1.マリアの言葉「レット・イット・ビー」
皆さんはビートルズというイギリスのロックグループがかつて存在していたことをご存知でしょうか。今や学校の教科書にもビートルズの曲は収録されていると聞いています。たぶん私の世代よりももっと上の特に「団塊の世代」と呼ばれている人たちには馴染のあるロックグループであると思われます。私の記憶が確かであれば、ちょうど私が中学生の頃にビートルズは解散したのではないかと思います。このグループが最後の頃に作った曲に「レット・イット・ビー」という曲があります。この曲も大ヒットしましたので多くの人が知っていると思います。今でもテレビを見ているとよくバック音楽としてこの「レット・イット・ビー」が使われています。
この歌の最初の箇所を日本語に訳すとこうなります。
「僕自身が窮地に陥ってしまったとき。マリア様が僕のもとに現れて、賢者のことばを伝えてくれた。レット・イット・ビー」
この歌詞から分かるように「レット・イット・ビー」と言う言葉はイエスの母となったマリアが語った言葉です。実はこの「レット・イット・ビー」と言う言葉は今日の聖書箇所でイエスを産むことを天使から知らされたマリアが語った言葉の中に登場します。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)
このマリアの「御言葉どおりに、この身に成りますように」と言う言葉が「レッド・イット・ビー」の言葉の原型であると考えられるのです。私は英語のような外国語がとても苦手なので十分に解説できませんが、普通、この「レット・イット・ビー」と言う言葉は「放っておけ」とか「そのままにしろ」とか、「なすがままに」と訳されるのだそうです。ビートルズの歌詞ではマリアがこの物語の中で語った言葉から前半の「御言葉どおりに…」という文章が省かれています。そのせいもあるのでしょうか、私も昔から、このマリアの言葉を「なるようにしかならない」と言った、どちらかと言うと諦めに近いような言葉として覚え、口ずさんできました。皆さんの場合はどうでしょうか。おそらく、多くの人はビートルズが歌詞に取り上げたこのマリアの言葉を「じたばたしても仕方がない。なるようにしかならないのだから」と言った意味で考えているのではないでしょうか。
今日は月に一回行われる伝道礼拝です。この伝道礼拝では毎回、イエスに出会った人物を取り上げて聖書の言葉を皆さんと共に分かち合っています。そして今日はクリスマスの特別版としてイエスの母となったマリアを取り上げて、マリアが語った「レット・イット・ビー」の意味を皆さんと共に考えて見たいと思うのです。
2.予想もしない出会い
①幼い12歳の少女
まず、今日の物語となる舞台はナザレと言う小さな町です。このナザレはガリラヤ地方の西にあった小さな町でした。それまで旧約聖書はもちろんのこと、ユダヤに残されているいかなる文書の中にもこの小さな町の名前は登場したことがありませんでした。それほど人に知られない町がこの「ナザレ」と言うところでした。おそらく町と言っても人口四、五百人にも満たない小さな集落がここにあったと考えられています。
この物語の主人公であるマリアは「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」とだけ紹介されています。マリアについてはそれ以外の経歴などが一切紹介されていません。カトリック教会ではこのマリアを今でも『聖母マリア』として敬い、礼拝の対象にするほどに特別扱いしています。しかし、聖書に登場するマリアは特別な特徴を持たない、ごく平凡な女性の一人として記録されているのです。
当時のユダヤ人の女性の結婚適齢期は12歳ぐらいであったとされています。私たちはクリスマスの物語の中でこのマリアをもっと年上の成熟した女性と考えがちです。しかし実際には彼女はまだ12歳の少女であり、現在であればまだ中学生ぐらいの年頃であったと考えられるのです。
聖書にはヤイロという会堂長が病で死にそうになっていた娘の癒しを願ってイエスのところにやってきたと言うお話が記されています。このヤイロの娘は結局、イエスの到着を待たずに死んでしまいます。ところがその結果、イエスによってその死んだ娘が甦るという奇跡がここで起こっています(ルカ8章40〜56節)。この物語に登場するヤイロの娘もちょうと12歳であったと記されています。ヤイロはこの娘をまだ幼い子どものように考えていたように思えます。マリアはそのような意味で、まだ大人になりきれないような、幼い少女であったとも考えることができるのです。
②受胎告知
この名も知れないナザレと言う町に住む、平凡な少女の前にある日、突然に天使ガブリエルが現れます。そんな天使に出会ったマリアが驚かない訳はありません。昔、私は岡山の倉敷にある大原美術館でエルグレコと言う西洋の画家が描いた「受胎告知」という絵を見たことがあります。おそらくこの受胎告知の物語はエルグレコ以外にも多くの画家たちによって描かれた題材であると言えます
天使ガブリエルは驚くマリアにこう語りかけています。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)。
突然、天使が現れて自分に「おめでとう」と声をかけて来たことに、マリアは大きな戸惑いを覚えました。「何がおめでたいのか」。マリアはこのガブリエルが語った挨拶の言葉の意味が分かりません。どうして自分が天使から「おめでとう」と呼ばれるのかが彼女には分からなかったのです。
戦争中に、徴兵の年齢に達した人々に召集令状を届けた人はかならず「おめでとうございます」と言う言葉をかけてから赤紙と呼ばれる召集令状を渡したと言います。お国のために戦うことが名誉と考えられたからでしょう。しかし、「おめでとう」と声をかけられても、それを受けった人々は皆、戸惑いを覚えたはずです。突然、家族と共に過ごす日常の生活から離れて、死を覚悟しなければならない戦場に赴くことを命じられて、心から喜ぶことのできる人はいなかったはずです。マリアが天使から聞いた「おめでとう」と言う言葉も、この赤紙を配る人たちが語った言葉のような意味だったのでしょうか。確かに、マリアはこれから神の命令を受けて、救い主イエスの母として人生を歩まなければなりませんでした。福音書を読んで分かるように、イエスの母として生きたマリアの生涯は決して平たんなものではありませんでした。
既にヨセフと言ういいなずけがいるのに、そのいいなずけとは全く関係のない神の子を身籠ることになったマリアの立場は複雑です。そしてイエスの母となった後のマリアの歩みも簡単なものではありませんでした。なぜなら、その子であるイエスは平凡な孝行息子ではなかったからです。救い主として生きようとするイエスは、時には家族や親族とも衝突し、対立することもありました。そして何よりもマリアはこのイエスが人々の手によって十字架に付けられたて殺されてしまう姿を目撃したのです。どちらかと言えば母親としてはつらい人生をマリアは歩んだと考えることができます。これからそんな人生を歩むマリアに天使は「おめでとう」と言う声をかけたのです。
③神が共におられる祝福
しかし、この「おめでとう」と言う言葉は召集令状を配った人々が語ったような、それを受け取った本人に犠牲を強いるだけの言葉ではありませんでした。なぜなら、天使はここでマリアが「おめでとう」と呼ばれる意味をちゃんと語っているからです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
「主があなたと共におられる」と天使はマリアに語りかけました。ここにはすべての人間にとって最も大切な祝福が語られています。「わたしたちの主である神が私たちと共にいてくださる」こと、この祝福がなければ私たちの人生に他のいかなるものが与えられたとしても、それは祝福とはなりえないのです。なぜなら神のいない祝福はありえないからです。神から離れた人間の人生はどんなものが与えられたとしても呪いでしかないと言えるからです。私たちの人生のすべてを祝福に変えることのできる最も大切な祝福こそがこの「神が共にいてくださる」と言うものなのです。そしてこの「神が共にいてくださる」と言う祝福はこの日、ナザレの町に暮らすマリアという女性を通して実現しました。なぜなら、彼女はやがて神の子であるイエスを産むことになるからです。神の子であるイエスがこの世に誕生することで「神が共にいてくださる」と言う最大の祝福が実現したのです。
そしてこのイエスの誕生は彼女だけではなく、そのイエスを信じるすべての人の上にも実現すると聖書は約束しています。ですから、ここで天使ガブリエルが語った「おめでとう」と言う言葉はマリアだけに語られているのではなく、イエス・キリストを信じるすべての人にも語られている言葉だと考えることができます。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
この天使ガブリエルの言葉はクリスマスを待ち望むすべての人に向けられています。なぜなら、イエスを信じる者にはイエスが天から聖霊を遣わしてくださり、その聖霊を通して神が共にいてくださるという祝福を実現してくださるからです。
3.不可能な神の計画
①神の力によって可能となる計画
ガブリエルはその挨拶を聞いて「いんたいこの挨拶は何のことか」と考え込むマリアに続けて次のように語ります。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(30〜33節)
ガブリエルはマリアがこれから男の子を産むこと、その子はイエスと名付けられて、やがてダビデの王座を継ぐ王様となり、その支配が永遠に続くと言うことを預言しています。しかし、その言葉を聞くマリアにとってはガブリエルが語ったことはすべて不可思議な言葉でしかありませんでした。
マリアは平凡な女性です。そのいいなずけであるヨセフも確かにダビデの家系の出身でしたが、彼もまた小さな町で大工仕事をして生計を立てる平凡な人物に過ぎませんでした。そのヨセフの妻となるはずのマリアがどうして王様の母となれるのでしょうか。それに、王様と言えば当時、ユダヤにはすでに「ヘロデ」という人物がいて王の座についていました。それなのになぜ、マリアの産む子供が王様となりえるのでしょうか。
さらにマリアにはガブリエルの言葉を信じることができないもっと大きな理由がありました。それはまだ彼女は結婚をしていないからです。当時、マリアは将来夫となるはずのヨセフと婚約をしていましたが、まだヨセフと一緒に生活をしていませんでした。彼女はまだ結婚に向けて花嫁修業をしている真っ最中の身であったのです。だからマリアはその疑問をガブリエルに真っ先にぶつけています。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)
ガブリエルがマリアに告げた神の計画は人間の考えから見るならばすべて不可能と思えるようなものでした。到底、そんなことが実現するなど人間の知恵では考えることができないものでした。そのような出来事が実現するための根拠をマリアは自分自身の内に見出すことができなかったのです。しかし、ガブリエルは語ります。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35〜37節)
聖霊の力によってマリアは男の子、神の子を産むとガブリエルは語ります。そしてこの出来事を可能にする根拠がここに示されています。「神にできないことは何一つない」。何もない世界からすべてのものを創造された神の力がマリアの上に働くのです。神の約束を実現させることができるのは人間の力ではありません。神の力だけなのです。その証拠にマリアの親類のエルザべトと言う女性は老年になっていたの、その夫であるザカリアとの間に子を授かりました。この後、洗礼者ヨハネとして登場するのがこのエリザベトが神の力によって産んだ子どもです。人間にはできませんが、神にはすべてのことが可能です。マリアはこのとき自分は自分の力ではなく、神の力を見る必要があったのです。
②レット・イット・ビー
そしてこの言葉を聞いたマリアはガブリエルにこう答えています。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(37節)
ここでマリアの口から「レット・イット・ビー」と言う言葉が語られています。私たちがここまで確認してきたように、この言葉はマリアが自分の人生に諦めて「どうせ、なるようにしかならない」と言っているような言葉ではありません。
このマリアの言葉は自分の人生に示された神の計画に対して、心からの同意を示す言葉となっています。確かにマリアはその計画の全貌を示されている訳ではありませんでした。しかし、自分を通して「神が共にいてくださる」という人類にとっての最大の祝福が実現することを受け入れたのです。この計画は人間の考えからすれば、全く不可能と思われるようなものでした。しかし、マリアはこの計画を実現させるものが神の力であること、神ご自身であることを知って、「それなら私は自分の人生を神さまに献げます」と語ることができたのです。
「レット・イット・ビー」と言う言葉を私たちがこの世の常識や、自分の経験で考える限りは、やはり「どうせ自分の人生はなるようにしかならない」という諦めの言葉になってしまうと思います。しかし、私たちの人生を通して神の計画が実現することを信じる私たちにとってはこの言葉は諦めの言葉ではありません。しかも、その計画を実現させるのは私たちの力ではなく、神の力であると言うことを信じることができるなら、「レット・イット・ビー」は全く違った意味を持つ言葉になるのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
私たちの人生の上に神の計画が神の力によって実現することを私たちは期待しながら、主の僕としての人生を歩んでいきたいと思います。
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