2019.8.18 説教「十字架につけられた王」


聖書箇所

マルコによる福音書15章21〜32節
21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。


説教

1.十字架に付けられたイエス
①ゴルゴダ

イエスの十字架刑が執行された場所は福音書によればゴルゴダと呼ばれるところで、このゴルゴダは「されこうべ」と言う意味を持っていると説明されています。おそらく、小高い丘がちょうど人間の頭蓋骨の一部のように見えたためにこのような名がつけられたのだと思います。
 このゴルゴダの場所がどこにあったのかは実は現在でもはっきりしていないところがあります。古来よりキリスト教会ではこのゴルゴダは現在の聖墳墓教会が立てられた場所だと考えられて来ました。「聖墳墓」とはイエス・キリストの遺体が葬られた場所という意味で、イエスの遺体が葬ら得たアリマタヤのヨセフの墓もこのゴルゴダのそばにあったと考えられているようです。
 紀元70年ごろにローマ軍によってエルサレムの町が徹底的に破壊されると言う出来事が起こりました。この結果、エルサレムの町は廃墟となってしまいます。そのときからこのゴルゴダもどこにあったのかが分からなってしまったようです。
ずっと後になって、ローマ帝国はキリスト教を国の宗教と定めました。そのとき皇帝の命令によって、「ゴルゴダがどこにあったのか」という調査が行われました。このときに候補地に上がったのが、現在の聖墳墓教会の場所であるとされています。そこでローマ皇帝はここに記念の教会を立てたというのです。しかし、キリスト教界の中では現在でも「実際のゴルゴダのあった場所はここではない」とこの聖墳墓教会説を否定するグループも存在しているのです。

②聖書の言葉通り実現した十字架

 十字架刑は過酷な刑罰です。生きたまま手足を十字架の杭に釘で打ち付けられます。肉が裂け、骨が砕かれ、死刑囚は苦しみ続けながら、身も心も弱って行って、ついに絶命に至ります。イエスにこのとき差し出された「没薬をまぜたぶどう酒」は麻薬のような働きをして、受刑者の苦痛をわずかながらの軽減する作用があったと言われています。しかし、イエスはこのぶどう酒を飲むことはありませでした。それはイエスが十字架にかけられて死ぬことが、救い主としての使命を果たすために絶対に必要であったからです。救い主は十字架刑の苦しみをすべて受ければならと言うことが神の計画だからこそ、イエスはぶどう酒を飲むことを拒否されたのです。
 ローマ兵がイエスを十字架に付けた後、イエスの着ていた服をくじを引いて分け合ったと言う出来事が記されています。これは旧約聖書の詩篇22編18〜19節の「骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と言う言葉がそのとおり、イエスの十字架の御業を通して実現したことを説明しています。またこの後、十字架刑を目撃した人々が首を振りながらイエスをののしったことも記されています。これも同じように詩篇22編8節の「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る」と言う言葉が実現したことを示しています。このようにイエスは、神の計画が完全に実現するために十字架にかけられたのです。

2.自分を救って証明してみろ
①ピラトの抵抗

 イエスを十字架にかけさせることを決定したのはローマ帝国の役人であった総督ピラトでした。ピラトはイエスが実際には死刑にされるような罪を何も犯していないことを知っていました。そしてピラトはイエスが敵対するユダヤ人の指導者たちの陰謀によって、罠に陥れられたことを知っていたのです。しかし、何よりも自己保身を優先するピラトはどうしてもイエスに死刑判決を下さなければならなくなります。ピラトはユダヤ人の指導者たちに追い詰められてしまい、そうすることしかできなかったのです。
おそらくピラトは自分をそのように窮地に追い込んだユダヤ人たちに対して腹の虫が収まらない、そのような状態にあったのかもしれません。ここで彼はユダヤ人たちを困らせるために、あることを思いつき、それを実行しています。それがイエスに付けられた「罪状書き」です。この罪状書きは死刑になる囚人がどのような罪のために死ななければならないのかを記したもので、行進の際には死刑囚の首にかけられて、最後に十字架の上に掲げられました。
 ピラトはイエスの罪状書きに「ユダヤ人の王」という言葉を部下たちに記させました。ユダヤ人たちが「十字架にかけろ」と叫んだこの男こそが、お前たちユダヤ人の王なのだと言う皮肉を込めた罪状書きが作られたのです。しかも、この「ユダヤ人の王」という言葉にはさらに重要な意味が隠されています。なぜならこの言葉は聖書で約束されている「救い主」のことを表すものでもあったからです。神はその昔、ユダヤ人の王であったダビデの家系から救い主を与えてくださると約束してくださったのです。ですから「ユダヤ人の王」と言う罪状書きはその神が約束された救い主こそこのイエスであると言う意味を持ったものになったのです。
 この後、今日の聖書箇所に登場するユダヤ人たちのとった十字架のイエスに対する反応はこの「罪状書き」に対する彼らの反発が影響していると考えてよいでしょう。

②十字架から降りてみろ

 イエスの十字架刑を目撃した人々はイエスに向かって次のような罵りの言葉を語ったと言います。

「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29〜30節)。

 彼らは十字架にかけられたイエスに向かって「自分を救ってみろ」と語りかけました。彼らは自分を救うことで、自分たちにイエスが「ユダヤ人の王」、真の救い主である証拠を示せと叫んだのです。「本当の救い主ならそれができるはずだ」と人々は考えていたからです。
 また同じようにイエスの十字架を見上げながら祭司長たちや律法学者たちは同じようにこう叫んだと言います

「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31〜32節)。

彼らが本当にイエスを信じようとてこのような言葉を語ったということには疑問があります。むしろ、彼らはこの言葉を語ることでイエスは決して罪状書きに書かれているような「ユダヤ人の王」ではないことを主張しようとしたのでしょう。しかし、このとき語られた彼らの言葉を探ってみると、この言葉の本当の出所がどこからきているのかが分かって来るのです。

3.悪魔に勝利するイエス

 かつてイエスが救い主としての活動を始められたとき、イエスは荒れ野で悪魔の誘惑に会われたことがありました。40日間の断食を経た後で空腹を覚えられていたイエスに対して、悪魔は「石がパンになるように命じてみろ」と迫りました(マタイ4章1〜11節)。このとき悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端にまで連れて行き「神の子なら、飛び降りてみよ」とも語りました。もしイエスがたくさんの人々が集まる神殿の屋根から飛び降りて、自分を救う姿を見たなら、それを目撃した人々はすぐにイエスが神の子であり、救い主でることを認めるに違いありません。悪魔は「これこそ、お前が救い主になるためのショートカット、近道だ」と誘惑したのです。しかし、イエスはこの荒れ野の試み経験しながら、悪魔の誘惑をすべて退けられました。イエスがこのとき悪魔の誘惑に対して戦った方法は、自分の考えではなく神の言葉に従うこと、神の計画に従うことでした。
 実はイエスの十字架の周りに集まった人々はこの悪魔と同じ言葉をここで語っているのです。「十字架から降りて見ろ。そして自分を救え、それがお前が救い主になる近道だ」と彼らは叫んだのです。しかし、イエスは十字架を降りることはありませんでした。イエスはここでも神の言葉が実現することを願い、そして神の計画に従うことで悪魔の誘惑に勝利したのです。
 このイエスの行動と全く別の方法を選んだのは、私たち人類の祖先と言われるアダムとエバの二人です。このとき悪魔は二人に神が食べてはならないと命じた木の実を食べれば「神のようになれる」と誘惑しました。悪魔は「それを食べることがあなたの人生が幸せになる近道だ」と嘘をついたのです。アダムとエバはこの悪魔の言葉に従い、神の言葉に従うことをやめてしまいました。このように人類の不幸はアダムとエバが神の言葉に従わなかったことから始まったことを聖書は教えているのです(創世記3章)。

4.十字架は何を解決したのか

 この秋に私は婦人会の集まりで「老いと向き合う」と言うテーマでお話をすることになりました。私はそこで何を話してよいのか分からずに、とにかくこのテーマに関する資料はないかと今、いろいろと調べている途中なのです。その中で先日、アマゾンのホームページから老いの問題を抱える人々に対するケアーについて記したキリスト教関係の本が出版されていることを見つけました。私はアマゾンで本を見つけたときには、必ずそのページに書かれている何人かの人たちの書評に目を通すことにしています。その本の書評はキリスト教書という専門性もあるのでしょうか、一人の感想だけが記されていました。その書評は「星一つ」ときわめて厳しい評価になっています。
 この書評を読んでみると本人が実際に、パストラルケアー、牧師などが行う牧会カウンセリングを受けて見たが、それは全く自分に役に立たなかったと言うことが書かれていました。そしてむしろ、他のカウンセリングの技術を学んだ方がよいと勧めているのです。この本に書かれているような内容のキリスト教のアプローチは全く役に立たないと結論づけていました。
 私はこの書評を読んで、この人は牧会カウンセリングと一般的なカウンセリングの目的を混同しているように思えてなりませんでした。なぜなら牧会カウンセリングの目的は、一般のカウンセリングとは全く違うからです。牧会カウンセリングを行う者は相談者の心を救い主イエスに向けることを目的として働きます。なぜなら、私たちの人生の本当の問題を取り去ることができるのはイエス・キリストお一人であると私たちは信じているからです。
 牧会カウンセリングの専門用語に「スピリチュアル・ペイン」と言う言葉があります。日本語に訳せば「霊的な痛み」、「魂の痛み」とすべき言葉です。人間はその人生で様々な痛みを感じて生きています。肉体が病にかかれば、肉体の痛みが襲って来ます。心が病めば、心の痛み、精神的な痛みを感じるのです。しかし、人間にはもっと深くて自分の力では癒すことができない痛みがあります。それがスピリチュアル・ペインです。そしてこのスピリチュアル・ペインの原因は私たち人間と神との関係の分裂から生まれていると考えられるのです。人間はこの分裂を解決しない限りは、その魂に本当の平和を得ることができません。この問題が解決しなければ私たちは過ぎ去った自分の人生を後悔し、これから迎えなければならない死を恐れて生きなければならないのです。
 イエス・キリストの十字架だけが私たち人間が抱えているスピリチャル・ペインを癒すことができるのです。なぜならイエスの十字架は私たちと神との間に起こった分裂を修復し、神と私たちとの関係を回復させるものだからです。この関係を分裂させてきた原因は人間の罪にあります。その罪を取り去ることが十字架の救いの御業によって実現したのです。アダムとエバが失ってしまったものを、イエスは十字架の御業を通して私たちのために取り返してくださったのです。
 このイエスの十字架を通して私たちの人生の全く変えられました。イエスが十字架で私たちの罪を償ってくださったので、私たちは自分の人生の過去を思い返して後悔する必要はなくなったのです。むしろ、私たちは今までの自分の人生を通して、私たちをこの救いに導いてくださった神の御業を覚えて感謝することがでるようにされるのです。
 私たちは自分の罪のために神の前で必ず裁きを受けなければなりませんでした。しかし、イエスの十字架は私たちが受けなければならない裁きの意味を全く変えてくださったのです。イエスの十字架によって私たちはこの裁きの場で有罪判決ではなく、無罪判決を受けることができようにされるからです。私たちはこの裁きの場で罪と死から完全に自由にされ、永遠の命を受けることができるようにされるのです。
 イエスの十字架は私たちの人生を全く変えることができます。私たちの人生の過去と未来を変えるこの確かな救いが、キリストが十字架を通して実現したからです。


祈祷

天の父なる神さま
 私たち人間が抱える深刻な問題から私たちを救い出すために救い主イエスを遣わしてくださったことを心より感謝します。私たちの救い主イエスは私たちを救うために神の言葉に従い、神の計画を実現するために十字架にかかってくださいました。その御業の結果、私たちの魂の痛みは取り去られ、私たちの人生に自由と喜び、そして永遠の命の祝福が与えられたことを心より感謝します。私たちがこの救い主イエスの御業を覚えながら、感謝を持ってあなたに仕える信仰生活をこれからも続けることができるように、私たちに聖霊を遣わして導いてください。
救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの十字架を担いだのは誰でしたか、どうして彼は十字架を担ぐことになったのですか(21節)。
2.イエスがゴルゴダで十字架に付けられたときに旧約聖書の詩篇22編19節と8節に記されたどのようなことが実際に実現しましたか(24、29節)。
3.ピラトはイエスの罪状書きにどのような言葉を書かせましたか。この言葉はイエスを十字架につけたユダヤ人たちにどのような影響を与えるものとなりましたか。
4.イエスの十字架の前を通りかかった人々は、イエスに対してどのような言葉を投げかけましたか(29〜30節)。祭司長たちや律法学者たちはイエスをどのように侮辱しましたか(31〜32節)
5.あなたはこの時、イエスがどのような形で人々に自分が救い主であることを示されたと思いますか。