1.不当な裁判
①イエスを死刑にするために開催された裁判
現在の日本では裁判員制度が採用されて一般の市民でも裁判に参加することができるようになっています。報道によれば凶悪犯罪者に対する刑罰がこの制度が採用される前よりも厳しくなっていると言われています。一般の裁判人は法律に基づいて公正に人を裁くというよりも、残虐な犯罪の被害者に対する同情心が上回る傾向があります。その結果、裁判の被告人に対する求刑が厳しくなっていると言うのです。本来、日本の法律は犯罪の被害者の復讐心を満足させるために刑罰を下すことを目的として作られているのではありません。この法律は社会の安寧秩序が保ち、同様な犯罪が繰り返されないようにするために定められているものだからです。ですからその法律に従う裁判官はどこまでも私情を入れることなく公正な立場で裁きを行わなければなりません。
今日の部分では最高法院で裁判にかけられるイエスの姿が記録されています。聖書を読めばすぐわかることですが、この裁判には公正さが求められていません。被告を罪に定めるために行われた不当な裁判であったからです。その点でこの裁判は当時のユダヤ人の慣例や法律を無視して行われている傾向があるのです。まず、第一にこの裁判は当時のユダヤ人の社会の中でも最も権威があった「最高法院」によって行われたことがわかります。この最高法院はユダヤ人の国会にあたるような重要な機関で、そのメンバーは祭司長、長老、律法学者によって構成されていました。今日の箇所を読むとこの最高法院の会議が大祭司の家の中で行われていたことが分かります。本来、最高法院が行われる会場は決まっていて、その会場以外で会議がなされることはないと言われています。その点で今までの慣例を無視する裁判であったと言えます。そればかりではありません。この裁判は大祭司の家で夜行われていると言うことが聖書を読むと分かります。後で、ペトロの否認の際に鶏が鳴くと言うシーンも記されています。通常鶏が鳴くのは明け方と考えられていますから、この裁判は夜から始まって明け方近くまで行われていたことになります。当時、この最高法院の会議が夜行われることはなかったと言われています。ですからこの裁判は会場も時間もまったく出鱈目な非常識な裁判であったことが分かるのです。
それではなぜ最高法院のメンバーはこんなに常識外れの裁判を行おうとしたのでしょうか。マルコはその理由を次のように説明しています。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた…」(55節)。彼らは最初からイエスを死刑にするという目的のためにここに集まって、裁判を開いたのです。ですからこの裁判に公正さを求めることは最初から無理であったと言えるのです。
②イエスを陥れる証拠が見つからない
このように最初から異例尽くしで始まった裁判でしたが、それでもユダヤ人の指導者が計画した通りにはこの裁判が進まなかったことが分かります。なぜなら、イエスを死刑にするための決定的な証拠を最高法院のメンバーは立証することができなかったからです。これまでユダヤ人の指導者たちは金銭を使ってイエスの弟子の一人であったイスカリオテのユダを自分たちの見方に引き入れていました。彼らはここでもイエスを陥れるために同じような手段を使ったのでしょう。このユダヤ人の指導者たちによってにわか作りの証言者が立てられます。その人々はイエスを陥れるために指示された通りに、議会で証言をしたのです。とろが、その証言はあくまでもイエスを陥れるために作られたものですから、真実に基づく証言ではありません。その結果、証言者たちの証言の間に食い違が起こり、裁判で正しい証言として採用することのできるものが何もなかったと言うのです。
福音書記者マルコは、このような裁判の様子を示すことで、イエスが誰の目から見ても無実で、潔白であることを示そうとしています。しかし、それにも関わらずこのイエスの裁判は何一つ罪を犯していないイエスの上に死刑判決が下ることになります。
2.ユダヤ人の指導者たちの罪
①律法主義の誤り
それではユダヤ人の指導者たちはなぜ、これほどまでしてもイエスを死刑にしたいと考えたのでしょうか。それはイエスの存在を自分たちに不利益を運ぶものと考えていたからです。イエスはユダヤ人の指導者たちが主張し、また人々に教えていたことについて厳しい批判をおこなったからです。
当時のユダヤ人の指導者たちは人々に律法主義に基づいた教えを語りました。この律法主義とは人は正しい行いをすることによって神に認められ、救われると言う教えです。ですから彼らはすべての人々に聖書に教えられている律法を厳格に守ることを要求したのです。しかし、イエスはこの律法主義が誤りであることを彼らの前で明らかにされました。イエスは、律法主義者たちの偽善を明らかにする方法を通して律法主義の誤りを説こうとしたのです。なぜなら、律法主義の教える方法によっては決し誰も神の要求を満足させることはできないからです。
私のように掃除が苦手な人は、時々お客がくると聞くと、あわてて部屋の掃除をすることがあります。しかし、その場合にも人が見えるところだけをきれいにして、都合の悪いものはすべて押し入れにしまいこむことで、その場を取り繕うことが多くなります。律法主義者は人の見えるところでは立派な行為を示して正しい信仰者を装います。しかし、その心の中には神の思いに反した、都合の悪い事柄がたくさん隠されているのです。
それではどうして律法主義者は上辺だけを取り繕うことしかできないのでしょうか。それは、人は誰も自分の力で神を満足させることはできないからです。人間は何かをすればよくなるような存在でありません。その存在自身がそのままでは神の要求を満たすことができない罪人となってしまっています。だから、律法主義の行いだけでは罪人となってしまった人間を救い出すことは不可能なのです。
②神に降参することが、救いへの道
最近リビングライフ誌ではエレミヤ書の学びが続けられています。エレミヤは神にそむくユダヤの人々に神の厳しい裁きが下されることを預言した人物です。そしてその神の裁きに基づいて、ユダヤ人の国は実際にバビロニア王国という大国に滅ぼされ、多くの住民が捕虜となり、異国の地に連れて行かれました。これが多くの人に「バビロン捕囚」と呼ばれている出来事です。エレミヤはここで大変興味深い予言を語っています。バビロニアの巨大な力によって捕虜となって連れていかれた人には望みがあるが、それに反して最後までバビロニアに抵抗する人々や、そのバビロニアの力から逃れてエジプトに行った人々には未来がない、彼らには滅びの道しか残されていないと語ったからです。エレミヤは簡単に言えばバビロニアに降伏する者にだけ希望が与えられていると教えています。なぜなら、彼らはやがて神の御業によってそのバビロニアの支配から解放されることができるからです。
律法主義者はこの最後までバビロニアに降伏しなかった人々によく似ています。自分の力ではどうにもならないと言うことを知りながら、表面だけは自分を取り繕って生きることで、神が準備してくださった本当の救いの機会を失ってしまったからです。そしてこの神が準備してくださった救いこそがイエス・キリストなのです。私たちは神の前で自分の存在自身が罪人であること、自分ではどうすることもできないことを認め、神に無条件降伏しなければなりません。そしてその上で自分をイエス・キリストにゆだねなければならないのです。しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエスを認めることができずに、その結果神からの厳しい裁きを受けることになるのです。だから一見すればこの裁判はユダヤ人の指導者たちがイエスを裁いているように見えますが、本当に裁かれているのはこのユダヤ人の指導者たちだったのです。
③預言として用いられた偽りの証言
このユダヤ人の偽りの証言の中でも聖書の中で具体的にその内容が報告されているものが一つあります
「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」(58節)と言う証言です。
この証言は当時、エルサレムに建てられていた神殿に関わる偽証です。当時の神殿はヘロデ王と言う人物によって再建されたもので、その再建のために長い年月と費用が必要でした。イエスはその神殿は壊して、新しい神殿を三日で立てて見せると言ったと証言者は語っています。イエスがこのような偽りを語って人心を惑わす人物であることを証明しようとしたのでしょうか。しかし、数ある偽証の中でどうしてこの証言だけをマルコは福音書の記録に残したのでしょうか。それはこの偽りの証言がある意味で本当のことを語っているからです。本来神殿は神が人間の献げる礼拝を受け入れてくださる場所です。当時のユダヤ人は正しい礼拝はエルサレム神殿でしか行えないと主張したのです。ところが聖書はこの神殿はイエス・キリストご自身を指し示していると教えます。その証拠が十字架の死から三日目に甦られたイエスの復活の出来事です。神は私たちのためにイエスを復活させ、新しい神殿を建ててくださいました。それが私たちの救い主イエスなのです。ですから神はこのイエス・キリストを通してだけ罪人である私たちの礼拝を喜んで受け入れてくださるのです。このように偽りの証言の中にも私たちの救いはこのイエス・キリストによってのみ実現することが語られているのです。
3.イエスの自己証言が示す救い主とは
①黙って語らないイエス
ユダヤ人の指導者たちはイエスを死刑にするために、懸命にその証拠を集め、その証拠を立証しようと心がけましたが、それはことごとく失敗してしまいます。それではイエスを実際に死刑とするために決め手となったものとは、いったい何だったのでしょうか。それはユダヤ人たちの偽りに満ちた証言ではなく、イエスが自ら語った真実の自己証言であったことが分かります。ここまでイエスは自分に対して不利な証言が人々から語られても一言もその発言に対して反論をすることがありませんでした。
「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(61節)とマルコはこのときのイエスの様子を記しています。おそらく、マルコはこのイエスの姿をここで記すことで旧約聖書のイザヤ書の預言が成就していることを読者に知らせようとしたと考えることができます。イザヤ書53章には「苦難の僕」と呼ばれる人物が登場します。この人物は自らは何の罪も犯していないのに、罪人の罪を代わって負うためにやって来られる救い主の姿を描写しています。イザヤはこの救い主の特徴を「彼は口を開かなかった」(7節)と語り、黙って人々の罪を担い死に赴かれると言う姿を通して表現しています。そしてイエスこそが私たちの罪を代わって担ってくださるためにやって来られた救い主であることをマルコは同様の表現を使って読者に示そうとしたのです。
②十字架にかかって死なれる方こそ真の救い主
さらにイエスは大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(61節)と言う問いかけに次のように答えます。
「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」(62節)。
ユダヤ人にとって「ほむべき方」と言えば、それは神以外にはおられません。つまりこの大祭司の質問は「お前は神の子なのか。自分を神から遣わされた救い主だと言うのか」と聞いているのです。そしてイエスはこの大祭司の質問に「そうです」とはっきりと答えています。そして今は、そのことが人の目に隠されているが、やがてすべての人がそのことを理解することができるときがやって来ると旧約聖書のダニエル書の言葉を使って語られたのです。
実はイエスはここまで自分がメシアであり、救い主であることを人々に隠す姿勢が守って来ました。このイエスの姿は神学者たちによって「メシア秘密」と言う言葉で表現されています。イエスは時が来るまでご自分がメシアでることをむしろ人々に隠す傾向がありました。それは、自分がメシアであることを示しても、多くの人が誤解をしてしまう傾向があると考えられたからです。しかし、イエスはここではその秘密を躊躇することなく解禁してしいます。そしてこの発言によって大祭司はイエスが神を冒涜する罪を犯し、死刑に価すると言う判断をくだしたのです。
福音書はこのイエスの自己証言からイエスの死刑判決が決まることによって、イエスは死刑になるためにやって来られた救い主であることを明らかにしています。
③イエスを通してのみ与えられる救いの確信
マルコの証言は私たちのために罪を負い、自らは何の罪を犯しされていなくても、自分に対する不当な訴えには沈黙して何も語らず、最後にご自分を「メシア」であると証言された方に注目するように教えます。なぜなら、私たちの救いはこの十字架の上で死刑にされたイエスを通してしか実現されないからです。
私たちはその存在自身が罪人であって、神に逆らい続ける者たちでしかありません。ですからたとえその私たちが何かをしたとしても罪人としての存在自体は全く変わらないのです。しかし、私たちのイエスは私たちに代わって罪人である私たちの罪を負い、私たちに代わってその刑罰を十字架で肩代わりしてくださいました。そのようにしてイエスは私たちの存在自身を受け止めてくださったのです。このイエスによって私たちの存在自身が変えられることを聖書は「救い」と呼んでいるのです。なぜなら、私たちはこのイエスによって、イエスと同じ神の子として神から扱われるようになったからです。
私たちの救いの確かさは律法主義者のように自分の行いを見ることでは分かりません。私たちはどんなに信仰生活に励んでも、「他の人よりは少しよいのではなか」と言う自惚れを感じることがあっても、神に自分が受け入れられていると言う確信は得ることはできません。ですから、私たちの信仰生活の確信は十字架にかけられるイエスの姿を通してだけ与えられるものなのです。イエスが私たちのために裁きを受けられ、十字架にかかってくださったからこそ、私たちの救いは確かなものとされています。その真理を私たちは今日の物語を通しても確認することができるのです。
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