2019.7.21 説教「総督ピラトとイエス」


聖書箇所

マルコによる福音書15章1〜15節
1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


説教

1. ユダヤ総督ピラトの裁判

 今日も皆さんと共にマルコによる福音書の伝える物語から学びたいと思います。今日の箇所ではイエスがローマ帝国の役人であり、ユダヤの総督であったピラトの裁きを受けるという場面が記されています。何度もお話していますように、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。ユダヤには最高法院と言う国会のような最高機関が置かれていましたが、実際の政治的権限はローマ帝国から派遣されたユダヤ総督の元にありました。クリスマスを告げる物語の中には「ヘロデ王」と言う人物が登場しています(マタイ2章1節)。しかしこの王も実際にはローマ皇帝から「王」と名乗ることを許されたという意味だけで、ローマがコントロールする傀儡政権の王でしかありませんでした。
 ピラトと言う人物はローマ皇帝から任命されてユダヤの総督となりました。ローマ帝国はユダヤの地を治めるためにたくさんの兵士を派遣して、駐屯させていました。聖書の物語に登場するピラトは他人の顔色を伺う優柔不断な指導者のように見えますが、実際にはローマの力を使って、ユダヤ人に対しての支配を行ってたようです。
 あるとき、ピラトが町を修復させるための資金としてユダヤ人たちに神殿の献金を差し出させるように命じることがありました。ところがこの政策に異を唱えるユダヤ人たちが集まりピラトに対する抗議集会を開きます。その時ピラトはローマ兵たちにユダヤ人たちの服を着せ、彼らに短剣を携帯させて、抗議集会に集まった群衆の中に紛れ込ませました。そして、ピラトの支配に異を唱える人物を容赦なく殺害した言う記録が残されています。聖書には「ピラトがガリラヤ人の地を彼らのいけにえに混ぜた」と言うことが語れた箇所があります(ルカ13章1節)。この言葉からも支配者であったピラトが残忍な人物であったことが分かります。
 今日のお話では祭司長や長老、律法学者たちがイエスをこのピラトに引き渡したところから始まっています。彼らユダヤ人の宗教的指導者はイエスを逮捕し、裁判にかけ、イエスが神を冒涜する罪を犯したと言う理由で死刑にすることを決議しました(14章46節)。ところが先ほど申しましたように、彼らは自分たちで決めたことを簡単に実行することができない理由がありました。それがローマ帝国の力であり、ピラトと言い総督の存在です。当時、人を裁判にかけ、死刑判決を下して処刑する権限はこのピラトが持っていたからです。だから、彼らはどうしてもイエスを処刑するために、このピラトの力を借りなければならなかったのです。また、そうなれば実際にイエスを殺したのはこのピラトだと言うことになりますから、ユダヤ人の指導者たちはその責任を負うことからも逃れることができると言う利点もありました。そのような事情が相まって、ピラトによるイエスの裁判が始まります。

2.神の子の使命

 ところがイエスがピラトの裁判を受けて死刑させられるためには、一つの問題がありました。なぜなら、ユダヤ人たちは「イエスが神を冒涜する罪を犯した」と言う理由で死刑判決を下しました。しかし、当時のローマの法律には「神を冒涜する罪」と言った罪はないのです。これは現在の日本でも同じだと思います。いくら得体のしれない人が現れて「自分は神だ」と言ってもそれだけでは犯罪者として逮捕されることはありません。問題はその主張を通して人心を惑わし、社会的な混乱を起こしたのかどうかと言うところにあります。しかし、イエスは実際には「自分は神だ」と人々に主張したこともありませんでしたし、ましてや人心を惑わして混乱を起こさせると言うこともしていないのです。
 そこでユダヤ人たちは必死になってイエスが「自分がユダヤ人の王」だと主張したとピラトに向かって訴えました。そうすれば、イエスがローマ皇帝の支配を覆して、自分がユダヤの王となろうとしていると言う国家反逆罪の罪を犯した大罪人となるからです。そして、もしイエスが国家反逆罪の罪を犯したとすれば、彼はその罪を背負って十字架刑と言う厳しい罰を受けなければならないのです。
 ピラトの法廷でもイエスの態度はユダヤ人の最高法院での態度とほとんど変わりがありませんでした。イエスは自分に対する不当な訴えに対して何も口を開かなかったからです。福音書記者はイザヤ書53章の苦難の僕の姿を、このイエスの姿と重ね合わせることで、イエスが約束された救い主でることを私たちに示そうとしているのです。ところがイエスが何も語らなくても、ピラトはイエスが無実であること確信していたようです。10節には「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」とピラトの考えが説明されているからです。ピラトはユダヤ人の間で起こった内部抗争の問題には自分は関りたくないと思ったはずです。しかし、そうるすことができなかったのは過越の祭りに集まって来ていた群衆たちの存在があったからです。この過越の祭りはユダヤ人たちが最も大切にする祭りであり、ユダヤ人の愛国心が最も高揚する祭典でした。そして普段とは違いエルサレムの町に全国からたくさんの祭りへの参加者が集まっていました。もし、彼らがエルサレムの町で騒ぎを起こせば、ピラトにも大変な被害が及ぶはずです。ですから、ピラトはこの群衆を巧みにコントロールする方法を考えようとしました。それが群衆の希望する囚人を一人釈放させようという彼の提案です。おそらく、ピラトはイエスがエルサレムにたくさんの人々の歓迎の中で入城して来たことを知っていたはずです。だから、彼は人々の人気の的であるイエスを釈放すれば、群衆の機嫌を取ることができると思ったのでしょう。ところがここで群衆は意外な願いを叫び始めます。「釈放するのはバラバと言う男の方で、イエスではない」と叫び始めたからです。そして群衆はさらにイエスを「十字架につけろ」とまで言い出したのです(6〜15節)。ピラトはこの群衆の勢いに押されて、イエスを十字架に付けると言う判断を下します。そしてこのことによってピラトの名前はイエスを十字架に付けて殺した人物として歴史に残されることになったのです。

3.イエスによって示された神の御心
①神の子イエス

 福音書はこのように逮捕され、裁判にかけられ、十字架刑に処せられるイエスの姿を淡々と描きだしていきます。しかし、福音書はこのような記述を通して、無実のイエスが彼を陥れようとする人々の手によって罠にはまり、十字架で殺されてしまった被害者であることを私たちに示そうとしているのではありません。むしろ、このイエスを通してこの世に対する真の神の御業が明らかになったことを教えようとしているのです。ところがイエスを十字架に付けた人々は、このイエスを通して明らかにされた神の御心を理解することができなかったのです。
 例えばユダヤ人の指導者たちはイエスが自分を「ほむべき方の子、メシア」と言ったことを問題とし、神を冒涜する罪を犯したと主張しました。イエスは実際にユダヤ人の指導者たちにご自分のことを次のように告げています。

 「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」(14章62節)。

 実はこの言葉は旧約聖書のダニエル書7章13節の引用となっています。

 「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」(ダニエル7章13〜14節)。

 ダニエルの見たこの幻では「人の子」と呼ばれるメシアが大いなる力を持ってこの地上に遣わされ、すべての国々を支配されることを預言しています。どちらかと言うとこのダニエルの預言は裁き主としてこの地上に来られるメシアを語っているように思えます。イエスの時代、多くのユダヤ人はこのメシアが天から遣わされることを待ち望んでいました。ユダヤ人たちは自分たちを神に選ばれた民であり、自分たち以外の人々は神の裁きによって厳しくその罪を問われ、滅ぼされるべき存在だと考えていました。実際にユダヤ人たちは異民族の力によって苦しめられ、迫害される歴史の中でこのメシアが一日でも早く遣わされることを待ち望んでいたのです。しかし、彼らの目の前に立っているイエスは、彼らの期待したメシアとはとてもかけ離れた存在と考えられました。なぜなら、イエスはその神の子としての力を使って、彼らの願っている願望を実現しようとはしなかったからです。自分を苦しめている人々が神の厳しい裁きを受けて滅ぼされる姿を見ることが、彼らの願いであったのに、イエスはそのようなことのために働くことは一切なかったのです。むしろ、イエスはユダヤ人たちが異邦人と同じように、神の厳しい裁きを受けるべき存在と考えていた人々と親しく交わり、彼らを裁くのではなく、彼らを救う道を選ばれたのです。これではユダヤ人たちの気持ちが収まるはずがありません。これでは自分たちががんばって神を信じてきた意味がなくなってしまうと彼らは不満に思ったからです。
 私たちはどうでしょうか。私たちを迫害する人、私たちを苦しめる人々を見て、彼らに神の裁きが下ることを待ち望むと言うことはないでしょうか。しかし神は私たちの復讐心を満たすためにメシアを遣わすのではありません。だからもし、このような意味で聖書のメッセージを理解しているなら、その人はイエスを通して表された神さまの御業を理解することはできないのです。

②ダビデの子イエス

 聖書の中で私たちを悩ませる出来事はイエスを大歓迎した人々が、わずかの間に「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ群衆に豹変してしまうと言うことです。どうして、彼らはイエスに対する気持ちを180度まで変えてしまったのでしょうか。このミステリーを解決するためにある聖書解説者は「ここに集まった群衆はバラバを支持する一味であって、イエスを大歓迎した人々とは違う」と解説します。しかし、そのような説明では到底納得いかないことがここには語られているのです。明らかに、彼らのイエスに対する心は変わってしまったのです。
 このイスラエルの民も自分たちのための新しい王が来ることを待ち望んでいました。かつて周辺の異民族と戦いイスラエルの強固な国としたダビデ王のような王の再来を彼らは待ち望んでいたのです。その王がやってくれば、自分たちを苦しめているローマの兵隊がすべて追い出され、自分たちは苦しみから解放されると考えたからです。しかし、イエスはローマの兵隊と戦うことはありませんでした。むしろ、イエスはこのローマの兵士たちによって十字架に付けられ殺されてしまうのです。明らかにイスラエルの民はイエスの姿が自分たちの思っている王の姿とかけ離れていると感じ、彼に躓くことで、自分たちの態度を豹変させてしまったと考えることができるのです。
 ユダヤ人の指導者たちも、このイエスを十字架に付けよと叫んだ群衆たちも共通する特徴があります。彼らは他人の上に下る神の厳しい裁きを待ち望みながらも、自分もその同じ神の裁きを受けるべき存在であることを忘れてしまっていたのです。だから彼らは真のメシアとして来られたイエスを受け入れることも、そのイエスを通して表された神の御心を理解することもできなくなってしまったのです。

4.私もバラバ

 聖書に示された福音のメッセージを聞くときに大切なことがあります。それはこのメッセージは自分に語られていると言うことを考えながら読むことです。この「メッセージは自分を苦しめているあの人のことを言っている」と言うような意味で聖書を読んでしまえば、私たちは結局イエスのことも神の御心も理解できなくなってしまうのです。
 この物語の中ではバラバと言うもう一人の人物が登場しています。バラバと言うのは本名ではなくこの人物に付けられたあだ名であったようです。彼の本名は「イエス」と紹介されている箇所があります(マタイ27章17節)。このバラバと言う名前は「父の子」と言う意味です。これは不思議なあだ名です。なぜなら普通は「だれだれの子」とその人物の実際の父親の名前を付けて呼ばれることが多いからです。ですから、単に「父の子」と呼ばれたバラバは孤児であったのではないかと人々に考えられています。孤児として育ったバラバは人の愛情を知りません。むしろ自分を苦しめた人々への憎しみだけを糧に生きて来たために、彼は大人になったらテロリストとなってしまったのです。なぜなら十字架刑は国家転覆を試みるようなテロリストに下される刑罰だったからです。しかし、この物語では自分の犯した罪のために処刑されなければならなったバラバが無罪釈放されます。それはイエスが彼の身代わりとなってくださったからです。聖書の福音を理解するために最も大切なことは、そこに自分の姿を映し出して読むことです。ですからもし、私たちは「このバラバこそが自分だ」と考えて読めれば、私たちは聖書から真の福音を受け取ることができるのです。そうすればイエスを通して明らかにされた神の御心が私のためであったことが分かって来るからです。
 ユダヤ人たちは自分たちを苦しめるローマ帝国が真っ先に神の裁きを受けて滅ぼされるべきだと考えていました。しかし実際の歴史では、このローマ帝国はやがて十字架にかけられたイエスを自分たちの救い主として認めることになります。イエスの十字架は滅びるべき者たちを救うために実現した神の力です(コリント一1章18節)。そして聖書は十字架によって滅びるべき私たちが救われたことをここでも明らかにしているのです。

【聖書を読んであなたも考えて見ましょう】

(2019.7.21)


祈祷

天の父なる神さま
 罪人の死を望まず、罪人が悔い改めて生きることを望まれるあなたの御心をイエス・キリストの十字架を通して明らかに示してくださったことを心より感謝いたします。私たちは自分の罪を見逃しても、兄弟が犯した小さな罪を見逃すことのできない者であることを覚えます。どうかそのような私たちを悔い改めの心に導いてくださり、イエスの十字架で示されたあなたの愛のすばらしさに目を注ぐことができる者としてください。そしてこの福音がすべての人々に伝えられ、救いの恵みにあずかることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.祭司長や長老、律法学者たちは夜が明けると何をしましたか(1節)。
2.イエスはピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」と言う問いにどのように答えましたか(2節)。
3.ピラトは自分に対して不利な証言を語る人々の発言に対して何も語らないイエスの姿を見てどのように思いましたか(3〜5節)
4.ピラトは祭りに集まった群衆たちに対してどのような提案をしましたか(6〜9節)。ピラトがそうしようとしたわけはどうしてですか(10節)。
5.群衆はこのピラトの提案に対してどのように答えましたか。彼らがそのように答えた理由は何ですか(11〜13節)。
6.ピラトが無罪を確信していたイエスを十字架にかける決断をくださなければならなかった訳はどうしてですか(14〜15節)。