1.ナルドの香油
①価値のあるものと価値のないもの
第二次世界大戦下で起こったナチスドイツによるユダヤ人迫害は誰もがよく知る出来事です。当時、ナチスドイツはユダヤ人を絶滅するために彼らを逮捕し、強制収容所に送りました。強制収容所に着いたユダヤ人は入所前に身の回りを検査されて、収容所まで大切に持ってきた物のほとんどを奪い取られてしまいます。収容所で働く看守たちはそこでユダヤ人から奪い取った品々を一つ一つ調べて、価値のあるものと、価値のないものの山に分類します。彼らが「価値がある」と判断したものは宝石や貴金属、被服品などと言うようなもので、誰にでも高値で売れるような代物です。それでは彼らから「価値がない」と判断されたものは何だったのでしょうか。それはユダヤ人たちがそこまで肌身離さず大切に持っていた家族の写真や手紙、あるいは日記帳などでした。それらの品物はそれをここまでもって来た本人にとっては何物に代えることのできない価値を持つ宝物であったはずです。しかし他の第三者から見れば、それは売り物にもならないゴミの山に過ぎなかったのです。
今日の物語にはイエスの頭に高価なナルドの香油を注いだ一人の女性が登場しています。この女性の行為を見て、多くの人は「無駄遣い」だと考えました。つまり、彼らにとってこの女性のなした行為は「無価値」なものと判断されてしまったのです。しかし、主イエスだけはこの女性の行為が「決して無駄ではないこと」、他の何物にも代えることのできない価値を持っていることを理解されています。それではイエスがここで語る通り、この女性の行為はどうして無駄ではない、むしろ価値ある行為であったと言えるのでしょうか。どうしてイエス以外の人々はこの女性の行為の本当の価値を悟り、受け入れることができなかったのでしょうか。私たちはそのことについて少し考えて見たいと思うのです。
②イエスの頭に香油を注ぐ
今日の箇所にはまず「祭司長や律法学者たち」と言われるユダヤ人の指導者たちのイエス殺害計画が記されています(1〜2節)。さらに今日の物語を挟むように後半ではイスカリオテのユダの裏切りが記録されます(10〜11節)。ユダヤ人の指導者たちも、また裏切り者のユダもイエスの存在を「自分たちにとって価値のないもの」と判断したからこそ、彼を殺害しようとしたのでしょう。その証拠にユダにとってはイエスの存在よりも、銀貨30枚(マタイ26章15節)の方が価値あるものだったのです。だから彼は積極的にユダヤ人たちの計画に加担して行きます。
この物語はベタニアの村にあった「重い皮膚病の人シモンの家」で開催された食事会が舞台となっています。このシモンについてはどういう人物かよく分かっていませんが、聖書学者たちの見解によれば、この家はマルタとマリアの姉妹、そしてその弟ラザロが住んでいた家ではないかと考えられています。つまり、シモンは彼らの父親の名前ではなかったかと言うのです。このときシモンはまだ存命中であったのか、それともすでに世を去っていたのかも分かりません。ベタニヤ村の人々からはマルタとマリア、そしてラザロの家はその父の名前で呼ばれていたと言うのです。聖書によればこの家族はイエスととても深い関係を持っていたと言われています(ルカ10章38〜42節、ヨハネ11章)。もしかしたらそのイエスとの関係は重い病を抱えた彼らの父親のときから始まっていたのかもしれません。
このとき、人々と食事をするイエスのところに純粋で高価なナルドの香油の入った壺を持った一人の女性が登場します。ヨハネによる福音書はこの女性をラザロの姉であり、マルタの妹であったマリアだとはっきりと紹介しています。ここでマリアは持ってきた壺を壊して、中に入っていた香油をイエスの頭に注いだと言うのです(3節)。
私はナルドの香油がどのようなものなのかよくわかりませんが、当時は高価で売買されるほど、すばらしい香りがする油だったのでしょう。しかし、この出来事を目撃した人々はマリアの行為を非難します。なぜなら、彼らには彼女が大変な無駄遣いをしていると考えらえたからです。
2.イエスに従う意味
それでは彼らはなで、マリアを厳しく非難したのでしょうか。その理由を彼らはここで次のように語っています。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(4〜5節)
彼らはこのナルドの香油の値段をここですぐに計算しています。三百デナリオンです。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金だと言われていますから、三百デナリオンは三百日分の賃金、ほぼ一年分の労働者の収入をマリアは一瞬で使い果たしてしまったのです。「三百デナリオンあれば、その金額でどれだけ貧しい人の生活を助けることができるだろうか…?」。実際に彼らが貧しい人を心から助けたいと思って、このような発言をしたのかどうかわかりません。いずれにしても、驚くべき大金を無駄にしてしまったと言うことで彼らはマリアを責め立てたのです。彼らはナルドの香油の市場価値にだけ目を注ぎ、マリアが何のためにこのようなことをしたかについては全く関心を払っていません。
ところで、こんな高価な品物を一瞬のうちに使い果たしても、平気なマリアは「よほど金持ちなのか」と思ってしまう人もいるかもしれません。マリアがどれだけの財産を持っていたのかについても今ははっきりとは分かりません。しかし、当時の人々は自分の持っていた財産を宝石や香油と言った高価な品物に変えて保管する習慣があったと言います。特にマリアの持っていた香油は彼女が親から引き継いだ遺産であって、彼女がやがて花嫁になって嫁ぐときに必要な持参金ではなかったかと言う説もあります。当時の社会では持参金の額でよい嫁ぎ先を選べるかどうかが決まって来ます。もしこの香油がそのような意味を持つものだったとしたら、マリアの行為は自分の将来をイエスにささげたと言うことにもなるのです。
おそらく損得勘定で物事を考える人は、何かをするときには必ず「それをすれば自分は何が得られるのか」と考えるはずです。聖書を読むと、犠牲を払ってイエスにつき従っていた弟子たちは、イエスが新しい王になったときに今まで自分たちが払った労苦に見合う地位を得たいと考えていたと言われています(マルコ10章35〜45節)。そのような損得勘定で考える弟子たちにはこのときのマリアの行為の意味が分かりませんでした。マリアがこんな犠牲を払っても、彼女が得るものは何もないと考えていたからです。
このときのマリアの行動は損得勘定では理解できないものでした。それではなぜ、彼女はこんなことをしたのでしょうか。その答えは簡単です。彼女がそうしたいと考えたからです。マリアはこのとき誰から何を言われようと、イエスに自分の一番大切にしているものをささげたいと思ったのです。それは誰かに強制されたものではありません。誰かに褒められるためになしたことでもなかったのです。イエスのためにマリアは自分にできる限りのことをしかったのでしょう。これはイエスに対する彼女の愛の表現であると言ってよいものです。だから、他の人が「無駄遣いだ」と彼女を非難しても、彼女にとってイエスの頭に香油を注いだことは、金銭に代えることのできない喜びをもたらしたと言えるのです。
イエスはこのマリアの行為の意味をよく知っておられました。だからこう語ったのです。
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。(6〜8節)」
イエスの十字架の出来事が間近に迫っていました。だから、マリアの行為はやがて死んで葬られる自分のために香油を使って準備してくれたことだと語るのです。マリアがこのとき、イエスの死をどれだけ悟っていたか、また予感していたのかはよく分かりません。しかし、彼女はイエスが限りない愛を持って自分たちを愛し、その愛を貫くために生涯を使おうとしていることが分かったのでしょう。だからそのイエスの愛にマリアは自分の愛を持って答えようとしたのです。
このときのマリアの行為を価値あるものとしているのは、このイエスとの愛の関係です。だからこの愛の関係が理解できないものにとっては、この行為は無駄遣いであり、価値のないものと判断されざるを得なかったのです。
3.イエスに従う喜び
このマリアの行為は私たちの信仰生活の価値を説明しているとも考えることができます。なぜなら、私たちと神との関係を知りえない人にとっては私たちの信仰生活は「無駄なもの、価値のないもの」と判断されてしまうからです。せっかくの日曜日に朝から教会に向かう皆さんの姿を見て、近所の人は「どうしてこんな朝早くから出かけるの」と言って来るかもしれません。「教会に行ったらどんな得があるのか」と考える人には、皆さんが大切な時間を使って教会の礼拝に出席して神を賛美したり、聖書を学び、神に祈りを献げることの意味が分かりません。ましてや、そこで献金をしたり、奉仕をしたりすることを知ったら彼らはそれを「無駄遣い」と考えるはずです。
しかし、私たちの信仰生活の価値は市場価格でも損得勘定でも置き換えることはできません。この価値は神と私たちの愛の関係を通してだけ理解できるものだからです。そしてその関係に生きる私たちにとっては信仰生活ができることが、何にも代えがたい喜びであると言えるのです。
皆さんは、「炎のランナー」と言う昔、アカデミー賞まで受賞した古い映画をご覧になったことがあるでしょうか。この映画に登場するクリスチャンの青年は実在の人物がモデルとなっていると言われています。彼は誰よりも早く走ることのできる才能を持っていました。そのため、当時パリで開催されたオリンピックにイギリスを代表する選手として送り込まれます。ところがここで問題が起こります。オリンピックの100メートル競走の予選が日曜日に開催されることが分かったからです。この青年はスコットランドの長老教会の信仰を受け継ぐ熱心なクリスチャンでしたから、「安息日である日曜日に競技に出ることはできない」と言い出しました。彼が競技に出場すれば金メダルをイギリスは間違えなく獲得できると考えた人々は、懸命になって彼を説得します。最後にはイギリスの皇太子まで彼の説得にあたりますが、彼は決して自分の信仰を曲げることはありませんでした。
このクリスチャンの青年の行動はその信仰が理解できない人々には、「才能の無駄使い」と言う非難を受けざるを得ないはずです。多くの人には彼の信仰的判断は無価値なものとしか考えることができないからです。しかし、この青年にとっては日曜日に神を礼拝することは何物にも代えることのできないものだったのです。それは決してオリンピックで獲得する金メダルや名誉でも代えることのできない喜びを彼にもたらすものでした。この青年は映画の中でこう語ります。「神さまは私に早く走ることのできる足を与えてくださった。だから、私はこの足で走れることがうれしいし、それが自分にとっての喜びだ」。彼は金メダルを取るために走っているのではありませんでした。人から賞賛を受けるために走っているのではありません。自分に命を与え、早く走れる賜物を与えてくださった神に感謝し、その賜物を使うことが彼にとっての最大の喜びであったのです。
私たちの信仰生活の価値は市場価値に置き換えることができません。ましてや、損得勘定でも理解することができないものが私たちの信仰生活なのです。私たちにとっては神を信じることができることが喜びなのです。イエスに従って生きることができることが喜びなのです。私たちの信仰生活は私たちのために命も惜しまず与えてくださったイエスの愛に答えるものです。だからこの関係に生きる者だけがその本当の価値を理解することができるのです。イエスはこのとき、高価なナルドの香油をご自分の頭に注いだマリアの行為に対してこう語られました。
「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9節)
私たちの信仰を理解できない人は、私たちの信仰生活を見て「何て無駄なことをしているのだ」と思うかもしれません。また口に出して私たちの信仰を非難する人もいるかもしれません。しかし、イエスの頭に高価なナルドの香油を注いだマリアの行為が福音の記念として用いられることになるとイエスはここで語られています。そしてそのイエスは私たちの信仰生活も同じように用いてくださる方です。いつか私たちの存在がこの世から無くなってしまう時が来たとしても、私たちの残した信仰は無くならず、福音伝道に用いられるのです。私たちの信仰がかつてこの世に生きたたくさんの信仰者たちの信仰生活の証の上に成り立っているように、私たちの信仰生活も神はこれからの福音伝道を通して必ず用いてくださるのです。
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