2019.5.26 説教「主の晩さん


聖書箇所

マルコによる福音書14章22〜26節
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


説教

1.イエスの愛を伝える主の晩餐

 以前、テレビのドラマで見たのだと思いますが、こんなお話を思い出します。不治の病を得て自分の余命がわずかしか残されていないことを知った若い母親がいました。彼女にはまだ母親の保護を必要としている幼い息子が一人いました。彼女の心残りは自分が息子のそばに寄り添って、その成長を見守ることができないと言うことでした。そこで彼女は一つの計画を立てました。そしてそれを実行に移したのです。彼女が立てた計画はこれから成長して行く息子に対して、自分のメッセージを伝えるビデオレターを残すことでした。彼女は自分に残されているわずかな時間を使ってそのビデオレターを作りました。毎年、息子が誕生日を迎えるたびにこのビデオを見ることができるように、その母親は自分の息子が成長している姿を思浮かべながら、自分のメッセージをビデオに残します。そのようにして息子が成人になるその日まで、彼女は息子が毎年やって来る彼の誕生日に見ることできるビデオメッセージを残しました。そしてこの母親の愛によって作られたビデオレターが息子のその後の成長を支えたと言うお話です。
 ヨハネによる福音書13章1節には次のような言葉が記されています。

 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 このときイエスはエルサレムでの十字架の死を目前にしていました。だからこの時イエスは自分と自分の弟子たちとの時間をわざわざここで作られたのです。それが、私たちが今、学んでいる「主の晩餐」と言う出来事でした。先立つ母親が愛する息子のために残されたわずかな時間を使おうとしたように、イエスも自分の愛する弟子たちのために大切な時間を使ってその弟子たちと食事を共にされたのです。そして聖書によればこの食事は「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」イエスの愛が豊かに表される出来事であったと言うのです。それではイエスはこの食事を通してどのような愛を弟子たちに示されたのでしょうか。そのことを今日は皆さんと共に考えて見たいと思います。

2.主の晩餐の意味するもの
①食材として準備されたパン

 先日の礼拝でも学びましたように、この食事はユダヤ人たちが毎年守っている過越の祭のメインイベントとして行われました。ユダヤ人はこの過越の祭りを祝って、「過越の食事」を準備し、それを家族や友人たちと共に食べたのです。この過越の食事のメニューは神によって決められていました(出エジプト12章)。特にこの食事で大切なのは羊の肉です。これはイスラエルの民を災いから救うためにささげられた子羊の役割を忘れないために準備されます。また酵母の入っていないパン、つまり種なしのパンもこの食卓に準備されました。それはエジプトの地から急いで脱出しなければならなかった先祖たちの姿を思い出すためです
 興味深いのはイエスが最後の晩餐の席で、使った食材はパンとぶどう酒で、羊の肉はそこに含まれていません。そこでこの食事は正しくは過越の食事ではないと主張する聖書学者たちがいます。だから子羊の肉がここには登場しないのだと彼らは説明するのです。しかし、私たちが学んでいるマルコによる福音書はこの食事は「過越の食事」とはっきりと語っています(12節)。ご存知のようにこの「最後の晩餐」の食事は教会の長い歴史の中で「聖餐式」と言う形で受け継がれ、守られて来ました。もし、この聖餐式の食材に羊の肉が選ばれていたら、聖餐式は今よりもずっと守りづらいものとなっていたはずです。羊の肉はそんなに簡単に手に入るものではないからです。ですから、この食材の選定には私たちがどこでも、またいつの時代にも聖餐式を守り続けることができるようにと願う神の特別な配慮が隠されているとも言えるのです。

②パンとぶどう酒が意味するもの

 「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」」(22節)

 イエスは弟子たちの前でパンを裂いて、それを彼らに配られた後に、「これはわたしの体である」と語りました。だからこのパンを食べるようにと弟子たちに促したのです。このパンは空腹を満たすためのものではなく、私たちのために十字架にかかってくださったイエスの体を指し示しています。このパンは私たちを罪の奴隷状態から解放し、神の子として生きるために十字架上でささげられたイエスの体を意味しているのです。ですからこのパンを食べると言うことはイエスの十字架の御業を思い起こすことを意味しています。それだけではありません。弟子たちはイエスから差し出されたパンを自分の意思で受け取り、それを食べる必要がありました。これはイエスの十字架の犠牲が自分のためであることを認め、その恵みを受け入れると言うことを表す行為ともなっています。
 どんなに素晴らしい食事が私たちのために準備されていても、私たちがそれを食べなければ、何の意味もありません。これはイエスの十字架の出来事も同じです。その出来事のすばらしさをいくら褒めたたえても、この出来事が自分のために起こったことと認めること、私たちがその恵みを受け入れなければ、私たちと十字架の出来事は何の関係もなくなってしまうのです。ですから聖餐式で私たちがパンにあずかることは私たちが救い主イエスを信じると言う信仰の表明であると言えるのです。信仰がない者がこのパンにあずかっても、それは何の意味もないと言えるのです。

 「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(23〜24節)

 この杯はぶどう酒の入った杯です。そしてそのぶどう酒はイエスが十字架上で多くの人のために流された血を意味していると言うのです。それは出エジプトの際に、イスラエルの民の家の門柱と鴨居に塗られた子羊の血を意味しています。この血を塗った家だけがエジプト全土に下された災いから、守られたように、イエスの血は私たち罪人に下されるべきすべての呪いから私たちを守ることができます。ですからこの杯を飲む者はキリストの守りが自分に与えられていることを確信することができるのです。

3.この晩餐は誰のためのものか
①信仰さえあれば大丈夫?

 「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」(26節)

 この食事を終えた後、イエスは弟子たちを伴ってエルサレムの町の郊外にあったオリーブ山に向かわれました。このすぐ後にイエスはこのオリーブ山でユダヤ人の指導者たちから遣わされた人々によって逮捕され、連行されてしまいます。そしてそのときイエスの弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出してしまったのです(50節)。ここでは弟子たちの弱さが露呈してしまうような出来事が起こっています
 日本には「無教会主義」と言う独特なキリスト教信仰を持ったグループが存在しています。この立場に立つ内村鑑三や矢内原忠雄と言う人物の名前を皆さんも聞いたことがあると思います。「無教会主義」と言っても、彼らは不思議なことに日曜日に一緒に集まって聖書を学び、礼拝をささげています。つまり「無教会主義」と言っても彼らには実際に教会がないと言う訳ではないのです。実はこの無教会の人々の信仰の特徴は、洗礼や聖餐式と言う私たちの教会の用語で言えば「聖礼典」を行わないこと、それを否定するところにあります。
 彼らは「正しい信仰さえ持っていれば、聖礼典などなくても人は救われることができる」と考え、主張するのです。もちろん彼らがそのように主張する背景には、形ばかりの洗礼を受け、また聖餐式を受けるだけの「名ばかりの信仰者」の存在があります。彼らはそのような人々の存在を容認する既成のキリスト教会への批判を自分たちの主張を通して表しているのです。確かに信仰がなければ、洗礼を受けても、聖餐式にあずかってもそれは無意味なことかもしれません。しかし、私たちが忘れてはならないことは、私たちは本当に自分が「正しい信仰」を持っていると胸を張っていつも言えるような存在であるかどうかと言うことです。むしろ、私たちはどんなに固い決心で信仰に入ったとしても、目の前で起こる出来事に心を奪われて、その信仰の確信さえなくしてしまうことある弱い存在でしかないのです。

②思いがけない自分の行動

 このときのイエスの弟子たちもそのような姿を示しています。彼らは本心からイエスに「たとえ自分が殺されても従いたい」と願っていました。「他の弟子たちがイエスを裏切っても、自分だけはイエスを裏切りことはない」と考えていた人々でした。しかし、そのような思いを持っていた弟子たちでしたが、イエスが実際に目の前で逮捕される姿を目撃すると、彼らは皆、イエスを置き去りにして逃げ出してしまったのです。おそらく、この行動は彼ら自身が一番、納得のいかない行動であったのかもしれません。彼らは「どうして、こうなってしまったのか」とこの後も、考え続けたはずです。「他人のことはともかくも、自分のことなら何でも分かる…」。私たちもそのように考えてしまうことがあります。しかし、思いがけない試練に遭遇するとき、私たちもこのときの弟子たちと同じような体験をする可能性があります。
 イエスは私たちのことを、私たち以上によく知っておられる方です。だから弱さを持った私たちをどのように助ければよいのかをよくご存じの方なのです。そのイエスは私たちの信仰生活を助けるために教会を与えてくださいました。その教会に洗礼を受けて加わり、続けて主の晩餐である聖餐式に参加するようにと勧めてくださっているのです。だからこそ、自分の力を頼りにできない私たちは正しい信仰生活を続けるために、イエスが準備してくださった助けを受ける必要があるのです。私たちは「正しい信仰さえ持っていればよい」と言うではなく、正しい信仰を持つために進んで聖餐式に参加し、イエスの助けを受ける必要があるのです。
 主の晩餐は弟子たちの弱さをよく知っておられたイエスがその弟子たちのために準備してくださった食卓です。そしてその弟子たちと同じような弱さをもつ私たちのために準備されているものなのです。

4.イエスの永遠の愛を目で見ることができる

 主の晩餐には弟子たちを最後まで愛し抜かれた、主イエスの愛が豊かに示されています。最初に引用した聖書の言葉には「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネによる福音書13章1節)と語られていました。この聖書の言葉は別の翻訳聖書を読むと「弟子たちに永遠の愛をお示しになった」と訳されているものがあります。
 人間同士がどんなに深い愛情関係で結ばれていたとしても、その関係はいつか終わります。地上の人間の命には限りがあるように、その愛の関係にも終わりのときがやって来るのです。しかし、私たちの主イエスと私たちの関係はそうではないと聖書は告げています。なぜなら、私たちの救い主イエスは、一度は十字架で死なれましたが、三日目に復活された方だからです。復活されたイエスは、天に昇られた後も、私たちを愛し続けてくださっておられます。だから聖書が語るように私たちに向けられたこのイエスの愛はいつまでも無くなることがありません。それは「永遠の愛」と呼ぶことができるのです。
 それでは天に昇られたイエスは私たちとの愛の関係をどのような形で維持してくださっているのでしょうか。その働きを担うのが聖霊なる神の働きです。天におられるイエスは今もこの聖霊を私たちに一人一人に送ってくださって、私たちとの愛の関係を保って下さっているのです。この聖霊の働きによって私たちの教会は守られています。また、そこで行われる洗礼式も、そして聖餐式もこの聖霊の働きによって、単なる形式的な儀式ではなく、キリストの恵みを豊かに受ける機会とされるのです。
 この聖霊の働きは人間の肉眼の目では見ることができません。だから信仰者はその信仰を通して、聖霊の働きを確信し、その聖霊を送ってくださっているイエスの愛を確認することができるのです。しかし、その聖霊の働きを私たちが自分の目で確認できる場所があります。それが教会の行う「聖礼典」、つまり洗礼式であり、聖餐式なのです。私たちはこの「聖礼典」にあずかるとき、実際にその礼典を通して、自分の上に聖霊が働いてくださっていることを確認することができるのです。
 私は以前、ある本の中で病床においてこの聖餐式を行うことが大切であると言うことを教えている文章を読みました。それ以来、私は希望があれば病院や介護施設に赴いて病床聖餐式をするようにしています。病床において不安を感じている人に「信仰さえあれば大丈夫ですよ」と言う言葉は簡単に語れるかもしれません。しかし、人間は不安定な心の中で「自分がイエスに愛されている」と言う目に見える確かなしるしを欲しいと願います。神はそのような人間の弱さをよく知っておられたからこそ、この目に見える確かなしるしである聖餐式を私たちに与えてくださったのです。聖餐式にあずかる者はパンを食べ、ぶどう酒の杯を飲み干すことによって、イエスの十字架の恵みが確かに私のものとなっていることを確かめることができるのです。
 自分の力ではイエスの前から逃げ去ってしまうことしかできなかった弟子たちは、やがて復活されたイエスの力により、全世界に出て行って福音を大胆に伝えることのできるものと変えられました。それは弟子たちが主の晩餐を守り続けることにより、自分たちがイエスに愛され続けていることを確信することができたからです。
 主の晩餐である聖餐式に参加する私たちにも同じ恵みが与えられるのです。私たちはそこで主の愛を確信し、主の愛に生かされて生きるイエスの弟子に変えられるのです。このような意味で今日の聖書の物語は弟子たちに対するイエスの愛と同時、私たちに対するイエスの愛を示す箇所であると言えるのです。


祈祷

天の父なる神さま
 主イエスは十字架にかけられる前の自分のために残された時間を使って、弟子たちのためにその愛を豊かに示してくださいました。彼らのことを最もよく知っている主イエスは、その弟子たちのために主の晩餐を行ってくださいました。同じようにイエスは、今、教会で聖餐式にあずかる私たちにも永遠の愛を示し、私たちを慰め励まし、私たちの地上での信仰生活を全うできるようにと助けてくださいます。主イエスが私たちのために定められたこの聖餐式の意味を私たちがよく理解し、あなたの恵みに豊かにあずかる機会となりますように助けてください。私たちが聖霊の働きを悟り、主イエスのその愛に感謝を献げ生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがこのとき弟子たちのために準備された食事にはどのような特徴がありましたか(12節/参照 出エジプト記12章)。
2.イエスはこの食事の席でパンを取り、弟子たちに何と語られましたか(22節)。あなたはイエスの体を食べると言うこの言葉を読んでどのようなことを考えることができますか。
3.イエスは次に杯をとって弟子たちに何と語られましたか(24節)。
この杯は何を意味しているものですか。
4.この主の晩餐が私たちの教会で現在でも行われている聖餐式に引き継がれているとするなら、私たちが聖餐式に参加することにはどのような意味があるとあなたは考えますか。