1.総督ピラト
①十字架の言葉は人を救う神の力
日本のキリスト教会の多くの建物にはシンボルのように十字架が掲げられています。教会堂の屋根の上に十字架を立てられていたり、私たちの教会のように礼拝堂の中にも十字架を掲げているところもあります。これはキリスト教会にとって十字架が最も大切であることを示すものだと言えるのです。さらに。これは教会の建物だけの問題ではりません。私たちの礼拝の説教の中でも絶えずこの十字架の出来事が語られています。もしキリスト教会と言いながら十字架のことを何も語らないところがあるなら、それはキリスト教会ではないと言ってもよいかもしれません。
伝道者としてキリストの福音を語り続けたパウロはその手紙の中でこのような言葉を残しています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一 1章18節)
そしてパウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(同23節)と語ります。パウロの言葉に従えば、十字架に付けられたキリストをどのように理解するのかと言うことが私たちの救いに深く関係しているくることが分かるのです。
私たちはこの伝道礼拝でキリストに出会った人々について毎月学び続けています。そこで今日は実際にこのイエス・キリストの十字架の出来事に関わった人々の例を取り上げながら、私たちが十字架のキリストに出会うことの意味を皆さんと共に考えて見たいと思うのです。
②総督ピラトの関心
キリスト教会の教えを古くから伝える文章に「使徒信条」と言う信仰箇条があります。私たちの教会の週報にも主の祈りと共に、この使徒信条の文章が印刷されています。この文章に「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ…」と言う一節が書かれています。キリスト教徒であれば誰もが知っている名前、その一人がこのポンテオ・ピラトです。彼はローマ帝国の役人として当時、このローマ帝国の植民地となっていたユダヤの国の総督に任命され、この地に赴任して来ました。普通の人物がこの総督になることはできません。かなりの地位や名声、そして指導者としての才能も備えた人物でなければ総督に任命されることはありません。おそらくこのピラトはローマの貴族の一人であったことが想像できます。彼はローマから見ればはるか東にある辺境の地の役人として派遣されて来ていたのです。
彼がイエスに出会ったのはユダヤ人の宗教指導者たちがイエスを死刑にさせようとしたからです。聖書を読むとこのピラトがイエスに対して強い関心を持っていたことを示す記録はありません。ピラトは自分の意志からではなく、総督としての職責上、イエスと関わらなければならなくなったに過ぎないのです。ですから、彼の関心はイエスに向けられることはありません。ピラトはイエスの無罪を確信しつつも、イエスを十字架刑にしなければなりませんでした。それはどうしてでしょうか。ピラトは総督としての自分の地位を守ることに必死だったからです。もしこのイエスのことが原因でユダヤ人の間に騒動が起これば、この地の総督として働いているピラトの責任が問われます。だから、彼は「イエスを十字架に付けろ」と叫ぶ民衆の声に従うしかなかったのです。ピラトは総督と言う自分の地位を守ることを一番と考えました。その結果、ピラトは真の救い主であるイエスと出会う機会を逃してしまったのです。
2.イエスを侮辱したローマ兵たち
このピラトの決定に従ってイエスを実際に十字架に付けるために働いたのは彼の部下たちであったローマ兵です。兵士は命令に従うことが任務です。しかし、彼らがイエスの身柄を引き受けた後に、そのイエスを侮辱したことはピラトの命令に従ったと言うことではなかったような気がします。彼らは自分たちの気まぐれで、自分たちのひと時の余興を楽しむと言う目的のためにイエスを辱めたのです。しかし、彼らにそれができたのは、やはり、彼らが権威を帯びた軍隊と言う一つの組織の中に生きていたからだと考えることができるのです。
私が牧師として初めて赴任したのは青森県の教会でした。この青森で明治時代に兵士たちに起こった有名な事件があります。当時、日本陸軍はロシアとの戦いを避けることができないと判断し、その戦いに備えるために極寒の青森の八甲田山中で演習を行うことになりました。そして悲劇はその演習で行われた雪中行軍の場で起こりました。演習に参加したたくさんの兵士が寒さのために山中で凍え死んでしまったからです。この事件は兵士たちを指揮する司令官の判断ミスが原因であったと今では考えられています。その証拠に同じ時期に同じコースをたどって雪中行軍を行った別の部隊は一人の兵士の命も失うことがなく帰還することができたからです。たくさんの犠牲者を生み出した部隊のリーダーは自分の力を過信していました。そしてそのリーダーは何よりも自分の軍人としての名誉を重んじて行動しと言うのです。しかし、全員生還を遂げた部隊のリーダーはそうではありませんでした。彼は軍人としての名誉よりも、部下たちの命を大切にしました。彼はそのため恥を忍んで、密かに雪山に詳しい農民を雇って、彼らに行軍の道を案内させたのです。
ローマ兵たちは誤れるリーダーに導かれることでイエスを辱め、またイエスを十字架にかけることになりました。そして、真の救い主であるイエスに出会うと言う機会を逃してしまったのです。
3.イエスを十字架にかけよと叫んだ群衆
イエスを「十字架につけろ」と叫び、総督ピラトにイエスを十字架にかけさせるようにさせたのは、当時、ユダヤの最大の祭り「過越の祭」のためにエルサレムに集まっていた群衆たちでした。昔、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷として暮らしていた時に、神がエジプト全土に災いを下されたことがありました。そのときイスラエルの民だけは犠牲になった子羊の血によって災いから免れるということができたのです。過越の祭はこのことを記念するお祭りです。この祭りのために国中はもとより、海外に在住するユダヤ人もエルサレムに集まる習慣があったのです。ユダヤ人の宗教指導者たちはこの祭りに集まった群衆たちを利用して、イエスを十字架につけさせようと企み、見事にそれを実現させたのです。
ところがここで問題になるのはどうして群衆は簡単にユダヤ人の指導者たちの陰謀に利用されてしまったのかと言うことです。このときまで群衆とイエスとの間には特別な対立関係を生むような出来事は起こっていません。むしろ、群衆の多くはイエスが自分たちを助けるためにやって来た救い主と考えていた様子があります。それが分かるのはこの群衆がエルサレムに入るイエスを大歓迎して出迎えたシーンです(11章8〜10節)。このときは「イエス様万歳」と叫んだ人々が、ここでは「イエスを十字架に付けろ」と叫ぶ人々に変わってしまうのです。この群衆のひょう変とも言える出来事の原因はどこにあるのでしょうか。それはイエスが群衆の期待に沿うような行動をしなかったからだと言えます。群衆は自分たちの期待に見事に答えてくれる救い主を待ち望んでいたのに、イエスはその群衆の期待を裏切る行動をしたのです。そして、その結果、群衆は真の救い主イエスと出会う機会を失い、自らその救い主を拒否して、十字架で殺害すると言うことになってしまったのです。
マーク・トウェインと言うアメリカ人の作家の作品の中に『不思議な少年』と言う題名の小説があります。この不思議な少年は名前の通り不思議な力を使って主人公の願いをかなえることができます。一見すると天使のような存在と思えるこの少年、しかし物語はそうはうまくいきません。この少年の力で願いごとをかなえてもらう主人公の前に、彼の思いに反して不幸なできごとが次々と起こって行くからです。主人公が良かれと思って不思議な少年に頼み込んだことが実現することによって自分も周りの人々も、自分も不幸になって行くのです。「不思議な少年は天使ではなく悪魔だ」。この小説を読む読者はいつしかそのような結論に導かれるのです。
私たちが求めている救い主はこの「不思議な少年」のような存在でしょうか。そうではないはずです。私たちの真の救い主は、私たちの願望を実現するためではなく、私たちが思ってもいなかった真の祝福を私たちの人生に与えてくださるためにやって来てくださった方だからです。
4.イエスが身代わりとなって自由にされたバラバ
総督ピラトは祭りの度に囚人を一人だけ釈放するという当時の慣例を用いて、無実のイエスを釈放しようと考えました。しかし、ピラトの意志に反して、彼は「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ群衆たちを鎮めるために、犯罪者であるバラバを釈放することになってしまいます。このバラバは福音書で「暴動のとき人殺しをして投獄されていた」(15章7節)人物と説明されています。
おそらくこの暴動とはローマに対する抵抗運動を意味しているのでしょう。バラバはその際に人を殺害したという容疑でローマ軍に逮捕されていたのです。つまりバラバは単なる人殺しではなく、自分の国を愛するために立ち上がった愛国者の一人と考えることができるのです。
1909年に中国のハルピン駅で当時の朝鮮総督であった伊藤博文を暗殺したのは安重根(アン・ジュングン)と言う人物です。彼は今も日本人にとって自分たちの国の初代総理大臣でお札のモデルにまでなった伊藤博文を殺した犯罪者と考えられています。しかし韓国人にとってはそうではありません。彼は自分の国を愛し、その国ために命をささげた民族の英雄として今も彼らの中で尊敬の対象とされているのです。もしかしたらバラバは当時のユダヤ人にとってそのような英雄の一人であったのかもしれません。
「国のためなら命も惜しまない」。そのような決意を抱いていたバラバが、イエスが身代わりになることで釈放され、自由になりました。しかし、聖書はその後、バラバの人生がどうなったのかを一切説明していません。せっかく、イエスが代わりに十字架に付けられることで命を得たバラバでしたが。イエスによって助けられた命を彼がどのように使ったのか誰も知ることができないのです。しかし、本当にイエスに出会うと言うことは、イエスの十字架によって命を得ると言うことだけではなく、そのイエスによって助けられた命をどのように用いていくかということに繋がって行くはずなのです。
5.十字架を担いだシモン
イエスの十字架の物語にもう一人登場してくる人物がいます。キレネ人シモンです。彼はローマ兵の命令によってイエスの十字架を代わって担ぐことになりました。当時、ローマ兵の命令は絶対で逆らうことができなかったからです。シモンはこのときたまたま通りかかった見物人の一人でしかなかったのに、十字架にかけられるイエスの後を、十字架を担って着いて行くことになりました。キレネはアフリカ北部にある地方で、シモンはそこからエルサレムにわざわざ巡礼にやって来た観光客の一人であったと考えられています。
不思議なことはイエスの生涯を最も簡潔に示す特徴を持ったマルコによる福音書がわざわざ通りがかりの観光客の一人の名前を福音書に残したことです。しかも、マルコはこのシモンの名前だけではなく「アレキサンドルとルフォスの父」という彼の家族の名前も加えて紹介しているのです。おそらくマルコが彼らの名前を記したのは、この福音書の最初の読者であったローマの教会の人々にこの名前がよく知られていたからだと考えられています。マルコがこの福音書を記したとき、アレキサンドルとルフォスはローマ教会のメンバーになっていて、教会の皆によく知られていたから、マルコは彼らの父親であるシモンがイエスの十字架を代わって担いだことを福音書に取り上げたのです。
イエスの十字架を代わって担ぐことはシモンの人生には考えもつかなかった出来事であったに違いありません。しかも、彼は無理やりローマ兵に命じられてこの十字架を担いだのでした。しかし、この出来事がシモンとその一家の歩みを変えることになりました。シモンとその家族がいつ、どのような経過をたどってイエスを信じることになったのはかよく分かりません。しかし、シモンとその家族をイエスと出会わせるきっかけになったのは、イエスの十字架だったと福音書は伝えるのです。
イエスの十字架は私たちとイエスとの出会いを結びつけるものであると言ってよいのかもしれません。もちろん、それは私たちが実際にシモンのようにイエスの十字架を担うと言うことではりません。しかし、私たちも意外な形で聖書を通して、イエスの十字架に出会うことになったのではないでしょうか。なぜ、イエスは十字架にかけられて死ななければならなかったのか。それを最初から正しく理解できる人はいないと思います。だから皆、「なぜ、イエスは十字架にかけられたのか」という疑問を抱きながら、聖書を読むことになります。しかし、私たちがその疑問に対する答えを求めて聖書を読み進めるなら、聖霊が必ず働いてくださり、私たちに十字架の意味を教えてくださるのです。聖霊はイエスの十字架が私を救うためのものであったことを悟らせてくださるのです。そして、私たちは目には見えませんが私たちと今も共に生きてくださるイエスに出会うことができるようにしてくださるのです。私たちはこのイエスとの出会いを通して自分の人生が変わり、家族の歩みが変わると言う信仰の体験をすることになるのです。このように救い主イエスとの真の出会を体験するために大切なことは、このイエスの十字架を見つめることであることを、私たちはイエスの十字架の周りに集まった人の姿からも学ぶことができるのです。
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