2019.6.2 説教「ペトロの決心」


聖書箇所

マルコによる福音書14章27〜31節
27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。


説教

1.鶏が二度鳴く前に
①私たちのことを何でも知っておられるお方

 今日もマルコによる福音書の伝える主イエスについての物語から皆さんと共に学びたいと思います。エルサレムでの十字架の死の出来事を前にして、イエスはご自分の弟子たちのためにその愛を豊かに示されました。イエスは地上でのご自分の死によっても終わることないイエスと弟子たちとの愛の関係を明らかにしようとされたのです。そのためにイエスは過越の食事の席を使って主の晩餐、最後の晩餐を行われました。この主の晩餐はキリスト教会の聖餐式に引き継がれ今でも守られています。私たちが今日の礼拝でもあずかるこの聖餐式はイエスの愛を私たちの肉眼の目で確かめることのできる機会です。ですから誰でも信仰を持ってこの聖餐式にあずかるなら主イエスとの愛の関係を確認することができます。そして更にはこの聖餐式にあずかる者に聖霊が働いてイエスと私たちとの愛の関係がより強固なものとされるのです。今日のお話はこの晩餐が終わって、イエスと弟子たち一同がエルサレム郊外にあったオリーブ山に向かう途中で起こったことを記しています。
 ヨハネによる福音書の記述に従えば、この晩餐が終わるとすぐにイエスを裏切ろうとするイスカリオテのユダは自分の立てた計画を実行するためにイエスと弟子たちの群れから離れて行きました。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(ヨハネ13章30節)と聖書は記しています。光であるイエスに背を向けて外に出て行こうとするユダの前には夜の暗闇が広がっています。そしてユダはその暗闇の中に消えて行ったと言うのです。聖書はとても短い言葉でこのシーンを印象深く描き出しています。
 今日のお話の部分でイエスは弟子たちが自分を置き去りにして逃げて行ってしまうという予言を語っています。事実、この後にイエスを捕らえにやって来た人々を前に弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ってしまうと言う出来事が起こっています(43〜50節)。
 私は今回、この聖書を読んでいて初めて気づいたのですが、イエスはここで「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)とペトロに語っています。マルコは「鶏が二度鳴く前」とここで記していますが、他のマタイ、ルカ、ヨハネの伝える物語では、「鶏が鳴く前に」と表現されています。つまり、マルコ以外の福音書ではペトロがイエスの予言の通りに三度、イエスを否定する言葉を語った後に鶏が鳴いたと言う記述をしています。これらの福音書では鶏が鳴くのは一回だけと報告されているのです。しかし私たちが今日読んでいるマルコによる福音書では確かに鶏は、大祭司の家に仕える女中にペトロが「イエスの仲間だ」と指摘されたとき(68節)、そして最後にペトロが呪いの言葉さえ口にしながらイエスを否定するとシーンに更にもう一度鶏が鳴いています(72節)。
 鶏がどのタイミングで何回鳴いたのかは今では誰も確かめる方法はありません。ただ、この福音書を記したマルコはペトロの協力者として働いたと伝えられていますから、この記録もペトロの記憶をもとにして書いたとも考えることができます。ペトロはイエスの語る言葉が寸分違わず自分の上に実現したことを深く心に刻んでいて、その出来事をマルコに語ったと考えられるのです。イエスはこれからペトロの人生にどんなことが起こるのかをすべてご存知でした。イエスはこのように私たちの人生の上にこれから起こることを何でもかんでも知っておられるお方なのです。ですからそのような力を持つイエスはとても恐ろしいお方だと考えることができます。しかしもう一方で、そのお方が自分を愛し、守ってくださっていると言うことが分かれば、ペトロにとって、また私たちにとってもこれほど頼もしいことはないはずです。つまりペトロはイエスがどのように素晴らしい方であるかをこの出来事を通しても福音書記者マルコに伝え、私たちに教えようとしたと考えることができるのです。

②神の計画の中で起こった出来事

「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ」(27節)。

イエスは旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉を引用して弟子たちが自分を捨てて逃げ去ってしまうことを語っています。これから弟子たちの上に起こる出来事は神の救いの計画の一部として起こるものであることを表す言葉です。神の計画によれば弟子たちはこのときイエスに「つまずく」必要がありました。それは彼らがこの後、使徒として働くために必要なことでした。彼らはこの出来事を通して神の訓練を受ける必要があったのです。ルカによる福音書を読むと、弟子たちは主の晩餐の席でさえも「自分たちの内で誰が一番偉いのか」と言い争っていたと言う記述が残されています(24〜30節)。このように弟子たちの関心は最後まで自分自身にありました。彼らは自分の持っている野望を、イエスを通して実現させたいと願っていたのです。しかし、彼らがイエスの使徒として働くためには、まず人間の内には何一つ希望がないことを知る必要がありました。そしてその上で主イエスだけ自分たちの唯一の希望であることを確信し、それを人々に告げ知らせる必要があったのです。ですからこれから弟子たちの上に起こるできごとは、彼らを使徒として訓練しようとする神の計画の内で起こった出来事だと言えるのです。

2.ペトロの決意
①ペトロの誤解

 さてペトロはイエスの「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言う発言に対してすぐに反応して「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)と答えています。このペトロの発言の中には「みんなが」と言う言葉が登場します。つまりペトロはここで他の弟子たちの存在を引き合いに出して、自分だけは彼らと違うと語っているのです。この言葉は「自分たちの中で誰が一番偉いのか」と弟子たちの間で言い争いが起こったことと深く関係していることが分かります。「自分だけは違う」とペトロはイエスに向かって主張しているのです。だからイエスはそのペトロに「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)と続けて語りかけておられます。イエスはこれからペトロの上にどのようなことが起こるのかをすべてご存知の上で、ペトロに語っておられるのです。しかし、肝心のペトロはそのイエスの発言の意味をこの時、全く悟ることができていませんでした。だからむしろ、このイエスの言葉をかき消すように「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)と語って、自分はイエスを守るためなら死をも覚悟しているという決意を語っているのです。
 しかし、このペトロの願いは実現することができませんでした。それはなぜでしょうか。ペトロはここで人間として大きな過ちを犯していたからです。その過ちとは人間であるペトロが神の子であるイエスを必死に守ろうとするという姿勢に示されています。ペトロの考えは事実を全く逆転させるものでしかありません。なぜならば、ここでペトロを必死に守ろうとしておられるのはイエスご自身の方だからです。救い主イエスはペトロや私たちを罪と死の奴隷状態から救い、私たちをすべての悪から守るために十字架にかかってくださるために来られた方だからです。ところがペトロはそのことを分かっていませんでした。だから彼は自分で必死になってイエスを守らなければならないと勘違いしていのです。実は、この過ちはペトロだけに当てはまるものではありません。私たちもまた、このような過ちを信仰生活の中で犯す傾向があるからです。

②人間が神を守ることができるか

 たとえば人間のこのような傾向はキリスト教会の歴史の中でも起こっています。キリスト教会では以前から「聖書の無誤性」と言う問題を巡る議論が繰り返し起こっています。神が私たち人間ために与えてくださった聖書の内容には誤りがありません。それは確かなことです。しかし、この「聖書の無誤性」を語る人々は「だから聖書の内容はこの世の科学的知識と矛盾することはない」と主張して、逆に人間の科学的知識を持って聖書の内容に誤りがないことを証明できると主張するのです。しかし、これは考えてみると人間の考える科学で聖書が正しいことを証明すると言うことになります。これでは結果的に必死になってイエスを自分の力で守ろうとしたペトロと同じ過ちを犯すことになります。それは人間の力で神を守ろうとすることと同じだからです。
 かつて中世のカトリック教会は地動説、つまり地球が太陽の周りを自転しながら回っていると言う学説を主張したガリレオを宗教裁判にかけました。カトリック教会はガリレオの主張を「聖書に反する教えを語っている」と激しく非難したのです。なぜなら当時のカトリック教会は太陽や他の惑星は地球の周りを回っていると考える天動説を聖書が教えていると主張していたからです。当時のカトリック教会はそれまでの人間が考えていた天動説を通して聖書が真理であることを証明しようとしていたのです。だから、彼らはこの天動説が否定されれば、聖書が真理であることも否定されてしまうと恐れたのです。しかし天動説は中世までの科学者が科学的真理として信じていたもので、聖書が教えているものではありません。ガリレオらの研究はこの天動説の誤りを指摘したもので、聖書が誤りであると言ったわけではないのです。
ガリレオの宗教裁判で問題になるのは聖書の内容の正しさではありません。むしろそこで問題とされたのは人間の考える科学の限界です。科学は時代と共に発展していきます。当然その過程で古い主張は否定されることがあります。ですから、いつの時代でもこの限界のある人間の科学を持って聖書が真理であることを守ろうとすることは愚かなことと言えるのです。もしそんなことをすれば、教会は再びガリレオ裁判のような悲劇を繰り返す可能性があるからです。
 私たちの改革派教会は聖書が誤りのない神の言葉であることを証明するのは神ご自身であると考え、信じて来ました。神が聖霊を私たちの心に遣わして、この聖書の言葉に誤りがないことを確信させてくださるからです。科学者が聖書の真理を守るのでは決してありません。その上で私たちは聖書の教えと科学は対立するものだとも考えていません。なぜならば、科学者が神の創造してくださったこの世界を謙遜になって研究していくならば、神は彼らにもご自身の真理を明らかにしてくださると信じているからです。大切なことは人間が神を守るのではないと言うことです。むしろ、神が私たち人間を守るためにすべてのものを与えてくださっていると言うことなのです。その意味で科学的な知識も神が私たちに人間を守るために与えてくださる賜物だと言えるのです。
 私たちはときには悲壮的な決意をして教会生活や信仰生活を守ろうとすることがあります。しかし、このとき私たちが忘れてはならないのは、守ってくださるのは神であって、私たちが神を守ることではないと言うことです。私たちが陥るつまずきの問題の背後にはいつも、このような原因が隠されています。何かを必死になって頑張って守ろうとしていますが、その頑張りの背後には神の守りを信頼していないと言う私たちの誤解や不信仰が隠されているのです。
 私たちの信仰的な熱心は決してこのようなところから生まれて来るものではありません。神が私たちの信仰を守ってくださっている、神が私たちの教会を守ってくださっていると言う確信から、私たちの本当の信仰的熱心は生まれるからです。もし、私たちが自分の力で教会を守っている、信仰を守っていると言うことに固執してしまうならば、私たちの犯す失敗はとりかえしのつかないものとなるでしょう。しかし、事実はそうではありません。神が私たちを守ってくださっているのですから、たとえ私たちが失敗しても、神は私たちを再び立たせてくださることがお出来になるのです。

3.ガリラヤで待つイエス

 イエスは今日の部分でこのような言葉を語っています。

「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(27〜28節)

 イエスが復活された後に「ガリラヤに行く」と言う言葉を記録しているのはこのマルコによる福音書とマタイの福音書だけで、ルカとヨハネにはこの言葉を記していません。ルカによる福音書はイエスが復活された後にエルサレムで弟子たちや多くの人の前に現れたことを語っています。そしてそのエルサレムでイエスが天に昇られたことを記録して終わるのです。なぜイエスはここで弟子たちに向かって「ガリラヤに行く」と言う言葉をわざわざ語られたのでしょうか。不思議なことに「ガリラヤに行く」と言う言葉を紹介していないヨハネによる福音書は、この弟子たちが実際にガリラヤに行って、そこで復活されたイエスと再会したと言うお話を紹介しています(ヨハネ21章)。
 ここでは自分の力でイエスを守ろうとしたペトロは、その決意を実現できなかったことを悔いて、ガリラヤの漁師に戻ってしまっています。「もう自分にはイエスの弟子としての資格はない」と彼は考えてしまっていたのでしょう。しかし、そのペトロを再び立ち上がらせるために復活されたイエスが現れてくださったという出来事が紹介されているのです。
 この「ガリラヤに行く」と言うイエスの言葉には弟子たちの犯した失敗をすべてご存知の上で、その弟子たちを赦し、彼らを導こうとする決意が示されているのです。
 このときペトロたちは自分たちの決意が誤りであることを知る必要がありました。本当はイエスが自分たちを守ってくださっていることを知る必要があったのです。だから逮捕されるイエスを置き去りにして逃げ出してしまったと言う弟子たちのつまずきはそのためにあったことを聖書は私たちに教えているのです。


祈祷

天の父なる神さま
 神さまが私たちを守ってくださるはずなの、いつのまにあそのことを忘れてしまう私たちです。そして、そんな過ちを犯す私たちの悲壮的な決意は決して実を結ぶことができません。どうか、私たちの信仰生活にあなたへの信頼を回復させてくださいますように。私たちのすべてをご存知の上で、私たちを守り導きく主イエスの御業を覚えさせてください。どうか私たちがその主イエスからいただく力によって、毎日の信仰生活を喜んで送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはこのとき弟子たちの身の上にどのようなことが起こると明らかにされましたか(27節)。
2.このイエスの言葉に対して弟子のペトロはどのような言葉を語りましたか(29節)。この言葉の背後にはペトロと他の弟子たちの間に起こったどのような問題が隠されていましたか(ルカ22章24節)。
3.イエスはこのような答えをしたペトロに何と語られましたか(30節)。ペトロはこのイエスの言葉を聞いてどのような気持なったのだとあなたは思いますか。
4.そこでペトロはどのような決意をイエスに語りましたか(31節)。