1.祈ることの難しさ
「信仰生活にとって神に祈るということは最も大切なことだ」と私たちは普段から教えられて来ました。ですから私たちは祈ることの大切さをもう十分に理解していると言ってもよいのかもしれません。しかし、その一方で祈ることの難しさを日々、体験しているのが私たちの信仰生活の現実なのかもしれません。私たちは本当だったら何よりも神に祈らなければならないことを知っているのに、祈ることができないことがよくあります。また、たくさんの祈りを神にささげても、「本当に神は私たちの祈りに答えてくださっているのだろうか」と言う疑問を感じてしまうことがあります。そんな疑問を抱き始めると当然、私たちの祈りの熱意も冷めて行って、かえって祈りづらくなってしまうということが起こるのです。
おそらく私たちの祈りについての疑問は私たちが祈りについて抱く誤解から生まれて来ると考えて良いのかも知れません。例えば私たちが抱く祈りついての誤解の一つは、祈りをアラビアンナイトの物語に登場する魔法のランプと同じように、自分の願いごとをかなえるための不思議な呪文や道具と考えてしまうことにあります。魔法のランプを手に入れた主人公はランプの精の力を借りて、自分の願いごとをかなえていきます。私たちの献げる祈りを神がことごとくその通り聞いてくださるならば、それほどすばらしいことはないと私たちは考えています。しかし、実際には私たちがアラビアンナイトの主人公のようになることはありません。ですから、そんな誤解を抱いて祈っている者は、「自分が祈っても神は何も聞いてくださらない」と考えて、祈ることを止めてしまうのです。
また、私たちが祈りついて抱くもう一つの誤りは、「私たちの人生に実現することは結局神の御心だけなのだから、自分が祈ってみても何も変わらない」と考える誤解です。そう考えながらほとんど神に祈ることをしないで、「私たちの信仰とは神に信頼することだ」と語る人がいます。しかし、このような人の信仰生活は自分の人生が自分と全くかかわりのないところで勝手に決まってしまうと考える「運命論」と同じようなものになってしまいます。
それでは私たちが神に祈ることの意味はどこにあるのでしょうか。私たちが神の御心に信頼すると言うことと祈りとの間にはどのような関係があるのでしょうか。そのことを私たちは今日の聖書箇所に選ばれているイエスの祈り、ゲツセマネの祈りから学んで行きたいと思います。
2.恐れ、慄くイエス
弟子たちとの最後の食事を終えたイエスはエルサレムの郊外にあったオリーブ山と言うところに向かいました(26節)。イエスはそこに行って天におられる父なる神に祈りを献げようとしたのです。今日の箇所では「ゲツセマネ」と言う地名が記されています。このゲツセマネと言う地名は直訳すると「油絞り」となるそうです。おそらく、オリーブ山と呼ばれる場所はオリーブ畑があったところで、このゲツセマネはそのオリーブ山から取れたオリーブの実を絞り、油を作る場所であったと考えることができます。
ここでイエスは普段の様子とは全く違った行動をとられています。まず、イエスは弟子たちをここで二組に分け、一部の弟子たちをゲツセマネの入り口で待たせた上で、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子だけを伴われてゲツセマネの奥に進まれます。そしてイエスはこの三人の弟子たちに次のように語られたのです。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(34節)。
イエスはここで三人の弟子たちに「自分と一緒にいてほしい」と助けを求めておられます。なぜイエスは弟子たちにそのような助けを求める必要があったのでしょうか。イエスはその理由を自ら語っています。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と。私たちは不安な気持ちに襲われるとき、一人でいることに耐えられなくなることがあります。一人でいると何かその不安に押しつぶされてしまうような気持になるからです。そんなとき、誰かがそばにいてくれたなら少しは気も休まると考えるのです。イエスもこのときそのような不安に襲われていました。この少し前には「イエスはひどく恐れてもだえ始め…」(33節)と記されています。別の日本語の翻訳では「イエスは恐れ、慄(おのの)いた」と訳されています。「慄く」とは言う言葉は「戦慄する」と言うときにも使われる言葉です。辞書を引いてみると「恐ろしくって、体が震えてしまうこと」と説明されていました。イエスはこのとき恐れのあまりブルブル震えていました。だから弟子たちに自分と一緒にいてくれるように願ったのです。
イエスはかつて弟子たちと共に、ガリラヤ湖に浮かぶ舟の中いたとき、突然の嵐に襲われることがありました。嵐で沈みそうになる舟の中で、弟子たちは死の不安を感じて恐れ、慄きました。しかしイエスはそのような弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4章40節)と語られたのです。このときイエスは舟が浸水して沈みそうになっても、一人で眠っていたと聖書は記しています。恐れや慄きと無縁なイエスの姿がここには記されています。しかし、イエスのゲツセマネでの姿はこれとは全く違います。イエスはブルブル震えて、一緒にいる弟子たちに助けを求めたのです。どうしてこのときイエスはこのような深刻な恐れに見舞われたのでしょうか。それはイエスがこれから十字架にかかり、自分が殺されてしまうことをよく知っておられたからです。ですからイエスは自分の死を目前にして恐れ、慄いたのです。
かつてギリシャの哲学者ソクラテスは自分を陥れようとする人々の罠にかかり、死刑の判決を受けました。そのときソクラテスは「悪法も法である」と語って、その判決に黙って従い、自ら毒の入った杯を飲み干し、勇敢に死んで行ったと語られています。このソクラテスだけではなく、人類の歴史の中では英雄と呼ばれるような人の中には、自らの死を恐れずに、その死を受け入れたという人の伝説が数多く残されています。しかし、聖書に登場するイエスの死はそのような英雄の死とは全く違っていたことを今日の箇所は私たちに教えているのです。
3.イエスの恐れの真相
それではなぜ、イエスはこれほどまでに死を恐れたのでしょうか。一見、神の子らしからぬ行動を見せていると思われるようなイエスの姿ですが、ここにこそイエスが私たちの救い主であるという証拠が明確に示されています。
確かに私たちも死を恐れて生きているのではないでしょうか。いずれはやって来る自分の死と言う現実に私たちは正しく向き合う方法を知らないでいます。私たちがかろうじて知っている対処方法は日常生活のあわただしさの中でその現実を忘れてしまうことぐらいかもしれません。しかし、それでは問題は全く解決していません。だから死に対する恐れはいつまでも私たちの人生に付きまとって離れることがないのです。
どうして私たちは死を恐れるのでしょうか。そこには様々な理由が考えられます。しかしおそらく、その一番の理由は死と言う出来事は私たちにとっては得体の知れないものだと言うところにあります。確かに私たちは自分の人生の中で自分以外の者の死を数多く目撃することがあります。しかし、それはあくまでも他人の死であって、自分の死ではありません。自分の死は、いつまでも自分にとって未知の出来事なのです。だから私たちはこの死を恐れずにはおれないのです。
しかし、イエスの場合はそうではありません。イエスは誰よりもこの人間の死と言う出来事の真相を知っておられました。そして誰もよりもこの死の恐ろしさ、また深刻さを知っておられたのです。聖書はこの人間の死の真相について、次のように語っています。「罪が支払う報酬は死です」(23節)。聖書は死を人間が犯した罪に対する神からの報酬、報いだと語っています。神に対して罪を犯した者は必ず厳しい罰を受けなければなりません。つまり、死は罪人に与えられた神の厳しい刑罰だと言えるのです。人間はその罪の報酬として、神から見捨てられてしまい、その結果、死ななければならないのです。イエスはここで神に見捨てられて、死ななければなないという人間の死の真相と向き合い、恐れ慄いたのです。
イエスは私たちを罪から解放し、私たちが本来受けるべき罪の報酬である死から命に導くためにやって来られた救い主です。そしてイエスは私たちの罪をご自分が代わって担われることでそれを解決してくださるのです。イエスはだからこそ私たちのために十字架にかかって死なれました。同じようにイエスは私たちに代わって死の恐れを引き受けて下さったのです。ですから私たちはこのイエスによって本来私たちが味わうはずの死の恐れからも解放されていると言えるのです。
4.イエスの祈りと父なる神の答え
①自分の気持ちを正直に語り、神に信頼する祈り
イエスは私たちに代わって死の恐れと向き合うために父なる神に祈りました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。
私の父が胃がんになって亡くなってからもう十年以上の歳月が流れました。父が胃がんを患ったとき、私は肉親として病院に付き添いました。困ったことに父は私が目を離している間によく病院の中でいなくなってしまうことがありました。でも広い病院の中で父を見つけ出すことはそんなに難しいことではありませんでした。なぜなら、いつでも病院の騒がし雰囲気の中でも、必ずどこからか父がしゃべる大きな声が聞こえてくるからです。その声を頼りにすればすぐに私は父を捜し出すことができました。父は相手が医者であっても看護士であっても、待合室の隣に座っている人でもやたらに話しかけては大きな声で世間話をするのが癖でした。父は心に思ったところそのまま話すような人でした。母はそんな父を見て「恥ずかしい」と言っていました。しかし今考えてみると、父は病気を抱えて不安だったから誰かに話さずにはおれなかったのかも知ません。私は父が手術を受けた後も夜通しベッドの横で付き添ったこともありました。そんなときも父はしゃべることをやめませでした。黙っていたら押しつぶされてしまうような不安を感じるとき人は誰かに語らずにはおれないのです。
このときのイエスもそうであったのかもしれません。しかし、弟子たちはイエスの声に耳を傾ける役目を担うことは決してできませんでした。彼らは不安で苦しむイエスの近くで眠り込んでしまっていたからです。しかし、イエスはそれでも語るべき相手が確かにおられることを知っておられました。それがイエスにとっての父なる神、「アッバ」です。イエスはここで自分の不安な気持ちをそのまま父なる神にぶつけています。イエスのこの祈りから学べることとは、祈りとは私たちの気持ちをそのまま、神に正直述べることだと言うことです。心にある思いをそのまま献げるとき、神は私たちの祈りにしっかりと耳を傾けてくださるのです。
ただこのイエスの祈りからもう一つ私たちが学べることがあります。それは祈りの答えは私たちの祈りの言葉がその通りに実現することではないと言うことです。イエスは「御心に適うことがおこなわれますように」とここで祈っています。確かに神は私たちのささげる祈りに対して、もっともふさわしい答えを与えてくださる方です。ですから、「御心に適うことがおこなわれますように」と神に祈ることは、決して諦めることではないのです。これは私たちの祈りに神が必ず最も相応しい答えを与えてくださることを信じる、信頼の祈りであると言ってよいのです。
②父なる神の答え
ゲツセマネでの祈りが終わったとき、イエスは弟子たちにこう語りかけました。
「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(41〜42節)
「立て、行こう」と言う言葉は「前に進もう」とか「前進しよう」と言う意味を持った言葉だと言われています。それは兵士が戦いの準備をすべて終えて、戦場に出て行くときの言葉と同じものです。イエスがささげた祈りによって、イエスは十字架に向かわれるための力を神から与えられました。父なる神は、イエスが救い主としてその使命を全うするための力を彼の祈りに答えて与えてくださったのです。だからイエスのささげた祈りは確かに父なる神に答えられていると言うことが分かるのです。
このようにゲツセマネでのイエスの祈りを通して私たちが学べることは、祈りとはまず私たちの気持ちをそのまま神に献げることであると言うことです。だから、私たちはいつでも遠慮することなく、自分の心の気持ちを神に語ってよいのです。不安や恐れを抱いているならば、その気持ちを正直に語っていいのです。神はそのような私たちの心の叫びに必ず耳を傾けてくださる方です。そして神は私たちの献げる祈りに、最もふさわしい答えを与えてくださる方でもあります。ですから神の「御心に適うこと」が実現することが私たちの祈りに対する最善の答えであると言えるのです。そしてさらに神は私たちの祈りに答えて、私たちが「御心に適う」生き方ができるように助けてくださる方であることもこの聖書の物語から学ぶことができるのです。
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