2019.8.4 説教「兵士たちに侮辱される王」


聖書箇所

マルコによる福音書15章16〜20節(新P.95)
16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。


説教

1.十字架への道行き

 今日も皆さんと共にマルコによる福音書が伝えるイエスについての物語から学んで行きたいと思います。イエスはユダヤ人の指導者たちによって捕らえられ、そこで神を冒涜したという理由で死刑の判決を受けます(14章43〜65節)。何度も申しましたように当時のユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。ですから、囚人を裁判にかけ、死刑にする司法権はこのローマが握っていて、ユダヤ人たちにはありませんでした。そこでユダヤ人の指導者たちはイエスをこのローマの法廷にかけて死刑にさせようと企みます。当時のユダヤの総督であったピラトはある意味でイエスと共にこのユダヤ人の指導者たちの陰謀に陥れた被害者とも考えることができます。ピラトはイエスが無実であることを知りながら、結局はユダヤ人の指導者たちの願い通りに、イエスを死刑にする決定を下します(15章1〜15節)。そして今日の箇所からは実際にイエスが十字架に付けられて死刑にされるまでの過程が説明されています。
 カトリック教会の礼拝堂に行くと、礼拝堂の壁にイエスの十字架に関する何枚かの絵が飾ってあるところがあります。私は神学生の時代に近くにあった六甲カトリック教会に何度か行ったことがあります。そのときこの絵の前に立って祈りをささげている人たちの姿を目撃したことがあります。これは『十字架の道行き』というもので、イエスがピラトから死刑判決を受ける場面から始まって、墓に葬られるまでのおおよそ14枚の場面が絵に描かれています。信徒たちはそれを眺めながら祈りと瞑想をするのです。これはカトリック教会で中世の時代から現代まで守られている習慣です。カトリックの信徒たちはこの『十字架の道行き』をたどりながら、十字架にかけられたイエスと自分との関係を瞑想し、信仰生活を深めようとしているのです。
 私たちのプロテスタント教会ではこのような習慣は伝えられていません。それは宗教改革者たちが私たちの信仰を深めるためには聖書のみ言葉だけで十分であると判断したためです。そして聖書は確かにイエスの十字架への道行きを私たちに教えています。イエスは総督ピラトから死刑判決を受けて、十字架に付けられました。大切なことはこのイエスの十字架が私たちのためであることをはっきりと私たちが心に刻むことです。どうして、罪のないイエスが、神の御子であるイエスがこのような苦しみに会わなければならなかったのか。いったい誰がこのイエスを十字架にかけたのか。福音書は十字架の物語を記すことを通して、この問いを読者である私たちに問いかけようとするのです。

2.イエスを侮辱する兵士たち
①ローマによって実現した平和

 「パクス・ロマーナ」と言う言葉を皆さんは聞いてことがあるでしょうか。日本語にすると「ローマの平和」とよく訳されるそうです。正確に言えば「ローマがもたらした平和」とした方がよいのかもしれません。新約聖書の時代にほぼ地中海一帯の広大な地域を治めていたのがローマ帝国です。そしてローマ帝国は巨大な武力によって周辺諸国を次々と植民地にしていきました。そのローマ帝国よって地中海一帯に実現した平和がこの「パクス・ロマーナ」なのです。
 当時、ユダヤの国もこのローマ帝国の支配下にあってローマ皇帝から遣わされた総督がこの地域一帯を支配していました。総督とその軍隊は通常はエルサレムではなく、カイサリアと言う別の町に常駐していました。ただユダヤ人の最大の祭りである過越し祭の期間は、その警備のために総督はエルサレムにあった宿舎に滞在していたのです。今日の舞台となる「総督官邸」はそのエルサレムの宿舎を意味しています。記録によればエルサレムの町にはローマ兵が常に600人ほど配置されていて、その町の警備にあたっていたようです。

②イエスを王に仕立てて侮辱するローマ兵

 今日の物語は死刑判決を受けたイエスがこのローマ兵に引き渡されるところから始まっています。彼らはイエスを十字架につける処刑執行人としてここに登場しているのです。この直前に総督ピラトはバラバと言う人物を釈放して、その代わりにイエスを鞭打ってから、死刑にするために引き渡したと記されています(15節)。この鞭打ちに使われた道具は皮ひもできており、その先には金属のようなものが取り付けてあったと言われています。ですから、時にはこの鞭を受けるだけで囚人が死んでしまうと言うことも起こりえたのです。
 この鞭打ちを受けたイエスはこの時点ですでに体がかなり弱っていたと考えることができます。しかし、ローマ兵たちは容赦なくこのイエスを取り扱ったのです。

「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。」(16〜18節)。

イエスは肉体的に傷つけられただけではなく、ここではローマ兵たちから精神的な屈辱、侮辱を受けています。兵士たちはわざわざイエスに紫の服を着させ、茨の冠を編んでかぶらせています。当時、紫の衣は高貴な人物だけが身にまとうことが許されたものでした。おそらくローマ兵が紫の衣を持っているということはありえないので、これは兵士たちが来ていた赤茶けたマントを「紫の衣」に見立ててイエスに着させたと考えてよいでしょう。茨の冠はいばらのとげが王のかぶる王冠の飾りのように見えるのでこれを用いたのだと思います。ローマ兵士たちはこのような代用品を用いてイエスの身なりを王の姿に整えようとしました。そしてそのイエスに向かって「ユダヤ人の王、万歳」と叫んで敬礼したと言うのです。これは彼らがイエスに敬意を払っていたからではありません。兵士たちはイエスを自分たちの時間を満足させる余興の道具として考え、彼を徹底的に侮辱したのです。「また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。」(19節)。
ここで「葦の棒」がいきなり登場しますが、マタイによる福音書では兵士たちがイエスの右手にこの葦の棒を持たせたことが記録されています。これも王が持っている「王杓」に見立てるためであったと考えられます。記録によれば当時、ローマの兵士として働いていた者たちの大半はローマの出身者ではなく、ローマの植民地から召集されてきた人々だったようです。これらの植民地のある地方では祭りの際に死刑囚を王に見立てて行列を作って行進させて、最後に処刑すると言う風習が実際にあったようです。おそらく、ここに登場する兵士たちはその風習を知っていた人々なのかもしれません。
彼らは自分たちを楽しませるための余興の道具としてイエスをここで利用します。しかしその背後には無力で何もできないイエスのような存在は決して「王」ではありえないと言う彼らの確信が表明されていると言ってよいと思います。また、兵士たちはこのイエスに一時的であっても自分たちの将来についての希望を託そうとしたユダヤの民たちを軽蔑する意図も持っていたのかもしれません。当時の世界で誰もローマの巨大な力にかなうものはいない、平和をもたらすのはこの力を持ったローマ皇帝だけであると言う考えが、この兵士たちの行動にも表されているのです。

3.王座につかれるイエス

 しかし、聖書はこのローマ兵たちの愚かな行動を通しても、真の王としてこの地上に遣わされたイエスの姿を私たちに示そうとしていると言えます。当時のローマでは戴冠式を終えた王は行列を従えて、王が裁きを行う王座に就く習わしがあったと言います。ここでイエスはローマ兵たちの手によって戴冠式を終えました。そして王の行列と同じように十字架への道を進んで行かれたのです。つまり、この行列の目的であるイエスの十字架は真の王であるイエスが裁きを行う王座であったと言うことを福音書は私たちに示そうとしているのです。
 それではイエスはこのとき真の王として私たちのために十字架上でどのような御業を行おうとされたのでしょうか。旧約聖書のイザヤ書53章にはこのイエスの御業の意味をはっきりと預言して私たちに教えています。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53章3〜5節)

イザヤ書はイエスが私たちの王として私たちの神に対する背きの罪を負ってくださったこと、私たちが受けるべき刑罰である「咎」を代わりに受けてくださったことを預言しています。そしてこの王であれイエスの御業によって私たちに神との平和が実現すると言っているのです。
ローマ皇帝は巨大な軍隊の力によって地中海一帯の領土を支配し、その地に一時的な平和を実現しました。しかし、私たちの真の王としてやって来てくださったイエスは、武力ではなく、ご自分が十字架にかかられることで、私たちを支配する罪を打ち破り、私たちが負うべき咎から私たちを解放してくださったのです。このときローマ兵は何もできないイエスの姿を見て侮辱しました。「こんな人物は決して王ではない」と彼らは考えたからです。しかし、聖書はこのイエスこそが私たちの真の王であることを教えています。そしてこの王によってもたらされた平和は、決して私たちから失われることがないと語るのです。このように私たちの人生に、私たちの世界に真の平和を実現するためにやって来てくださった王こそイエス・キリストであると聖書は私たちに教えているのです。

4.真の王による平和

 先日、テレビで久しぶりに小野田寛郎さんの話が取り上げられた番組を見ました。もう、小野田さんがフィリピンのルバング島のジャングルで発見されてから45年の歳月が流れました。ですから今の若者はこの小野田さんの名前や写真を見ても分からない人が多いようです。しかし、おそらくここにおられる皆さんはよく知っておられると思います。戦争が終わって30年近く経ってもルバング島のジャングルに隠れてゲリラ戦を続けていた日本兵の生き残りの一人がこの小野田寛朗さんなのです。
 どうしてこんな悲劇が起こってしまったのでしょうか。その原因は当時の軍隊が兵士たちに向けて発した一つの命令にありました。「どんなことがあっても玉砕していけない。最後の一兵になるまで戦い続けろ。」小野田さんはこの命令を信じて、ルバング島のジャングルに30年近くも立て籠もりました。生き残った日本兵がいると言う知らせを受けて何度も日本から捜索隊が派遣されました。しかし小野田さんはこの捜索隊の呼びかけに対しても素直に耳を傾けることができませんでした。
 最後に日本兵を捜しに来た一人の冒険家とジャングルの中で遭遇した小野田さんは、どうして「呼びかけに答えて出てこないのか」と言うその冒険家の問いかけに、「上官の命令がない限り、自分の任務を放棄することはできない」と答えたと言うのです。戦争が終わって、日本軍はすべて解体されて、その命令も意味がなくってしまっていたのに、小野田さんの中では30年間、軍隊の発した命令が生き続けていて、彼をジャングルの中にとどめ続けていたと言うのです。
 聖書が伝える福音は私たちを古い生き方から解放し、自由にさせるために真の王から発せられた命令であると言えるかもしれません。私たちを支配した罪はこの王の力によって滅ぼされました。私たちはもはやこの罪の力を恐れる必要はありません。私たちを縛り続けていた古い命令に従う必要もなくなったのです。この真の王の命令に従って、古い生活から抜け出すことこそが私たちの信仰生活であると言えるのです。そして私たちの信仰生活にはこの王が十字架の御業を通して実現してくださった平和が与えられるのです。
 十字架の御業は私たちのために真の王として来てくださったイエスが行ってくださった戦いであると言えます。そしてこの戦いによって私たちの上に本当の平和が実現したことを聖書は私たちに教えているのです。


祈祷

天の父なる神さま
 ローマ兵たちはイエスが真の王であることを知らずに傷ついたイエスを侮辱しました。しかし、聖書は傷つき、侮辱され、十字架にかけられた方こそ、私たちの真の王であることを教えています。そして私たちがこの王の呼び変えに答えた、古い生活から離れ、新しい人生を始めることを勧めています。どうか私たちがこの世の力ではなく、この王に従い真の平和を受けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.総督ピラトは群衆の願いに従ってバラバを釈放した後、イエスをどのように取り扱いましたか(15節)。
2.兵士たちはイエスをどこにつれていきましたか。そこで兵士たちはイエスに対して何をしようとしましたか(16節以下)。
3.兵士たちがイエスにまとわせたものは何でしたか。それは何を意味するものでしたか(17節)。
4.兵士たちはなぜイエスを侮辱したのだと思いますか。
5.福音書がこのような出来事を私たちに示そうとした理由は何だと思いますか。