2019.5.12 説教「答えるペトロ


聖書箇所

マタイによる福音書16章13〜28節
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」


説教

1.イエスとの決定的な出会い
①重要な内容を伝える物語

 この伝道礼拝では毎月、イエスに出会った人々について聖書から学んでいます。今日の物語にはイエスの弟子であったペトロが登場しています。このペトロとイエスとの関係についてのお話は以前にも礼拝でもすでにいくつか紹介しています。その上でさらに今日もこのペトロとイエスとの間に起こった物語を取り上げる理由は、このお話がペトロとイエスとの出会いだけを語るだけではなく、私たちの信仰生活にとってとても大切な事柄を取り扱っているからです。
 なぜ、この物語が私たちの信仰生活とって大切かと言えば、この箇所でペトロの口から語られている「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う言葉が、イエスを信じる者にとって最も大切な信仰告白の言葉とされているからです。さらにこの箇所にはイエスの口から「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言う言葉が語られています。イエスがご自身の教会を建てるという言葉をはっきりと語っている点でもこの箇所はとても重要なものとなっているのです。それではここでペトロが語った信仰告白とは私たちの信仰生活とってどのような意味を持っているのでしょうか。イエスがここで「建てる」と言われた教会は、なぜ私たちの信仰生活にとって重要なものなのでしょうか。それらのことを皆さんと考えながら、今日の物語を読んでみたいと思います。

②信仰告白の意味

 まずペトロがここでイエスに対して語った「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う言葉にはどのような意味を示しているのでしょうか。この時、イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)と尋ねられています。実は当時の人々の中でもイエスを誰と考えるかについては、いろいろな意見があったことがここでも分かるのです。「洗礼はヨハネ」と考える人がいました。福音書を読み始めると必ず最初の方に登場する人物がこの洗礼者ヨハネです。彼は人々に救い主を受け入れる準備させるために活動した人物として有名です。次の「エリア」と言う名前は、旧約聖書に登場する人物を指しています。彼は当時、偶像崇拝に陥った人々と戦い、真の信仰を守り抜いた人物として有名です。特にこのエリアの人生では様々な不思議な奇跡が起こりました(列王上17章~列王下2章)。さらにその次に登場するエレミヤも旧約時代の預言者であり、彼の名前が付けられた預言書が旧約聖書に納められています。そして他の人々はイエスを「預言者の一人」だと言っていると記されています。これらの見解に共通するのはここに名前を上がられた人すべては神からのメッセージを人々に取り次ぐ使命を担った預言者たちであったことです。当時のユダヤ人たちはイエスの言葉に耳を傾ける価値を認めてはいましたが、そのイエスを自分たちと同じ人間にすぐないと考えたていたことがここから分かります。
 一方、ペトロの告白した言葉ではイエスを「メシア」、救い主として認めています。イエスは預言者の一人ではなく、その預言者たちが指し示そうとした救い主であるとこの言葉は語っているのです。さらに語られている「生ける神の子」とは、当時のユダヤ人たちは偶像を「死んだ神」と呼び、それに対して聖書の伝える真の神は「生ける神」と表現していました。ですからこの言葉はイエスを真の神の子、つまり神ご自身であるという信仰の表明を表している言葉と言えるのです。私たち日本人の考える宗教は、人間が神になることもごく自然に受け入れます。しかし、聖書を知っているユダヤ人は違います、彼らは人間と神とは全く違う存在と考えていました。だから、人間が神になることも、逆に神が人間になることも考えることができなかったのです。そのようなユダヤ人の一人として育ったペトロがイエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と語ったと言うのです。この言葉がペトロの勝手に考え出した個人的な思想の一つではないことは次に語られるイエスの言葉からも分かります。なぜならイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)と語って、ペトロの発言が誤りのない真実の告白であることを証明しているからです。そしてさらにイエスはそれをペトロに教えてくださったのは神ご自身であると教えています。
 人間がイエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白できると言うことは特別な意味を持っています。なぜなら、キリスト教会はこの告白をすることができた人を、信仰者と認め、その人に洗礼を授け、教会員の仲間として受け入れるからです。この信仰告白を語る者は、神の救いにあずかった者と見なされるのです。この告白は私たちの人生が死から命に移されたことをも意味する言葉だと言えるのです。ですからこの告白はここでそれを語ったペトロにとっても、またそのペトロと同じように告白をする者たちにとっても重要な意味を持っているのです。

2.イエスと教会

 イエスはこのような重要な信仰告白を語って、新しい人生を始めることができたペトロに対して次のような言葉を続けて語っています。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できないわたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18〜19節)。

 イエスはここで信仰告白をしたペトロに、彼の上に教会を建てると約束されています。ご存知の通りペトロの本名はシモンとでしたが、イエスはこのシモンを「ペトロ」と言うあだ名で呼びました。この名前は「岩」と言う意味を持っていました。ですからこのイエスの言葉はペトロのようにイエスを「メシアであり、神の子」と告白できた人々の上に教会を建てると約束していると言うことになります。実は「教会」と言う言葉は十字架のついた特定の建物を指し示す言葉ではありませんでした。そうではなく、イエスを信じる人々、信仰告白をした人々の集まりを「教会」と呼ぶのです。新約聖書には弟子たちの伝道を通して様々なところに建てられた教会の名前が記されています。当時の教会はおそらく、特定の建物を持たない、信徒たちの家を借りて集まった集団だと考えられています。たとえ建物がなくてもそこにイエスを信じる人々が集まることができればそれは「教会」と言えるのです。逆にどんなに立派で、キリスト教会風の建物が建てられていても、そこにイエスを信じる人がいなかったらそれは「教会」と呼ぶことはできないのです。
 イエスはこの教会に天国の鍵を授けると言われています。誰を天国に入れるか、それとも入れないかを教会は決めることができるとイエスはここで語っています。もちろん、そんなことを人間が簡単に決めることはできません。本当の意味で天国の鍵を持つことのできる方はイエスしかおられないからです。だから教会にそれができるとしたら、イエス自身がこの教会を通して働いてくださるからだと言えるのです。このような意味でイエスとイエスが建てると約束して下さった教会は一つであると言えるのです。
今から2000年前にイエスが天に昇られた後、誰も肉体を持ったイエスと出会うことはできなくなりました。しかし、それでも大丈夫なのです。なぜなら、イエスはその代わりに教会を私たちに与えてくださっているからです。教会に行けば、私たちはイエスと出会うことができるのです。だから教会はイエスと私たちが出会う場所として重要な意味を持っているのです。

3.ペトロの犯した失敗

 この物語はペトロの語った素晴らしい信仰告白で終わってしまっているではありません。実はその後、物語は以外な方向に向かいます。それはイエスがこれからエルサレムに行き、ユダヤ人の指導者たちの手で捕らえられ殺害されること、そして三日目に復活されたことを予言したことで起こりました。

「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」」(22節)。

ペトロはここでイエスが語られた言葉、つまり人類を救うために立てられた神の計画に異を唱えています。だからペトロはイエスを連れ出して「あなたは間違っています。私の言う通りにしてください」といさめ始めたと言うのです。

この出来事から学べる点は、第一に私たちが正しい信仰告白をすることができても、私たち自身は誤りを犯す人間でしかないと言うことです。信仰を得たからと言って私たちが完璧な人間に変わるものではないことをこのペトロの姿はよく私たちに示しています。誤解してはならないことは、キリスト教信仰は私たちを救い主の助けが必要のない完璧な人間に変えるようなものではないと言うことです。キリスト教信仰において私たち人間はどこまでも救い主の助けを受ける必要のある存在にすぎないのです。だからこのような失敗を犯した場合にはがっかりするのではなく、さらに神の助けを祈り求める必要があるのです。
第二に私たちの信仰は自分の願いを救い主を通して実現するためにあるものではないと言うことです。このときペトロはイエスを通して語られた神の救いの計画を拒否しました。そしてその代わりに自分の考えた通りにイエスはすべきだと主張したのです。しかし、私たちの願望がたとえ実現できても、それが本当の私たちの救いとはなりえないのです。私たちが本当に救われるためには、私たちの人生に神の計画が実現することが必要なのです。
アメリカの南北戦争の時代、戦いで負傷して病院に運び込まれた一人の兵士がいました。今はその名前さえ分からないその兵士が病院の壁に書き記した詩が残されています。その詩には自分の人生に神さまの救いがどのように実現したのかが語られています。

「大きなことを成し遂げるために強さを与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶように弱さを授かった
偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より素晴らしいことをするようにと病気を授かった
幸せを求めて富を求めたのに
知恵を使うようにと貧困を授かった
人々の称賛を得ようと力と成功を求めたのに
神の手助けを望むようにと弱さを与えられた
人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
あらゆるものを楽しむために人生を授かった
求めたものは一つも与えられなかったが
祈りはすべて聞き届けられた
私は誰よりも豊かに祝福されたのだ」
(無名の南軍兵士が残した詩)

 私たちの人生が本当に祝福されたものになるために、イエスが救い主として来てくださったのです。だからこそ、私たちが本当に救われるためには、神の計画が私たちの人生に実現することが必要なのです。

4.賜物である信仰の力

 今日の箇所でペトロはイエスから「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父」だと言われています。ところがそのすぐ後で、ペトロはそのイエスから「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とまで言われてしまいます。ペトロはほんの短い間に、神の使いになったり、悪魔の手先になったりと、その姿が極端に変わってしまっています。
 実はこのことはペトロだけが特別だと言っているわけではないのです。むしろ、このペトロの姿は私たち人間の姿をよく示す物語だとも考えることができます。なぜなら私たちの信仰生活にも、同じようなことが繰り返し起こるからです。あるときは、聖書の言葉に導かれて、喜びに満たされ、神に感謝を献げることができます。しかし、次に何か自分の人生に不都合なことが起こると、私たちの姿は突然変わります。その心から喜びは消え、「どうしてこんなことが起こるのか」という思いが心を支配し、冷静になって神の言葉に耳を傾けることもできなくなってしまうのです。私たちの心の状態はそれほどまで不安定なものなのです。そんな私たちが本当に信仰を自分の人生の最後まで持ち続けることができるのでしょうか。そんな不安が私たちの心の中に浮かぶことがあります。
 ここで注意したいのは、ペトロここで「サタン、引き下がれ」とイエスから言われても、だからと言って「あなたはもうだめです。天国に入ることはできません」と言われていないことです。そして、それ以上に大切なのはイエスが信仰告白をすることができたペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた言葉です。このイエスの言葉から分かるように、私たちの信仰は私たちの心から生まれてくるものではありません。信仰は神から私たちに与えられてプレゼント、賜物なのです。だからこのプレゼントの価値は、いつまでも変わることがありません。むしろ、神は変わりやすい心を持った私たちに信仰を与えてくださったのです。私たちの神は私たちのことを誰よりもよく知っておられる方です。だから私たちを救うためにイエスを救い主として遣わしてくださったのです。そしてその私たちがイエスを「メシア、神の子と」告白できるようにしてくださったのです。だからこそ、この神との出会いは私たちの人生を変える確かな出会いであると言えるのです。


祈祷

天の父なる神さま
 私たちに信仰告白の言葉を与え、私たちに信仰の賜物を与えてくださったあなたに心から感謝します。私たちを誰よりもよく知る、あなたが立ててくださった救いの計画を実現するために救い主イエスを遣わしてくださったことも感謝いたします。どうか私たちが愚かで弱い自分を見つめるのではなく、私たちの救い主イエスを見つけて、そこから希望と力を受けることができますように。そのために私たちをあなたの教会の内にいつも置いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.弟子たちは「人々は、人の子のことを何者だといっているか」と言うイエスの質問にどのように答えましたか(13〜14節)。
2.それではペトロは「あなたはわたしを何者だと言うのか」と言うイエスの質問に何と答えましたか(15〜16節)。
3.このペトロの答えが、彼の考え出したいい加減な答えでなかったことはどうして分かりますか(17節)。
4.イエスはどのようなところに教会を建てると約束されましたか。その教会にはどのような権威が与えられていると言われましたか(18〜19節)。
5.どうしてペトロはイエスのことをいさめ始めることになったのですか(21〜22節)。このペトロの発言が重大な誤りであったことはイエスのどのような発言から分かりますか(23節)。
6.イエスは自分の命を救いたい者はどうすべきだあるとここで教えておられますか(24〜25節)