2019.5.19 説教「不安な弟子たち


聖書箇所

マルコによる福音書14章12〜21節
12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」


説教

1.過越祭の食事
①聖餐式の原型である「最後の晩餐」

 今週もマルコによる福音書が記した物語から皆さんと共に学びたいと思います。今日の箇所ではイエスの指示によって「過越の食事」の準備がなされ、執り行われています。この時、開催された「過越の食事」が私たちの信仰生活にとって重要な理由があります。それは次週にも続けて学ぶ予定ですが、この「過越の食事」が私たちが毎月教会の礼拝で守っている「聖餐式」の原型となっているからです。教会が毎月の礼拝の中で聖餐式を行うのは、「この聖餐式を行うように」とイエスが私たちのために定めてくださったからです。この最初の聖餐式は多くの人によって「最後の晩餐」と呼ばれている今日のこの物語の中で行われているのです。皆さんはレオナルドダヴィンチが描いた「最後の晩餐」と言う絵をご覧になられたことがあると思います。あのダビンチが描いた絵のモチーフとなった物語も私たちが今日学ぼうとする聖書箇所から取られています。
 聖書も語っているように、この食事は「過越の食事」と呼ばれています。それではこの「過越食事」とは一体どのような食事なのでしょうか。イエスがエルサレムに入城されたときエルサレムの町はこの過越の祭りを祝う人々で賑わっていました。この過越祭はむかしイスラエルの民がエジプトの地で奴隷状態に置かれていたとき、神の御業によってその奴隷状態から解放されたことを記念するお祭りです。そして「過越の食事」この祭りの中で行われるものでした。

②災いが「過越された」ことを意味する(出エジプト12章)

 かつて、神によってイスラエルの民のリーダーとされたモーセはエジプトの王ファラオにイスラエルの民をエジプトから去らせるようにと何度も願い出ました。しかし、心をかたくなにしたファラオはモーセの願いを決して聞き入れようとはしませんでした。そこでエジプト中に様々な災いが神によってもたらされます(十の災い)。しかし、どんなに悲惨な災いに苦しめられても最後までモーセの願いを聞き入れることをしないファラオによって、エジプト中に最大の災いが下されることになります。その災いはエジプト中のすべての初子(ういご)の命を奪うというものでした。この出来事により、エジプト中のすべての人々、王から奴隷に至るまですべての家族から、さらには家畜からも最初に誕生した初子の命が奪われることになりました。ところがこのとき神の命令を守ったイスラエルの民だけはこの災いから免れることができたのです。災いを免れるための神の命令とは家族ごとに子羊を犠牲として屠り、その子羊の血を家の二本の柱と鴨居に塗ることでした。神がエジプト中に下された災いは不思議なことにこの子羊の血を門に塗った家だけには下されることがなかったのです。イスラエルの民がこの災いから免れたこと、災いが通り過ぎたこと、そのことを祝うのがこの過越の祭りの由来だとされています。ですから、この出来事記念して行われる「過越の食事」では必ず子羊の肉が食卓に備えられます。さらに、この食卓には酵母を入れないパン、「種なしのパン」も備えられます。急いでエジプトを脱出することになったイスラエルの民には酵母を入れたパンが発酵する時間を待つ余裕がありませんでした。酵母を入れないパンの意味はそのときのイスラエルの民の状況を思い出させる役割を持っています。
 私たちが毎月、教会の礼拝で守っている聖餐式はこの「過越の食事」と深い関係を持っています。なぜなら、イスラエルの民の上を災いが通り過ぎるために犠牲としてささげられた子羊こそ、私たちの救い主イエスの役割を指し示すモデルだと考えられているからです。かつて救い主の到来を準備するために預言者として遣わされた洗礼者ヨハネもイエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1章29節)と語りました。イエスが世の罪を取り除くためにご自身の命をささげられることで、私たち罪人に下されるべき刑罰がすべて免除されことができます。神が罪人の上に下されるべき災いがその人の上を通りそのまま過ぎることができるのです。イエスの十字架の死には「過越の食事」で準備される子羊と同じ意味があると言えるのです。

2.隠された弟子の働き

 さて、聖書を読んでみるとこのときイエスは弟子たちに対して「過越の食事」を準備させるために不思議な指示を送っています。まず弟子たちはイエスによってエルサレムの町で水がめを運んでいる男を見つけるようにと命じられています。当時の男性は皮袋に水を入れてそれを担いで運ぶのが普通であったと言われています。水がめに水を入れてそれを頭に載せて運ぶのは女性が行う方法だったのです。ですから、男性が水がめを運んでいる姿は珍しく、すぐに「その人だと分かる」と言うことになります。弟子たちがその人を見つけ出したら『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています』と言えば、すぐに準備された食事会の会場に彼らを案内してくれるとイエスは言うのです。
 おそらくここで登場する水がめを運んでいる男性は名前が隠されている匿名のイエスの弟子の一人だと考えられています。すでにこのときエルサレムの宗教指導者たちはイエスの殺害計画を実際に実行に移す機会をうかがっていました。その指導者たちが支配するエルサレムの町でイエスたちが食事をすることはとても危険な行為であったと言えるのです。ですから、この過越の食事の準備は極秘裏に進められなければなりませんでした。この男性はイエスのために食事会の会場を提供することをあらかじめイエスと約束していたのでしょう。しかし、このことは周りの人々には秘密にしなければならないと言う事情が、このような不思議な一連の行動に表されているのです。教会の言い伝えによれば、この食事の会場は当時エルサレムの町にあったヨハネ・マルコの家であったと考えられています。このヨハネ・マルコはバルナバやパウロと共に伝道旅行に参加し、その後、ペトロの助手として働き、このマルコによる福音書を記したとされる人物です。おそらくこのときエルサレムの町で水がめを運んでいたのはこのマルコの父親であったと考えられているのです。
 聖書は教会のために働いたたくさんの弟子たちの名前を記しています。しかし、それ以上にイエスの働きは名前も明らかにされていないたくさんの弟子たちによって支えられていたのです。このような今は名前も分からないたくさんの弟子たちの奉仕がイエスの働きを支えたのです。おそらく、ここに集まっている私たちの名前が歴史に残ると言うことはほとんどないと思います。しかし、だからと言って私たちの存在に価値がないということではないのです。なぜなら、神は私たちの存在を、そして私たちの働きを教会のために、そして神の国のために十分に用いてくださる方だからです。歴史に名は残さなくても神の計画の中には私たちの存在や働きは無くてはならいものとして取り扱われているのです。そのことをこの名前の隠された一人の弟子の姿は私たち教えていると思うのです。

3.不安な弟子たち
①「それはわたしのことですか」

 イエスの指示に従って弟子たちは案内された家に行きました。そして弟子たちはその家の二階にあった広間で過越の食事のための準備を行うことになります。やがて彼らの準備もあってこの食事会が予定通り行われることになりました。この食事会の後すぐにイエスの逮捕と裁判、そして十字架上での死と言う出来事が迫っていました。しかし、イエスにはそれが分かっていたとしても、弟子たちにはそんなことは何一つ分かっていません。だから弟子たちにとってはこの過越の食事は楽しい晩餐の一になっていたのかも知れません。ところが、その晩餐の雰囲気を一変してしまうことがこの席上で起こりました。それはイエスの発した次のような言葉によって起こりました。

「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(18節)

ここでイエスは自分たちにこれから何が起こるのかと言う預言の言葉を語っています。「今、一緒に食事の席に着いている者の内、誰か一人がわたしを裏切ろうとしている」と語るのです。すると弟子たちはすっかり驚いてしまいます。「そんな冗談を言わないでください」。「そんなことありえません」。弟子たちはそのようにイエスに言い返してもよかったはずです。しかし、聖書を読んでみると弟子たちの反応はそうではありませんでした。

「弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた」(19節)。

「裏切り者がここに一緒にいる」とイエスに言われて弟子たちは皆「心を痛め」てしまいます。別の聖書では「悲しくなった」と訳されています。それはどうしてでしょうか。弟子たちは「自分がその裏切り者になるのではないか…」と心配したからです。この時、イエスと共に食卓についていた弟子たちはここまで様々な犠牲を払ってイエスに従って来ていた人たちでした。彼らはイエスの弟子となるために家族や職業を捨てました。生まれ育った故郷を後にして、必死になってイエスにここまでついて来たのです。だから「自分はだれよりも、イエスのために生きて来た」と彼らは自分のことをそう思っていたのかもしれません。
しかし、そのような弟子たちにも明日の自分がどうなっているかを知ることはできません。「もしかしたら、自分が期待していることとは全く違った出来事が起こるかもしれない」。彼らはそのような心配を心に抱いたのです。だからイエスの言う「裏切り者がここにいる」と言う言葉に心を痛めて反応したのです。

②私たちが抱く不安

以前にも何度もお話しましたが、私は20才になったころ教会で洗礼を受けてクリスチャンになりました。その頃の頃です、私は電車の中で偶然に高校時代の友人数人と会う機会がありました。そこで私は彼らに「今度、自分は洗礼を受けて、クリスチャンになった」と信仰の証をしたのです。それは自分が感じている喜びを、少しでも昔の友人たちも知ってほしいと思ったからです。そのとき友人たちはその私の証を聞いて驚いた顔を見せました。ところが彼らは私の証を聞き終わると私に向かってこう語ったのです。「それはよかったね。でも、今度はどれくらい続くのかな…」と。友人たちは洗礼を受けて大騒ぎしている私の姿を見て、呆れていたのかもしれません。なぜなら、彼らは私が「熱しやすく、冷めやすい」と言う性格を持つ人間であることをよく知っていたからです。実はそのときその友人の言葉を聞いて一番、悲しくなったのは私自身でした。なぜなら、そのような私の性格は彼らよりも自分自身が身に沁みて分かっていたからです。「自分はこれからずっとイエスを信じて生きよう」。私は確かにそのとき強い決心をしてクリスチャンになりました。しかし、その私が明日どうなってしまっているか、私にはそれが分かりませんでした。だから私はそのとき、自分の将来の信仰生活について不安を感じてしまったのです。
弟子たちはイエスの言葉を聞いて「まさか裏切り者はわたしのことではありませんよね…」と問わなければなりませんでした。誰も「わたしはそうではありません」とは断言できる人はいなかったからです。私たちもこのようにイエスに問われれば、弟子たちと同じような反応を示すのではないでしょうか。なぜなら、私たちの心は不確かで、頼りのないものであることを私たちはよく知っているからです。

4.私たちのためのイエスの十字架

私たちは誤って「信仰」を私たちの持つ信じる力、つまり自分自身に備わった能力の一つと考えてしまうことがあります。しかし、そうだとしたらその信仰は不確かで頼りにならないものとなってしまうでしょう。しかし、聖書は信仰を私たちが持っている信じる力ではなにとはっきり教えています。使徒パウロはこのことをエフェソの信徒への手紙2章8節でこう語っています。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」

信仰は神から私たちに無償で与えられたプレゼントであるとパウロはここで言っているのです。ですから、信仰は私たちの心から出て来るものではありません。私たちの心に神から遣わされた聖霊が働いて、私たちの心に信仰が与えられるのです。それではなぜ、神は私たちに信仰を無償で与えてくださるのでしょうか。実はこの信仰の根拠も私たちの救い主イエスにあるのです。イエスが私たちの救い主として十字架にかかり、私たちのために信仰の賜物を得てくださったのです。だから私たちには信じる力がなくても、神を信じることができるようにされるのです。
 聖書の言葉はイエスがこのとき弟子たちに語った言葉のように、私たちの本当の姿を示そうとします。聖書の言葉は私たちの弱さや不確かさを容赦なく指摘するからです。そんなとき私たちはどうしたらよいのでしょうか。「こんな言葉は聞きたくない」。そう言って神の言葉から耳をそらしたとしても、私たちの人生には何の解決も与えられないはずです。ましてや、その問題を自分自身で解決しようとしても、私たちは返って自分の無力を知り、絶望するしかありません。唯一の解決方法は私たちがイエスの十字架を見つめることにあります。なぜなら、イエスはこんな私たちのために十字架にかかって救いを成し遂げてくださったからです。実はイエスによって定められた「聖餐式」の役割は私たちがいつも十字架のイエスを見つめて、そこに私たちの救いの確かがあることを知るためにあるのです。ですから聖餐式はこのときの弟子たちを助けるために、また私たちの信仰を助けるためにイエスが与えてくださったものと言えるのです。


祈祷

天の父なる神さま
 私たち罪人を救うために過越しの子羊としてその命を十字架でささげてくださった主イエスの御業を今日も教えてくださり感謝します。私たちの持つ力や才能は救いのためには何の役にもたちません。だからこそイエスは私たちのために救い主として、その命をささげてくださいました。そのことを私たちが心に刻み、信仰生活を送ることができるように、あなたは私たちにもその食卓にあずかる方法を示してくださました。あなたが私たちのために与えてくださった恵み手段である聖餐式を大切に守ることで、私たちがあなたの力を受けることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.弟子たちは過越の子羊が屠られる目にイエスに何をすることを願い出ましたが。イエスはその弟子たちにどのような指示を送りましたか(12〜15節)。
2.過越の食事の席でイエスは弟子たちにどのような話をされましたか(18節)。
3.このイエスの言葉を聞いた弟子たちはどのような反応を見せましたか(19節)。弟子たちはどうしてイエスの語った言葉に対してこのような反応を示したのでしょうか。その理由を考えて見ましょう。