2019.8.25 説教「イエスの死」


聖書箇所

マルコによる福音書15章33〜41節
33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。


説教

1.全地が暗くなる

 マルコによる福音書はイエスの十字架の出来事を時間で区切りながら報告しています。まずイエスがゴルゴダに到着して十字架にかけられたのは「午前九時」(25節)のことであったと報告しています。そして今日の聖書箇所は「昼の十二時」と言う時刻を記すことで始められています。ここまででイエスが十字架にかけられてからおよそ三時間が経過したことになります。そしてこの昼の十二時になると大変に不思議な出来事が起こったと言うのです。

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(33節)

時間はちょうど昼の十二時、太陽の光が満遍なく降り注ぐ時刻であったのに、突然に全地が暗くなったと言うのです。たとえばこの現象を太陽が月の影に隠れる「日食」であったとしてら、それが三時間も続くということはありえないはずです。この世の自然現象ではとても説明のつかない神の御業がここで示されたと考えるほかありません。
旧約聖書の出エジプト記の中には神がエジプトの地に下された十の災いが報告されています(7〜11章)。その中の九番目に起こった災いにエジプト全土を襲った「暗闇の災い」と言う現象が記されています(10章21〜29節)。この暗闇はエジプト全土で三日間も続いたと記録されているのです。通常の自然現象ではとても説明のつかない出来事です。不思議なことにこの時、エジプトの地の中で唯一イスラエルの民の居住する地位には光があったと記されています。この災いは神の言葉に従わないエジプトの王ファラオに対して神が下された災いであったとされています。つまりこの暗闇の災いは神に従わない者に対する神の裁きであったと言えます。
また、旧約聖書の預言書の一つアモス書には真昼に起こる暗闇について次のような言葉が記されています。

「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。」(8章9節)
この言葉はアモスがやがてやって来るこの世の終わりの日に実現する神の裁きを預言するものとして語られています。つまり真昼に全地が暗くなると言いう出来事は、神の厳しい裁きがそこで実現したことを表しているのです。このように真昼に全地が暗くなると言う出来事は神に背を向け、神に反逆する人間の罪に対する厳しい裁きが、イエスの十字架の出来事を通して実現したということを示しているのです。

2.エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ

 この暗闇は十二時から三時まで続いたと記されています。そしてこの暗闇が明けるちょうど三時にイエスは大声で次のように叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これはイエスが普段、しゃべっていたアラム語の言葉をそのまま記録したものです。その意味は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」となるとマルコはアラム語を知らない福音書の読者たちのためにわざわざここで説明を書き加えています。そして、このイエスの言葉は詩篇22編の言葉の引用だとも考えられています。なぜならこの詩篇には神から見捨てられたと思えるような状態に陥った人間の絶望的な叫びが歌われているからです。
 神が罪人に対して下される最も厳しい裁きはその人を「見捨てる」と言うことです。何も手出ししないで、そのままにさせて放っておくことが最も厳しい神の裁きだと言えるのです。親は子どもの行動を見て、このままでは危険だと感じると、厳しく叱りつけることがあります。神も私たちの人生に対してしばしば警告を与え、私たちを危険から救い出そうとされるのです。しかしこれは決して裁きではありません。本当の裁きは、その人が何をしようとも、どのようになろうとも、まったくかかわりを持たないこと、放っておくことなのです。十字架の上でイエスは神から「見捨てられた」と大声で叫びました。イエスがこんなに危機的で絶体絶命な状況に立たされても、天の神は全くこの十字架の出来事に介入されなかったからです。
 しかし、ここで十字架にかけられているイエスは真の「神の子」であったはずです。父なる神がご自身の実子であるはずのイエスを見捨てられるというようなことが本当に起こったと言えるでしょうか。確かにイエスは十字架上で神に見捨てられたのです。なぜならイエスは私たち人間を救うために、私たちと同じ状態になられる必要があったからです。神に背き、罪を犯し続ける私たちは、神に見捨てられるべき存在なのです。イエスはその私たちと同じ状態になるために十字架にかけられ、天の父なる神に見捨てられることをご自身で選ばれたのです。
 芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」では極楽にいるお釈迦様が地獄で苦しむ主人公を救うために、極楽から一本の蜘蛛の糸を降ろします。その糸を登って行けば主人公は地獄の苦しみから脱出できるのです。しかし、哀れの主人公は結局、その糸を登りきることができずに、元の地獄に落ちてしまいます。そしてお釈迦様は残念そうに地獄に落ちた主人公を眺めるだけで終わるのです。
 私たちの救い主イエスはこの小説に登場するお釈迦様とは全く違う行動を取られました。なぜなら、イエスは神に見捨てられ、絶望せざるを得ない、私たち人間の世界に降りて来てくださったからです。そしてイエスは私たちと罪人の定めと同じように、神に見捨てられ、絶望せざるを得ない状況にまで立たれたのです。どうして、イエスは神から見捨てられたのでしょうか。それは私たち罪人を救い出すためです。自分の犯した誤りのために、苦しむ私たち人間を、神は放っておくことができませんでした。だから神はイエスを十字架にかけられたのです。そしてイエスを見捨てたのです。そのようにして私たち罪人を救い出そうとされたのです。
 神の子であるイエスを十字架の上で見捨てること、それは私たち人間を愛し、決して放っておくことができない神の御心が表された御業なのです。

3.二つに裂けた神殿の天幕

 しかし、イエスの十字架の意味を周りで見物していた人々は決して理解することができませんでした。彼らはイエスの叫びも彼が「エリア、エリア」と助けを呼んでいると誤解しています。だから「エリアが助けにくるかどうか、見物しよう」と全く見当違いな発言をしているのです(35〜36節)。
 しかし、神の御業はこのような人々の無理解の中でも確実に実現していきます。イエスがちょうと大声を出して息を引き取られたときのことです。次のような出来事が突然起こります。

「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(38節)

 この当時、エルサレムには神を礼拝するために立派な神殿が立てられていました。この神殿の中で最も大切な場所とされていたのが神の契約の箱が置かれていた「至聖所」という所です。この至聖所に入ることができるのは大祭司と言った特別に選ばれた人だけでした。至聖所は大祭司以外の人は決して入ってはいけない場所なのです。だからこの至聖所は天幕で区切られ、その天幕の中に入ることができないようになっていたのです。この天幕は神の聖なる場所を守ると言う役目と同時に、人間が誤ってそこに入って命を落とさないようにする役目も果たしていました。旧約聖書ではこの神の箱に誤って触れただけで、すぐに命を取られてしまった不幸な人の姿が記録されています(サムエル下6章6〜7節)。罪人がそのままの姿でここに入れば、命を失いかねないのです。その天幕がイエスの十字架の死と同時に真っ二つに裂かれたと福音書は報告しています。しかも、この裂かれ方には特徴があります。「上から下まで真っ二つに裂けた」と言いわれています。人間が裂いた場合は下から上にとなります。ですから、この「上から下」という表現はこの天幕を裂いた方が神ご自身であることを表しているのです。
 もはや天幕は必要がないと神が判断されたからこそ、この天幕は真っ二つに裂かれました。誰が至聖所に入っても、命を取られると言う危険はなくなったからです。それはどうしてでしょうか。イエスが十字架で死なれることで、私たちが犯した罪の償いが実現したからです。私たちはこのイエスによって罪から解放され、神に近づくことができるようにされたのです。いえ、神と和解して、神と共に生きることができるようにされたのです。このようにイエスの十字架の御業を通して私たちの救いが確実に実現したことを聖書はこの神殿の幕が裂かれた出来事を通しても私たちに教えているのです。

4.百人隊長の告白

 さて、イエスを十字架にかけるために直接に働いたのは総督ピラトの部下であったローマの兵隊たちです。彼らは死刑判決を受けたイエスを侮辱したり(16〜20節)、またイエスの着ていた服をくじ引きして分け合う(24節)ことをしていたと聖書は語っています。いずれも、イエスに対して彼らが特別な関心を持っていなかったことを示す行為になっています。ところが、そのローマ兵のリーダーとも言える「百人隊長」がここで意外な言葉を語ったことを福音書は記しています。

 「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(39節)

 このとき十字架の周りに集まって来ていた人々はイエスが自分の力で十字架から降りて、自分を救って見せるなら、自分たちはイエスを信じようと語りました(29〜32節)。しかし、イエスは十字架の上でご自分が持っておられた力を自分のために使われることがありませんでした。イエスは無力な人間の一人として十字架に付けられ、神に見捨てられて、息を引き取られ、死なれたのです。しかし、この百人隊長はそのイエスの姿を身近で目撃することで、「本当に、この人は神の子だった」と語ったと言うのです。
どうして、百人隊長が十字架にかかって死なれたイエスの姿を見つめながらこのような信仰の告白と言える言葉を語れたのか、福音書はそのことについては一切説明していません。しかし、それは当たり前のことなのかもしれません。なぜなら、私たちが神を信じたことも、イエスを救い主として受け入れて信仰者となったことも、言葉では十分に説明のつくものではないところがあるからです。どうして、私たちはイエスを「神の子」と信じる者とされたのでしょうか。そこには神の不思議な御業が確かに働いているのです。そうでなければ、自分がキリストを信じることができるなどと言うことは起こらなかったからです。だから百人隊長もまた、神の御業によってこのような告白をすることができたと考えてよいのではないでしょうか。このとき、イエスの十字架を見て、この出来事を正しく理解できたのは聖書の世界とは無縁のローマの百人隊長であったとこの福音書は語っているのです。
 ここでは私たちがよく知っているクリスマス物語と同じような出来事が起こっていると考えることができます。神の子が人となられてこの世に誕生したことを祝うのがクリスマスの出来事です。そして聖書はこの出来事を神から最初に知らされたのは夜通し、野原で羊の番をする羊飼いたちであり(ルカ2章20節)、はるか東の方の国で占星術の研究をしていた学者たちだと教えているのです。いずれも、ユダヤ人たちからは蔑まれ、神の救いから真っ先に除外されるべき人だと考えられていた者たちです。ローマの百人隊長も同じです。ユダヤ人たちが神の救いにあずかれないと考えられていた異邦人がイエスに対する信仰の告白をここで語っているのです。
 この出来事はイエスの救いにあずかるためには人間の側には何の条件も神は要求されていないことを表しています。これまでユダヤ人たちは神の救いにあずかるためには割礼を受けて、神の律法を毎日に熱心に守る必要があると主張して来ました。つまり彼らは救いにあずかりたいなら自分たちと同じようにユダヤ人になって、ユダヤ人として生きなければならないと教えたのです。神の救いは神に選ばれた民であるユダヤ人と言う条件を持った人にしか与えられないと信じていたからです。
 しかし、神は彼らの誤りをこの百人隊長の告白を通しても教えられているのです。神はクリスマスの時には羊飼いを選び、東の国からやって来た占星術の学者たちを選びました。そしてイエスの十字架の死の出来事のときにはローマの百人隊長を選んでくださったのです。このことを通して神はキリストを信じるならば、誰もが無条件で救いにあずかることができることを私たちに教えてくださるのです。
 十字架上で神に見捨てられ、命を献げることで、私たちを救い出し、神と共に生きることができるようにしてくださったイエス、そのイエスを私たちが「神の子」と信じることができることは神の起こしてくださった確かな奇跡なのです。その奇跡を私たち一人一人はすでに体験して、今、このように神を礼拝する者とされていることを、私たちは今日も再び思い起こし、神への感謝をささげたいと思います。


祈祷

天の父なる神さま
 私たちのためにイエスを十字架にかけ、私たちと同じ立場に立たされるために、イエスを見捨て、そのイエスの命を与えてくださったあなたの御業を心より感謝します。このイエスは十字架の御業を通して私たちは神と共に生きることができるようにしてくださいました。そして私たちの人生にたとえどんなことが起こって、私たちが神から見捨てられることが決して起こらないようにしてくださいました。私たちはこのイエスの御業のゆえに、神に見捨てられる絶望から解放されたことを感謝いたします。どうか私たちが百人隊長のように、いつも私たちのために十字架に付けられたイエスを「神の御子」、「救い主」と告白して生きることができるように、私たちに聖霊を送ってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが十字架につけられたのは何時のことでしたか(25節)。それから三時間後の昼の十二時にどんなことが起こりましたか(33節)。
2.三時になってイエスは十字架からどのような叫びをあげられましたか。この言葉の意味からイエスはこのとき、どのような状況に追い込まれていたことが分かりますか(34節)
3.このイエスの言葉を勘違いして理解した人々は、どのような反応を示しまたか(35〜36節)
4.イエスが十字架上で息を引き取られたとき、どこでどのようなことが起こったと聖書は記していますか(38節)。この出来事はいったいどのようなことを表していたのでしゅうか。
5.このときイエスの十字架のそばに立っていた人は誰でしたか。彼はそこでどのような言葉を語りましたか(39節)。
6.この人の言葉が本当だとしたら、どうして「神の子」であったイエスが十字架に付けられ、神に見捨てられ、また死なれる必要があったのでしょうか。
7.イエスの死を遠くから見守っていた婦人たちの中にはどのような人たちがいましたか(40〜41節)。