2019.3.3 説教「ダビデの子」
マルコによる福音書12章35〜37節 35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
1.子どもに信仰を残したい 以前、私たちの教会のフレンドシップアワーに時々通って来られていた一人の婦人の方がおられました。他教会の会員で、私とはこの東川口の伝道を始める前からの知り合いで、古い友人と言える存在です。今でもときどき、その婦人の消息を聞くことがありますが、お体の調子が悪くてなかなか教会の礼拝にも出席できないと聞いています。 以前から健康面に不安を感じていた方でしたが、あるとき、フレンドシップアワーの会話の中でこの婦人がお話くださったことを思い出します。このご婦人は「自分が一番心配しているのは自分の子どもたちのことだ」と言うのです。実はその婦人のお子さんたちはすでに大人になっていて、結婚をされ、家庭を持たれています。それでも子供たちのことを心配するのは親の務めなのかもしれません。その婦人は「自分がいなくなってしまったときにも、子どもたちが困ることのないように」と、今までは子どもたちに少しでも貯えを残しておきたいと考えて来たと言います。ところが、最近になって、その考えが少し変わって来たと言うのです。 たとえ、いくばくかの貯えを子どもたちに残しても、それが本当に子どもたちの役に立つのかどうか分からない。むしろそれが子どもたちを不幸にさせる原因になるかもしれないと思うと心配になると言うのです。それでその方は「子どもたちに何を残してあげることが一番、大切なのかを考え直してみた」と言うのです。そしてその婦人が行きついて結論は「子どもたちに信仰を残したい」と言うことでした。「もし、子どもたちが自分と同じように神さまを信じることができたら、その神さまがいつでも子どもたちを助けてくださる。自分にとってそれほど安心なことはない」とその婦人は語りました。だからそのために私たちにも祈ってほしいと言うのです。その後、この方の願いがどのように実現したのか私は知りません。 しかし、この婦人が考えたことは決して間違いではないと私は思うのです。どこの親も子どもが幸せになってくれることえを願って育てます。しかし、だからと言って親が子どもを幸せにすることができるとは限らないのです。「しつけ」と言って、自分の子どもを殺してしまう親まで現れるように、人間は誤りを犯す存在です。ですから私たちが親としてできる最善の道は、本当にその子たちを幸せにすることができる神さまに彼らをゆだねることなのです。神さまが共にいてくださることが人が幸せになるための最善の方法であることを私たちは信じています。だからその信仰を子どもたちや、自分の周りの人々に伝えることができたら、私たちにとってもそれほど幸せなことはないと言えるのです。 2.エルサレムの民の豹変の原因 ①期待が憎しみに変わる 私たちはこの礼拝でマルコによる福音書からイエスの生涯を学び続けています。そして私たちのこの福音書の学びは、少しずつイエスの十字架の出来事に近づいています。イエスの一行がエルサレムに入城するときに群衆は歓呼の声を上げてイエスの到着を迎えました(11章8〜10節)。このようにイエスを大歓迎した群衆たちがわずか数日後には、イエスを「十字架につけろ」と叫び求める人々に変わってしまいます。この群衆の豹変はいったいどうして起こったのでしょうか。イエスが何か彼らに対して不都合なことをしたとでも言うのでしょうか。しかしイエスはエルサレムに入城された後、エルサレムを支配する指導者たちであるサドカイ派やファリサイ派の人々とは激しい論争を繰り返しましたが、群衆を非難したり、苦しめることはありませんでした。そして彼らはその論争を興味深く聞いていただけだったのです。それなのにどうして、彼らは簡単にイエスに対する態度を変えてしまうことができたのでしょうか。 その原因は群衆たちがイエスに期待していたことと、実際にイエスが行おうとしたことに大きな違いがあったからではないかと考えられるのです。群衆はイエスを自分たちの救い主として迎えようとしました。ところが彼らは実際のイエスに出会って、「この人は違う」、「私たちの期待していた救い主ではない」と考えて失望したのです。だからイエスに対する彼らの好意が、むしろ憎しみに変化して行ったと考えることができるのです。 これはイスラエルの民にだけに限られる問題ではありません。私たちが他人に対して強い憎しみを抱く原因は、通常その人に対して自分が抱いている期待が裏切られたと感じるところから始まるのです。その証拠に、私たちは何の期待も抱いていない通りがかりの人に対して突然に憎しみを抱くことはほとんどありません。 ②ダビデの子 それではイスラエルの人々はイエスに対してどのような期待を抱いていていたのでしょうか。そしてその期待はどうして誤りであったと言えるのでしょうか。それを理解させるのが今日のテキストで語られている「ダビデの子についての問答」であると言ってよいのです。この言葉の中に登場するダビデはもちろんイスラエルの歴史の中に実際に登場する人物です。彼は旧約聖書の中に登場する王の中で最も理想的な王であり、このダビデの時代にイスラエルの国は最も繁栄したと考えられていました。そしてこの箇所で論じられる「ダビデの子」と言う言葉は単に彼の子どもと言う意味だけを示しているのではありません。当時のイスラエルでは「ダビデの子」とは神が遣わされる「救い主」を指し示す言葉としても用いられていたからです。 どうしてイスラエルの人々の中で「ダビデの子」と言う名称が救い主を意味する言葉として用いられるようになったのでしょうか。それは神がダビデと交わされた約束に基づいていると考えられています。その約束は旧約聖書のサムエル記下7章に記されています。ダビデはここで神の箱を納めるための神殿を建築しようと決心しています。そのとき神は預言者ナタンを彼の元に遣わして、彼の王国が永久に続くことを約束されたのです。 この時、ナタンはダビデに「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(12節)と語り、また「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(16節)とまで約束して下さったのです。ですから、この約束を知っていたイスラエルの民は「ダビデの子」つまりダビデの家系を受け継ぐべき子孫が彼の王国を受け継ぎ、その王国は永遠に続くと考えたのです。しかし、ダビデがこの地上に建てた王国は歴史の中ですでに消滅してしまっていました。しかし、イスラエルの民は神がダビデに約束された通りに、いつかは必ずダビデの建てた王国を再建してくださると信じていたのです。そしてその王国を再建するカギとなる人物こそが「ダビデの子」と呼ばれる救い主であると考えたのです。 ③ローマの支配から解放してくれる救い主 群衆はエルサレムに入城するイエスを次のような言葉で迎えたとマルコによる福音書は記しています。 「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マルコ11章9〜10節) この言葉からもわかるように群衆は救い主がダビデの時代の王国を再建するためにやって来たと考えています。救い主はこの時代にイスラエルを支配していた異民族ローマ帝国の力を打ち破って、自分たちを解放し、民族の独立自治を実現してくださる方だと信じたのです。ところが実際に救い主として来られたイエスはローマの権力と戦う姿勢を見せることはありませんでした。むしろ、イエスは同胞であるはずのサドカイ派やファリサイ派の人々と論争するだけで、ローマに対する実力行動に出る姿勢は何一つ示さなかったのです。 イスラエルの人々がどのような人物を救い主として期待していたのかは、群衆がローマの総督ピラトに示した行動からよく分かります。ピラトが群衆に「過越し祭で解放する囚人を誰にしたらよいのか」と尋ねたとき、群衆は暴動を起こして殺人の罪で捕らえられていたバラバの方を釈放するようにと願ったのです。このバラバはおそらくローマの支配に抵抗するためにテロ活動を行った人物であったと考えられています。ローマに対して何もしないイエスより、テロ活動で人を殺したバラバの方が群衆たちは選んだのです。 さらにこの民衆の期待を裏切る出来事の頂点がイエスの十字架の死であったと考えることができます。なぜなら、群衆は十字架にかかったイエスが自分の持つ不思議な力で自分を救う姿を見たいと考えていたからです。この時、群衆は十字架にかかって死なれる救い主ではなく、自分の持つ不思議な力で自分を救い、その同じ力でイスラエルの人々をローマ帝国の圧政から救い出してくれるような方を待ち望んでいたのです。 3.ダビデが主と仰いだメシア イエスはこの群衆の期待が誤っていることを今日の聖書箇所で指摘されています。イエスが突然のようにここで「ダビデの子」についての話題を取り上げているのはそのためです。「あなたたちは救い主をダビデの子と呼んでいる。そしてその救い主はダビデの時代のようなイスラエルの栄華を回復してくれる方だとも考えている。しかし、それは本当なのだろうか。もしそれが本当なら、どうしてダビデ王はその救い主を「わが子」とか「わたしの子孫」とは呼ばず「わたしの主」と呼んだのか。その理由を説明できるか」と人々にイエスは問うたのです。 そもそも、救い主の使命が、ダビデがこの地上に実現した王国を再建するためのものであったとしたら、どうしてその王国を実現したダビデに救い主が必要であると言えるのでしょうか。しかし、ダビデはこの救い主を「わたしの主」と呼んでいます(詩篇110編)。それならダビデはこの救い主に何を期待していたのでしょうか。 ここでダビデ自らが救い主を「わたしの主」と呼んでいたと言う事実は、ダビデの考えていた救い主が、ダビデのような王国を地上に再建するためにやって来る救い主と言う群衆の期待と違っていることが分かります。 それではなぜ、偉大な王であるはずのダビデは、それでも自分のために救い主が必要だと考えたのでしょうか。いったいダビデが期待した救い主とはどのような方なのでしょうか。私たちの教会は今年の年間聖句として詩篇23編の言葉を私たちの教会の活動の指針として選びました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節)。この詩篇もダビデの作と考えられています。その言葉の通り、ダビデがその生涯で抱き続けた信仰がこの詩篇の言葉に表現されています。ダビデがその生涯で実現した様々な輝かしい功績は決して、彼が追い求めようとした祝福自身ではありませんでした。ダビデが何よりも自分のために追い求めたのは羊飼いが羊から離れず、いつも導いてくれるように、神が自分と共にいてくださって、自分を導いてくださることでした。イスラエルの初代の王であったサウルは人々の心が自分から離れ、自分の王座が奪われてしまうことを何よりも恐れていました。だから彼はそのためにノイローゼのような状態に陥りました。しかし、ダビデはサウルとは違い、彼は神が自分から離れて行ってしまうことだけを恐れた人物であったと言えるのです。だからダビデは「神がいつも共にいてくださる」と言う祝福を実現することができる救い主が与えられることを心から望んでいたのです。 4.イエスが与えてくださる祝 救い主に対するダビデの期待が正しかったことは、実際に救い主としてやって来られたイエスの姿を通して証明されています。なぜならイエスは私たちのために「神がともいてくださる」と言う祝福を実現してくださったからです。マタイによる福音書が示したイエスの別名にも、そのことをよく示しています。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(1章23節)と天使はマリアの夫となるヨセフにその子の名前を告げました。そしてその名の意味は「神は我々と共におられる」と言うことを教えてくださったのです。 イエスは「神が我々と共におられる」と言う祝福を実現するためにこの地上に来られ、その祝福を実現するために働かれる救い主です。だから、イエスはまず、私たちと神との関係の間に立ち塞がる障害となっていた問題、私たちの罪の問題を解決するために十字架にかかってくださったのです。人間の罪がもたらす最大の悲劇は、私たちと神との関係を引き離し、その関係を断絶させることにあります。そして私たちの人生に起こる様々な問題は皆、この神との関係が断たれたことによって生じているとも考えられるのです。 イエスはこの関係を回復するために救い主として十字架にかかって死なれる必要があったのです。そして、このイエスの死の結果、私たちと神との間の障害がすべて取り除かれて、「神がともにいてくださる」と言う祝福が私たちの人生にも実現したのです。 さらにこの祝福が私たちの人生に実現したことを表す確かな証拠がイエスの復活の出来事だと言えるのです。なぜなら、このイエスの復活は神の力によって実現したものだからです。私たち人間の代表として十字架にかかってくださったイエスは、その死によって神と人間の間の関係を回復させてくださいました。だからその証拠として、イエスは墓から甦ることができたのです。そして聖書は、このイエスと同じようにイエスを信じる私たちも同じように復活し、永遠の命を受けることができると教えています。 どんなに優れた電化製品を買って来ても、その製品に電気が通じていなければ何の役目も果たすことはできません。電化製品に電気を流すためにはその電化製品のコードを電源であるコンセントにつながなければなりません。私たちの人間の命と神との関係はこの電化製品と電源の関係に似ているところがあるかもしれません。私たちの命は神によって創造されたものです。神が無意味なものを創造されることは決してありません。しかし、私たちが私たちの人生の本当の価値を実現するためには、私たちと神との関係が正しく繋がれていなければなりません。イエスはこの神と私たちと関係を回復し、私たちが神と共に生きることができるためにやって来られた救い主であると言えるのです。 私たちはいったい私たちの救い主にどのような期待を持って信仰生活を送っているでしょうか。もし、私たちがイスラエルの民のように誤った期待をイエスに対して持っているとしたら、私たちの期待は大きく裏切られることになり、私たちは失望することになります。しかし、私たちは決して失望することはありません。なぜなら、自分の持っている期待を裏切られることは決して私たちにとって悪いことではないからです。なぜなら、真の救い主であるイエスは、私たちの期待をはるかに超えた祝福を私たちの人生に実現させてくださる方であると言えるからです。
天の父なる神さま 私たちのためにダビデの子である救い主を送ってくださり、私たちの人生に祝福を与えてくださる幸いを感謝します。私たちの人生に神が共にいてくだると言う祝福にまさる財産はどこにもありません。私たちがこの信仰の財産を正しく、人々に伝えることができるように助けてください。そして私たちが共に、イエスの救い主としての御業をほめたたえて信仰生活を送ることができるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
1.イエスが神殿の境内で教えられていたとき、そこでどのような問題を取り上げて人々に語られましたか(35節)。 2.イエスは「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」と語って、詩篇のどのような言葉を引用されましたか(参照:詩篇110編1〜2節 イエスが引用したのはギリシャ語訳旧約聖書の言葉で、私たちの読んでいるヘブライ語聖書の翻訳の言葉とは少し違っていると思われる)。 3.どうしてメシア(救い主)は「ダビデの子」と人々から呼ばれているのに、そのダビデは救い主を自分の「主」と呼んだのでしょうか(37節)。 4.この質問はどうして当時のイスラエルの人々にとって重要だったのか、あなたも考えてみましょう。 5.あなたはどのような意味でイエスを自分の「救い主」と信じてますか?そのあなたの信仰が正しいことはどこから分かりますか。