると語ります。
「愛には恐れがない」(ヨハネ一4章18節)。
神が私たちを愛してくださっているのですから、私たちは何も恐れる必要がなくなります。この世界に神の愛にまさる力を持っているものは何一つないからです。
また、私たちは自分の力では人を愛することはできません。しかし、私たちに対する神の愛に信頼して、私たちが「互いに愛し合う」生活を送るなら、次のような神の約束が実現します。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(12節)。
私たちは神を見ることができません。しかし、私たちは肉眼の目で見ること以上に神がおられることが確かであることを知ることができると聖書は語っています。私たちが「互いに愛し合う」と言う聖書の言葉に従っていきるなら、実際に神は私たちの信仰生活に働いてくださると言っているからです。このように今まで人を憎むことしかできなかった、私たちを変えてくださるのも神の働きです。だから神の愛に信頼して「互いに愛し合う」ならば私たちは神を知ることができるのです。
クリスマスを本当に祝うとはどういうことなのでしょうか。それはこの日、お生まれになった神の御子イエス・キリストを自分の救い主として信じることです。そして私たちが神の愛を受入れ、その愛に信頼して、その神の言葉に従って生きて行くことです。そすれば、私たちに対する神の愛が、確かなものであることを私たちは信仰生活の中でますます知ることができ、喜びに満たされた人生を送ることができるのです。
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祈祷 |
天の父なる神様。
今年もクリスマスをお祝いする礼拝をささげることができたことを心より感謝します。かつては敵であった私たちを愛するためにあなたは大切な御子を私たちに遣わしてくださいました。この御子を通して私たちがあなたの愛を知り、信頼して生きることができるようにしてくださいました。私たちのためにイエス・キリストを通して準備してくださったあなたからの素晴らし恵みの数々を心より感謝します。私たちがこれからも喜びを持って、信仰生活を送ることができるように私たちを助けてください。私たちが互いに愛し合うために、あなたが私たちに一人一人にあなた自身の愛を豊かに示してくださり、この命令を実現することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヨハネは「愛する者」は誰から生まれ、彼らは何を知っていると言っていますか(7節)。さらに「愛することのない者」は何を知らないと言っていますか。その理由をどのように説明していますか(8節)
2.神が独り子を世にお遣わしになられたのは、何をするためですか。このことによってヨハネは私たちの内に何が示されたと言っていますか(9節)
3.それでは私たちが神を愛することと、神が私たちを愛することの間にはどのような関係がありますか(10節)。
4.ヨハネは神の示された模範に従って、私たちが何をすることを勧めていますか(11節)。
5.私たちは自分の肉眼で神を見ることはできません。ヨハネはこれよりももっと確に私たちが神を知る方法があると言っています。それはどのような方法ですか(12節)。
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