1.信じていても変わらない
①教会の誕生日、聖霊降臨日
今日は教会の暦では「聖霊降臨日」と言う名前が付けられた日の礼拝です。この聖霊降臨日は「ペンテコステ」と言う名称でも祝われるキリスト教の大切な祭りの一つです。今から2000年前にエルサレムの町に集まっていたイエスの弟子たちの上に「聖霊」と呼ばれる神の霊が下りました。その出来事は新約聖書の信徒言行録の2章に詳しく紹介されています。興味のある方は是非、ご自分で聖書を読んで確かめていただきたいと思います。この聖霊降臨日はキリスト教会の誕生日とも呼ばれています。なぜなら、イエスの弟子たちはこのときから聖霊に導かれて全世界に出て行き、福音を大胆に伝道するようになったからです。そして彼らの伝道の結果、様々なところにキリスト教会が立てられることになりました。
私たちのキリスト教会は「キリストの体」と呼ばれることがあります。その理由は、天に昇られたイエスが教会を使ってこの世で今もなお昔と同じ働きを続けておられるからです。イエスは今も天で生きて働いておられます。そのイエスの働きが今や、「キリストの体」であるキリスト教会を通して地上に実現されているのです。そのためにイエスのおられる天から地上に送られた聖霊が教会をイエスの体として活動できるようにされるのです。ですから聖霊こそがキリストの教会の命そのものだとも言うことができるのです。だから聖霊降臨日はキリスト教会に命が与えられ、キリストの体として生きることができるようにされたことを記念する日とも呼べるのです。
②どれがよく効く神さまか
今日は月に一度行われている伝道礼拝を献げます。この伝道礼拝ではイエスに出会った人々についてのお話を学び続けています。今日の聖書の朗読箇所にはマルタとマリアと言う二人の姉妹が登場します。実はこの二人の姉妹の家にはラザロと言うもう一人の男兄弟がいました。今日の聖書の箇所ではこの人物の名前が出てきていませんが、実はこのお話ではラザロの存在がとても重要な働きを担っています。その理由はラザロが何か特別に立派なことをしたからではありません。彼は病気になり、家族の看病の甲斐もなく死んでしまっています。しかし、このラザロの死がイエスの素晴らしさを示す機会として用いられるのです。
現代の日本では医療制度が発達していていますから、病気になればお医者さんに行って治してもらうのが当たり前になっています。しかし、日本でも昔は病気になると近くの神社やお寺に行って病人の病が治るようにと祈るのが当たり前でした。今でも、その名残が残されていて、「どこそこの神さまは腰痛によく効く」とか「目の病を治していただくには、あそこのお寺がいい」と言うようなことを語る人がいます。日本は今、急激な高齢化社会を迎えています。そのためでしょうか人々は「病に苦しむことなく、ぽっくり死ぬことができるように…」と言う願いを持つようになりました。「ぽっくり何々」とかいう神社仏閣が流行っているのはそのためです。
ただ、このようなところに行って祈っても、必ずしもその願いがかなうと言う保証はどこにもありません。人間とは勝手なものですから、その自分の願いが聞かれないと分かるのと早々とその神さまに見切りをつけて「もっと効き目のある違う神さまを拝んでみよう」と考え出します。人間の側が神さまの良し悪しを判断する、そんな不思議な信仰の姿がこの日本には存在しているのです。しかし、そもそも人間に神さまの良し悪しを判断するだけの力があるのでしょうか。本当に信仰の目的は私たちの願いごとを実現させるためだけにあるのでしょうか。
2.信じることでイエスもとに導かれる私たち
①ラザロの死
もし、信仰についてそのような理解をしている人が今日のお話を読むなら、すぐに「イエスはあまり頼りにならない」と結論付けてしまうかもしれません。なぜなら、イエスはラザロが深刻な病気にかかったことを伝えられながらも、すぐにそのラザロを助けに行こうとはしなかったからです。そしてラザロはイエスが助けに行く前に手遅れになって死んでしまったのです。マルタやマリヤが「ラザロを助けに来てほしい」と願ったのに、イエスはすぐに行動を起こすことがありませんでした。そしてその結果、病人のラザロは死んでしまったのです。そんなことがもし、私たちの周りで起こったとしたら大騒ぎになるかもしれません。連絡したのに医者や医療関係者が来てくれなかった。そのために取り返しのつかないことになってしまった…。こうなると裁判沙汰になる可能性が生まれます。
しかし、イエスは不思議なことに病気のラザロを助けに行こうとはされなかったのです。イエスは病人ラザロに対して無関心だったのでしょうか。そうではありません。聖書ではこの病人であるラザロは「あなた(イエス)の愛しておられる者」(4節)と呼ばれています。イエスとこのラザロ、そしてその姉妹であるマルタとマリアの家族の間には特別な関係がありました。イエスが十字架にかけられる前にエルサレムに入城された後、宿泊先に選ばれたのはベタニアと言う村にあるラザロたちの家であったと言われているのです。今日の物語を記したヨハネもこの一家について「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった」とこの一家とイエスが特別な関係にあったことを紹介しています。誰もが「ラザロが病気だ」とイエスが聞いたら、イエスは真っ先に駆けつけて、ラザロを病から救ってくれるはずだと考えていました。ラザロとイエスの関係はそれほどまでに深いものだったからです。なぜ、イエスはラザロのところにすぐに向かわなかったのでしょうか。なぜラザロの死を許されたのでしょうか。この物語を読む私たちはそのような疑問を抱くことになるはずです。
②私たちをイエスに導く信仰
先ほども触れましたように私たち日本人の多くは「信仰」と言うと、自分の願望を神や仏の力を借りて実現させることだと考えているところがあります。だから、自分の願ったことをかなえてくれない神仏は悪く、聞いてくれる神仏はよいと考えるのです。しかし、聖書の教える信仰はそうではありません。聖書の教える信仰は、真の神ご自身が私たちに与えてくださる賜物です。神はこの賜物である信仰を私たちに与えることで、私たち自身の人生を変えてくださるのです。
マルタとマリヤはイエスがラザロを愛してくださっていることを信じていました。だから、ラザロが病気で苦しんでいると聞いたら、すぐにイエスは助けに来てくださると信じていたのです。しかし、彼女たちのこの願いはかなうことがありませんでした。それでは彼女たちはその信仰を捨ててしまったのでしょうか。そうではありませんでした。彼女たちはそれでもイエスを信じ続けています。そのことが今日の聖書の箇所で語られるマルタの言葉から分かります。ラザロが死んでしまった後、イエスがベタニヤ村の近くにやって来られたことを知ったマルタはイエスを迎えに行きます。そこで彼女はイエスに出会い、イエスに対する自分の信仰を語っています。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(21〜22節)。
彼女は「イエスがもっと早く来てくださっていたら兄弟は死ななかったはず」と自分の正直な気持ちをまず語っています。しかし、それでも彼女は「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」とイエスに対する信仰を告白しているのです。神が与えてくださった信仰がなお彼女の中に生き続けて、彼女にイエスへの希望を与え続けたのです。
3.命であるイエス
①復活であり、命であるイエス
するとイエスはこの信仰を表明したマリアに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25〜26節)と言う言葉を語ってくださいました。
私たちは復活と言う言葉を聞くと、この世の終わりにイエスを信じる者たちが復活することができるということをまず考えます。しかし、イエスはここでマルタが「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)と語った言葉を打ち返す形で、この言葉を語っているのです。つまりイエスがここで語っている復活や命は、遠い未来のことではなく、今の私たちの人生に与えられるものだと言っているのです。
この言葉で大切なことはイエスが命のそのものだと教えているとこです。つまり、イエスを離れては私たちに命はないとこの言葉は語っているのです。イエスはここで生物学的な命について語っているのではありません。私たちが神に造られた人間として、本当にその人生を生きるためには、人間はイエスを信じて、イエスの命をいただく必要があることを教えているのです。そして神が私たちに与えてくださった信仰は、この命であるキリストに私たちを導くためにあるものなのです。
②本当に生きるとはどういうことか
先日テレビで安楽死のテーマを取り扱う番組が放送されていました。この番組で紹介された一人の女性は体のすべての機能が衰えて行って、やがては動くこともできなくなくなると言う難病に犯されていました。彼女は自分が寝たきりのままで人工呼吸器の助けを受けながら生きなければならないという将来を考えて絶望します。そして安楽死の道を選ぼうとするのです。しかし、日本では自分で自分の命を終わらせると言うような安楽死は法律で認められていません。ですから、この女性はわざわざスイスまで行って、自分の思いを遂げようとします。彼女は自分の口で自分の意思を表現でき、またスイスまでの旅行も可能な能力が残っている今しかそのチャンスはないと考え、安楽死の計画を実行します。番組は彼女が自分の足で車に乗り、病院に行き、病室のベットに自分の力で横たわって、そこで自分の命を絶つための薬物注射のスイッチを押すところまで撮り続けます。そして彼女は自分の口で周りの人々に感謝の言葉を語りながら息を引き取って行きました。見ていてとても心が重くなるそんな番組でした。安楽死を選んだ彼女の行為は、彼女のような立場に立ってみないと分からないのかもしれません。
この番組では最後に、安楽死を選んだ彼女と同じ病で苦しむもう一人の女性の取材も取り上げていました。もうすでにこの女性の病状が進み、人工呼吸器の助けを受けて生きなければならなくなっていました。もう自分の口で言葉を語ることのできないこの女性は瞼を閉じたり開いたりすることで自分の意思を他人に伝えます。取材スタッフがこの女性に「あなたの生きがいは何ですか?」と尋ねると、彼女は瞼で合図を繰り返しながら「家族の存在」と答えました。そして彼女は続けて「家族との何気ない時間が自分にとっての一番の喜びだ」と同じように瞼の合図で伝えたのです。
医学的に見れば、人間は体が生命活動を続けている限り「生きている」と言うことができるのかもしれません。しかし、人間が本当に生きるというのは単に体の生命活動が続いていると言うことと言う定義では割り切れないことをこの二人の女性の生き方は教えているのかもしれません。
聖書は私たちが本当に生きるためにはイエス・キリストを信じる必要があると教えます。この方を信じるならば、私たちは本当に生きることができると私たちの教えているのです。神に造られた私たち人間の命はこのイエスによって支えられなければならないのです。
この物語に登場するラザロは私たち人間の姿を代表的に表す存在と考えることができます。ラザロを生き返らせたイエスだけが私たちを生かすことのでき命を持っておられるのです。私たちの信仰はこのイエスに私たちを導き、私たちが本当の命を生きるために与えられることをこの物語は教えているのです。
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