2019.6.30 説教「裏切られ、逮捕されるイエス」


聖書箇所

マルコによる福音書14章43〜52節
43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。


説教

1.イエスの逮捕を伝える物語
①ユダヤ人の指導者たちとイスカリオテのユダ

 今日も皆さんと共にマルコによる福音書が伝えている主イエスについての物語から学びます。今日の箇所ではイエスがイスカリオテのユダに導かれたユダヤ人の指導者たちの手下たちによって逮捕される場面が記されています。聖書は当時のユダヤの社会を支配する指導者たちがたくさんの民衆の支持を受けてエルサレムに入城したイエスの存在を恐れていたことを記しています。そのため彼らはイエスを罠に陥れ、殺そうとしたのです。ユダヤ人の指導者たちにとってはそれほどまでにイエスの存在が自分たちには邪魔だと考えられていたのです。彼らは自分たちが持っていた伝統や考え方とまったく異なった見解を示し、そのために人々の関心を集めていたイエスを許すことができなかったのです。イエスを殺すか、それとも自分たちがその地位を失うかというところまえ追い込まれていた彼らは、力づくでイエスを捕らえ、裁判にかけて殺してしまおうと企んだのです。
 このユダヤ人の指導者たちの計画に手を貸すことになったのがイエスの十二弟子の一人であったイスカリオテのユダと言う人物です。ユダと言う名前は当時の名前としてはとてもありふれたものでした。新約聖書の中に「ユダの手紙」と言う短い文章が納められています。中には誤解している人もいるのですが、この手紙の著者はイスカリオテのユダではありません。この手紙を書いたユダはイエスの母マリアと養父ヨセフとの間に生まれたイエスの兄弟の一人と考えられています。ですからユダと言う名前だけではそれがいったいどのユダのことを言っているかわからなくなります。それで聖書は「イスカリオテ」と言うユダの出身地の名前を付けて彼のことを呼んでいるのです。

②マルコによる福音書の特徴

 私たちが学んでいるマルコによる福音書は他の福音書に比べてイエスの生涯を簡潔に紹介すると言う特徴を持っています。その点で今日の逮捕物語も、細かい解説を大幅に省いて簡単に記されています。この物語ではイスカリオテのユダの導きによって、ユダヤ人の指導者たちから遣わされた人々がイエスを逮捕するためにやって来ます。しかしここでイエスの弟子の内のある者が、剣を持って彼らに切りかかって、その内の一人の人にケガを負わせています。他の福音書ではここで剣を使ったのは弟子のペトロであることを紹介していますし、片耳を切られた人物がマルコスと言う名前であったと言うことまで記録しています(ヨハネ18章10節)。ところがマルコはそれらの名前を一切紹介していません。
大変に興味深いのはイエスが逮捕されて、弟子たちがその場からすぐに逃げ去ってしまった後に、なお後について行った素肌に亜麻布をまとった一人の若者の存在を記します。このお話はこのマルコによる福音書にしか記録されていない特ダネ記事です。マルコだけがわざわざこの若者の存在に触れているのですが、やはりこの若者が誰であるかをマルコは説明していないのです。教会の伝承ではこの若者こそ、この福音書を記したマルコ本人であると言われています。この直前にイエスと弟子たちが最後の晩餐を共にした会場は、エルサレムにあったマルコの家であったと考えられているからです。若者マルコはこの会場から出て行ったイエスと弟子たちの後をこっそりと追って行ったと考えることができるのです。

2.イエスを捕らえる者、イエスを守ろうとする者
①イスカリオテのユダ

 この物語にはイエスとイエスを捕らえにやって来た人々、そしてそのイエスを必死に守ろうとして武器まで取って戦おうとした弟子たちが登場します。もっとも弟子たちは最後には恐れをなして逃げ去って行ってしまっています。一見、ここにはイエス本人とそのイエスを攻撃する者、そしてそのイエスを守ろうとする人々の二種類の人々が存在していると考えることができます。しかし、実はこのように人々を分けるのは間違いであると言えるのです。
 イスカリオテのユダは金と引き換えにユダヤ人たちの指導者たちに自分の師匠であるイエスを引き渡そうとしました。このマルコによる福音書は少し前でそのことを紹介しています(14章10〜11節)。ヨハネの福音書ではこのイスカリオテのユダが金の亡者のような人間で、会計係として自分が預かっていた金入れから中身を抜き取って胡麻化していたと説明しています(12章6節)。ところがマタイによる福音書ではこのユダがイエスに有罪判決が下されたことを聞くと、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と後悔している場面を紹介しています。ユダはユダヤ人の指導者たちから受け取った銀貨を返しに行ったと言う記事がそこには記されています。そしてここで取り返しのつかない罪を自分が犯したことを知ったユダは自分の命を自分で断って、自殺してしまいます(27章3〜10節)。これらの物語を読むと、ユダがなぜイエスを裏切ったのかいろいろと疑問な点が浮かんで来るのです。ユダが本当に金の亡者であったとしたら、彼が金を返しに行くのはおかしいような気がします。何よりもイエスが死刑判決を受けたことで彼が大きなショックを受けたと言う報告は合点がいきません。
 もしかしたら、ユダはイエスがユダヤ人に逮捕されても、彼が持っていた不思議な力を使ってすぐに自分自身を悪い者たちの手から救い出すことができると考えていたのかもしれません。そして、その出来事を通してますます、イエスに対する人々の関心が集まるはずだと考えていたのかもしれません。いずれにしても、ユダは自分が思っていた通りのこととは違ったことが起こって、絶望して自分の命を絶ってしまうことになります。

②イエスの弟子たち

 そう考えて見るとイエスを逮捕しようとした人々から剣まで使ってイエスを守ろうとした弟子たちも、イスカリオテのユダとそんなに違いがないこと分かります。なぜなら、彼らが必死になってイエスを守ろうとしたのは、イエスを通してこの地上に神の国が建てられるという彼らの持っていた願望が水の泡にならないためでした。彼らはイエスがユダヤの国を支配する異邦人たちを追い出し、ダビデのような王となって即位し、国を支配してくれることを夢見ていました。そのときには自分たちもイエスの家臣としてそれなりに重要な地位に就くことができるという野心さえ持っていたのです。このように彼らは自分たちの願望が実現するためにイエスを守りぬこうとしたに過ぎなのです。しかし、結局イエスは彼らの見ている前で逮捕されてしまいます。そして弟子たちもまた、大きな挫折を味わい、イエスの前から逃げ去る他なかったのです。

③イエスを逮捕しようとした人々

 それではイエスを逮捕することに成功したユダヤ人の指導者たちはどうでしょうか。彼らはイエスの弟子であったイスカリオテのユダを抱き込み、自分たちの手下たちに武器を持たせてイエスの逮捕させることに成功します。彼らの計画通りに、イエスは逮捕されることであたかも、ここではユダヤ人の指導者たちが勝利者となり、イエスは敗北者になってしまったと考えがちです。しかし、ユダヤ人の指導者たちが考えていたことも、イスカリオテのユダや他のイエスの弟子たちとあまり変わりがないように思えます。なぜならば彼らもまた自分たちの願望を実現するために、イエスを逮捕しようとしたからです。イエスがいたら、自分たちの持つ願望が危うくなると彼らは考えたのです。この点で、この物語に登場する、イスカリオテのユダもイエスの弟子たちも、そしてユダヤ人の指導者たちも一つの共通点を持っていることが分かります。彼らは皆、自分の願望を実現するためにイエスを利用しようと考えていたのです。そしてイスカリオテのユダもイエスの弟子たちも、自分たちの願い通りのことが実現できなかったことで挫折してしまいます。それではユダヤ人の指導者たちはどうでしょうか。彼らはこのときは自分たちの計画した通りのことが実現したと考えています。しかし、この後の物語を読んでみると彼らも決して勝利者ではなかったと言うことが分かるのです。

3.イエスの態度
①御心に適うことが実現されるように

 この物語の中でイエスだけは他の登場人物と違った行動原理を持っていたことが分かります。イエス以外の人々は皆、自分の願望が実現するためにイエスを利用しようとして挫折して敗北してしまいます。しかし、イエスは自分の願望を実現させるために行動したのでは決してありません。そのことは私たちが先日学んだ、ゲツセマネでのイエスの祈りの中にも表されています。イエスはそこで次のように祈りました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14章36節)

イエスは自分の願いや自分が考えた計画が実現することではなく、父なる神の御心に適ったことがここで実現することを願い求めて行動したのです。この点において、イエスはこの物語のほかの登場人物たちと全く違った生き方をしていることが分かります。「御心に適うこと」と言われても、その御心が分からない…?そのような疑問を抱く人がいます。そういう人は、神の御心とは特別な方法で、特別な人物だけに教えられるものだと誤解しているところがあります。だから「自分には御心を知りえる能力が与えられていない」と悩むのです。しかし、イエスは今日の部分でこの御心について次のように語っています。

「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」(49節)

神は私たちにもよく分かるように聖書の言葉を通して御心を示してくださっています。だから私たちは聖書を読めば、神の御心を知ることができます。また、その御心に適うことを願い求めて生きることができるのです。

②イエスは被害者ではない

イエスはこの場面で、ご自身の持っている不思議な力を発揮されることは一切ありませんでした。自分を捕まえにやって来た人々にほぼ無抵抗のまま捕らえられています。イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちの計画した通りのことが実現し、イエスの弟子たちはイエスをその場において逃げ去ってしまいます。それではイエスはユダヤ人の指導者たちの陰謀にかかった被害者でしかなかったのでしょうか。そうではありません。イエスは神の御心が実現するために自ら行動されたのです。その点で、彼は被害者では決してありません。すべての出来事の主導権は神が持っておられます。そしてイエスはその神に従っただけなのです。

 ルカによる福音書は信仰者たちの人生に起こる迫害や苦難を語るイエスの次のような言葉を収録しています。

「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」(21章16〜17節)。

「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言う言葉はハイデルベルク信仰問答の第一問の答えにも用いられている有名な言葉です。これは私たちの人生には神の御心でないことは一切起こらないということを説明している言葉になっています。
多くの人は「自分の人生がこうなってしまったのは、誰それのせいだ」と考えます。「自分が不幸なのは自分を罠に陥れた人がいて、その人のせいでこうなってしまった」と言うのです。そう考える人は自分を被害者だと考えています。しかし、そのように自分の人生を考える人はどのようにしたら、その不幸な人生から抜け出せることができるのでしょうか。どのようにしたら被害者の立場から抜け出すことできるのでしょうか。その答えはここでのイエスの生き方に示されています。聖書を通して神の御心を知ること、そしてその御心に適うことが自分の人生に起こることを願って生きること、それが私たちの人生を確かなものにするための秘訣なのです。自分の思いだけが実現されることを願う者は、結局敗北して、挫折を味わうしかありません。しかし、神の御心に生きようとする者は、いかなる境遇の中でも希望を失うことがありません。被害者として自分の人生を呪うのではなく、私たちの人生を通して神の御心を実現してくださるイエスの御業を信頼しながら生きることができるのです。

4.裸の自分からイエスに向き合う

 このとき逮捕されたイエスの後を追った一人の若者がいました。ところが彼も自分がユダヤ人たちに捕らえられてしまうことを恐れて、着ていた亜麻布を捨てて素っ裸で逃げ出すしかありませんでした(51〜52節)。
 先ほども語りましたようにもし、この人物が教会に伝承の通り、この福音書の著者であるマルコ自身であったとしたら、どうして彼は自分の醜態とも言えるこんな姿をわざわざここに記したのでしょうか。使徒言行録はこのマルコと言う人物に関して重要な出来事を記しています(15章36〜41節)。このときすでに立派な大人になっていたマルコはパウロやバルナバと言う有名な宣教師たちと共に伝道旅行に参加していました。ところが、マルコはこの伝道旅行の途中で、勝手に逃げ出してしまったと言うのです。そしてこのマルコの扱いをどうするかでパウロとバルナバの間で意見の相違が生まれ、彼らがお互いに袂を分かつと言う原因を作りました。
 マルコはこのときも、途中で逃げ出してしまうと言う醜態をさらしています。しかし、マルコはそれでもイエスから離れようとはしませんでした。教会の伝承によれば、この後マルコは、ペトロの協力者として働き、このペトロから主イエスに関する証言を聞いて、この福音書を記したと考えられているのです。
 そんなマルコが裸で逃げ出す姿をこの福音書にわざわざ記したのは、その自分の本当の姿を忘れてはいけないと思ったからではないでしょうか。その上でマルコはそんな自分でさえも、イエスは決して捨てることなく、自分を御心に従う者としてくださったことを記録にとどめようとしたのです。
 マルコはその人生の歩みの中で何度も失敗を犯すことで、裸の自分の本当の姿を知りました。しかし、そんな自分をイエスは決して捨てることなく導いてくださったことも知ったのです。自分がどんな存在であっても、大切なことはこのイエスに従うことです。そうすれば、イエスは必ず私たちを導いて、私たちの人生にも勝利を与えてくださるのです。


祈祷

天の父なる神さま
 どのようなときも父なる神の御心に適う生き方を願い、ユダヤ人たちの手にご自身を渡されたイエスの姿を通して、私たちにも御心に適う生き方が大切であることを教えてくださりありがとうございます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)。聖書にはっきりと示された神の御心に私たちも従って生きることができるようにしてください。そしてどのような時も希望を捨てることがなく、信仰を持って生きることができるように私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.今日の聖書箇所ではイエスを逮捕するためにどのような人がやって来ましたか。彼らはどのようなものを持って来ていましたか(43節)
2.イスカリオテのユダはイエスを逮捕することができるように、あらかじめどのような合図をすることを決めていましたか(44〜45節)
3.このときイエスと共にひた人々とイエスを逮捕しにやって来た人々の間でどのような事件が起こりましたか(47節)。
4.どうしてイエスを捕らえにやって来た人々は剣や棒を持って来たのだと思いますか。
5.イエスはこれらの出来事が起こったのは、何が実現するためにだと言っていますか(49節)。