2019.7.14 説教「裏切るペトロ」   


聖書箇所

ルカによる福音書22章54〜62節
54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。


説教

1.殉教者の死を語らない聖書

 今から400年以上も前、日本における急速なキリスト教勢力の拡大を恐れた時の権力者豊臣秀吉は京都において活動していたキリシタン24名を石田光成に命じて逮捕させ、彼らを処刑するように指示しました。彼らは捕らえられた京都の町から刑場となる長崎まで、縄に繋がれながら長い道のりを旅することになりました。これは彼らを目撃した市中の人々に「キリスト教徒になったら同じ目に会う」と言う印象を植え付けるためでした。ところが、この旅の途中で、「自分も同じ信仰を持っている者」だと言う人が次々現れ、この行列に加わりました。その結果、長崎に着いて処刑されることになった囚人の人数は不思議なことに26名に増えていたのです。この26名の中にまだ12歳という幼い少年が一人加わっていました。警護の役人がこの少年を哀れに思い、「信仰を捨てれば、命を助けるぞ」と説得しました。ところがこの少年は「つかの間のこの世の命と引き換えに永遠の命を棄てることはできません」とその説得を固く断り、信仰を守って処刑されて行ったと言うのです。カトリック教会は今でもこの26名の殉教者たちを「聖人」として崇め、日本の各地はもとより、イタリアや南米にも彼らの名前が付けられた記念教会堂が建てられています。
 長崎の26聖人のようにキリスト教会の歴史の中には信仰を守るために命を捨てた殉教者たちがたくさん存在し、彼らの勇敢な信仰の証を伝える伝承も数多く残されています。ところが、新約聖書の中には初代教会の最初の殉教者である執事ステファノの事件を記録に残すだけで、他の殉教者の物語はほとんど収録さえていません。伝道者パウロも、そして今日の物語に登場するペトロも教会の伝承ではローマの地で信仰を守って殉教したと伝えられています。しかし、彼らの殉教の記録は新約聖書の中には残されていません。教会の歴史にとっては大切な出来事であるはずなのに聖書は彼らの記録を残していないのです。その理由はどこにあるのでしょうか。考えられることは、新約聖書はイエス・キリストを紹介するために書かれた書物だと言う理由です。確かに聖書の中にはイエス以外にたくさんの人物が登場します。しかし、彼らが聖書に登場するのはあくまでも、イエス・キリストと言うお方を読者たちに紹介するためです。聖書はそこに登場する様々な人物たちの生涯を通して、彼らの人生に深く関わってくださったイエス・キリストと言うお方を私たちに証ししようとしているのです
 今日の聖書の物語にはイエスの弟子であったペトロが「自分はイエスを知らない。自分は一切、イエスとは関りがない」と言って、イエスを裏切った物語が記されています。これはペトロにとっては最も不名誉な失敗の物語です。聖書は勇敢に死んでいったペトロの姿を記録する代わりに、恐怖に震えながらイエスを裏切る彼の姿を記録しています。どうしてなのでしょうか。それはこの裏切るペトロとの関りを通して明らかにされるイエスの姿を私たちに紹介しようとしているからです。ですから、この物語は私たちがイエス・キリストを知るためにも大切な出来事を記録していると言えるのです。

2.イエスの弟子となる
①弟子となる、教会員となること

 このペトロと言う人物についてはこの礼拝でも今まで何度か取り上げて来ました。福音書に記されたイエスの弟子の中で最も登場回数の多いのがこのペトロであると言えるかもしれません。ペトロは聖書や宗教に関しては素人と言ってよい人物で、元々はガリラヤ湖と言う湖で漁師として働いていました。ペトロはそのガリラヤ湖でイエスと出会い、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言う言葉をかけられて、イエスの弟子となりました。そしてこの時からペトロは漁師の生活を捨て、イエスの弟子として生きることになったのです(ルカ5章1〜11節)。
 私たちもこのペトロの場合の事情とは様々な点で違っていても、イエスを救い主と信じて、教会で信仰を告白し、洗礼を受けた時からイエスの弟子としての生涯が始まったと言う点では同じです。私たちの救い主イエスは今でも、私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)と語り、私たちを信仰に招いてくださっているのです。だからこのイエスを信じて生きようと決心する者は、ペトロと同じようにイエスの弟子となったと考えることができるのです。
 イエスの弟子はいつもイエスの後に従って生きなければなりません。私たちが洗礼を受けて加わることとなる教会は「イエスの体」と呼ばれています。それは天におられるイエスがこの教会に聖霊を送り、今でもこの教会を通して地上での働きを続けてくださっているからです。ですから、私たちが教会で信仰生活を送ると言うことは、私たちがイエスの弟子となって、その方に従って生きる生活を送ると言うことになるのです。「わたしはイエスの弟子だ」と自分で思っていても、自分一人で勝手な生活を送っているのなら、その人は真のイエスの弟子となったとは言えないのです。
 私たちは毎週日曜日の礼拝に集まって聖書の言葉に耳を傾けることで、このイエスとの出会いを繰り返し体験することができます。またその方との関係をさらに深めて行くことができるのです。ですからイエスの弟子として生きようとする者の生活の中心はこの礼拝となって来るのです。私たちの人生がどんなに困難に満ちていたとしても、私たちの前を歩いてくださるイエスの後について行くなら私たちが道に迷うことはありません。しかしもし、私たちが日曜日の礼拝を中心とした教会生活を蔑ろにするなら、私たちは同時に私たちの前を歩いてくださるイエスの姿も見失うことになってしまうのです。

②イエスをまず優先して考える

 私たちがイエスの弟子となると言うことは私たちの人生にとって最も大切な出来事だと言えます。だからこそ、イエスは軽率な一時的な思い付きではなく、イエスの弟子として生きるために必要な大切な決心を教え、自分に従うようにと私たちに教えています。例えば聖書の中には、イエスの語られたこのような言葉が残されています。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14章26〜27節)。

 私たちの生活ではいつでも自分自身や、自分自身の延長と考えられる自分の家族を優先して物事を考えます。しかし、聖書はこの順序が間違っていると教えるのです。私たちが自分の人生の中心に神を迎えること、イエス・キリストを最優先に考えることで、私たちの人生には本当の平和が与えられるのです。そして私たちがまず、イエスに従い福音を受け入れることで、私たちの家族に福音が伝えられる機会が生まれます。彼らがイエスを救い主として受け入れれば、私たちの家族の中にも神との平和が与えられるのです。もし私たちがこの順序を間違ってしまうと、私たちがどんなに自分自身のために、また家族のために時間と労力を使ったとしても、そこには本当の平和は生まれてこないのです。

3.イエスを裏切るペトロ
①すべてを捨てて従ったペトロ

 聖書を読むとペトロはこのイエスの招きに応えて弟子となったとき、さまざまな犠牲を払たことが分かります。彼は一生の生業としてきた漁師の仕事を舟や網と共にガリラヤ湖において来ました。聖書にはこのペトロに妻があり、その母親もいたことを記録しています。おそらく、彼の家はガリラヤ湖のほとりのカファルナウムの町にあったと考えられています。ペトロはイエスの弟子となったとき、この家族と家を故郷に残してきたのです。
 このペトロの弟子としての決心についてペトロ自らがイエスにこう告げているところあります。

 「するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」」(ルカ18章28節)。

 このときイエスは金持ちの国会議員に対して「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」(ルカ18章22節)と命じた上で「わたしに従いなさい」と語られました。ところがこの国会議員は財産をすべて手放すことはできないと考えてしまい、イエスの弟子となることを諦めてしまったのです。その国会議員の後姿を見送ったところでペトロは胸をはって先ほどの言葉をイエスに語ったのです。「あの国会議員にできなかったことを、私はしています」と彼は自慢げに語ったのです。この言葉に表されているように、この時のペトロには自分がイエスの弟子として最もふさわしい人物だと言う自信があったのだと思います。ところが今日の物語ではペトロはその自信を木っ端微塵に粉砕されるような出来事が起こっているのです。

②自分の思いとは裏腹に、イエスを裏切る

 このとき、ユダヤ人の指導者たちによって逮捕されたイエスは大祭司の家まで連行されて来ます。ペトロはイエスが逮捕されたゲッセマネの園から逃げ出した後にこのとき再び、逮捕されたイエスの後を追って大祭司の家までやって来ていました。ペトロはイエスがこれからどうなるのか気になっていたのでしょうか。だからこっそりと人ごみに紛れて、イエスの様子をうかがおうとここまでやって来たのです。しかし、このペトロの計画はうまく進みませんでした。その次の瞬間に彼がイエスの弟子であるということを知っている人が現れて、「あなたもイエスの弟子でしょう」と語りかけてきたからです。そこでペトロは「自分はイエスなど知らない」と白を切り続けることになります。ペトロは大祭司の庭で出会った三人の人物に同じように問われるたびに、自分はイエスと全く関係がないと語ってしまったのです。
 この出来事は当事者のペトロにとって全く予想もつかない出来事と思われたかもしれません。しかし実はそうではありませんでした。すでにイエスはあらかじめこの出来事が起こることをペトロに預言して、知らせていたのです。ところがこの時のペトロはこのイエスの言葉を即座に否定して、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章31〜34節)と言い張って見せたのです。しかし、出来事はペトロの思いに反して、イエスの語られた言葉通りに進んで行ったのです。

4.イエスの召しの意味
①弱さを隠し、克服しようと努力する

 ペトロは自分がイエスを置き去りにして逃げ出すような弱虫だとは決して考えたくなかったのでしょう。そんなことをしたら自分はイエスの弟子としての資格も失ってしまうと考えたのです。ところが実際にイエスが逮捕される出来事を経験することを通して、ペトロは自分の本当の姿を知ることになります。ここで明らかにされたのはペトロが自分でも受け入れることのできない自分の弱さを持っていたことです。もしかしたら、彼はその弱さをいままで必死に隠して生きて来たのかもしれません。なぜなら、そんな弱さを持っていたら自分はイエスの弟子として失格だと考えていたからです。
 皆さんもペトロと同じように、自分で受け入れることのできない弱さを持っておられるでしょうか。それを認めることが怖くて、必死に隠し続けている部分がありますか。いえ、隠すなどと言う消極的な方法ではなく、むしろその弱さを克服するために必死になって頑張っていると言う人もいるはずです。このように私たちの多くは自分自身をありのままで受け入ることができません。だから弱い自分を責め続けています。しかし、私たちの内なる世界で起こっているこの争いが続く限り、私たちの心には平安がやって来ることはありません。むしろ私たちの信仰生活は自分の問題を解決することだけで疲弊して行き、イエスの弟子として生きることが困難になって来るのです。

②人を選ばないイエス

 イエスはペトロの失敗を預言したとき同時にペトロに次のように語られました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章32節)。

 イエスはペトロの弱さを彼以上によく知っています。その上でイエスは弱さを持ったペトロを自分の弟子として召してくださっていたのです。イエスは「あなたはここを直せば、弟子になれる」とは言われませんでした。ペトロの存在自身を丸ごと受け入れて、ご自分の弟子として生きるように招かれたのです。
 私たちが自分自身を受け入れることができなくても、イエスはその私たちを受け入れてくださり、弟子としてくださったのです。私たちは自分が箸にも棒にも掛からない、何の役にも立たない存在だと考えているかもしれません。しかし、イエスはそんな私たちを弟子にしてくださるのです。どうしてイエスはそんなことをされるのでしょうか。人から見れば無謀と言えるような招きを私たちにされたのでしょうか。それはイエスには不可能は何もないからです。イエスが用いることのできない人間はこの世に一人もいないのです。日本には「弘法筆を選ばず」と言うことわざがあります。書の天才であった弘法大師はどんなに粗末な筆からでも見事な字を書くことができると言う意味です。
 私たちのイエスはこのような意味で「人を選ばない」のです。どんな人間でも神の栄光を実現させるために用いることができるお方だからです。このように考えるなら、イエスの招きに対して「私はその資格がありません」などと言える人は一人も存在しないのです。なぜならイエスは私たちが弟子として生涯を送ることができるように導いてくださるからです。このように聖書は失敗し、裏切るペトロの姿を通しもイエスの力のすばらしさを私たちに示してくれているのです。


祈祷

天の父なる神さま
 私たちを弟子として招いてくださったことに感謝します。私たちの祝福はすべてあなたの元にあります。どうか私たちがそのあなたを人生の優先順位の最初に置くことができるようにしてください。私たちは信仰生活の中で様々な試みに会うことで、その試みに手も足も出ない自分の弱さを示されることがあります。どうかそのときに、私たちにもう一度、あなたの聖なる招きを主出させてください。そしてあなたが私たちを弟子の一人として用いてくださることを思い起こさせてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.この時、イエスが捕らえられ、引いて行かれた大祭司の家の庭でペトロは何をしていましたか(54〜55節)。
2.そこで誰がペトロに向けて語りかけましたか。その人はペトロに何と言いましたか(56節)。
3.ペトロはこの人の言葉にどのように反応しましたか(57節)。ペトロは他の人々の問いかけにも何と答えていますか(58〜60節)。
4.突然鶏が鳴いたとき、ペトロは以前イエスが語られたどんな言葉を思い出しましか(61節、参照:ルカ22章31〜34節)。
5.イエスを裏切るという大きな失敗を犯したペトロがこの後も、イエスの弟子として生きることができたのはどうしてだとあなたは思いますか(32節、参照:ヨハネ21章15〜19節)。