2019.9.1 説教「完全な者になりなさい」


聖書箇所

マタイによる福音書5章38〜48節
38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


説教

1.完全な者になる?

 今日はいつものマルコによる福音書の学びから離れて、マタイによる福音書に収録されている有名なイエスのお話、山上の説教の部分から「完全な者になる」というテーマについて考えて見たいと思います。イエスはここで私たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)と勧めています。しかし、そもそも私たち人間が天の父なる神と同じように完全な者となることは本当に可能なのでしょうか。そしてこの完全な者になると言うことは、私たちの人生をどのように変えるものなのでしょうか。
 現代人の抱える深刻な病の一つに神経症、ノイローゼと言う病気があります。以前、神経症について解説する本を読んでいて知ったことですが、神経症になりやすい人には一つの特徴があると言います。神経症になりやすい人の多くは「完璧症」というような性格を持っていると言うのです。「完璧症」の人は何をしても、自分の行為が不完全であることに悩みます。いつでも自分の行動を「あれができなかった。ここのところが不十分だった」と考えてしまうのです。だから何をしても達成感と言うってものを得ることができません。むかし、東部中会の高校生会の修養会の委員をやっていて、その時に高校生たちが作ったアンケート用紙を見てびっくりさせられたことがあります。そのアンケート用紙には修養会の講師である牧師が話した内容が「よかったか」、「わるかったか」…、二者択一の答えを書く欄しかありません。そのアンケートには「ここはよかったが、あそこは不十分だった」というような評価を記すようには作られていなのです。神経症に悩む人の評価の基準もこのアンケート用紙と同じです、自分がやったことを「よかったか」、「悪かったか」という二者択一でしか考えないのです。そして、神経症の人が選び出す答えは必ず「ダメだった」というものになってしまうのです。自分の人生についてこんな評価をし続けていたら生きる希望も力も無くなってしまうはずです。このように神経症で悩む人は自分を裁くことで、自分のエネルギーをほとんど使い果たしてしまうのです。
今でもイエスの語られた山上の説教を誤解して読んでしまう人がいます。彼らはここで語られているイエスの言葉を誤解して、「やっぱり自分はダメだ」と考えてしまいます。そして信仰的なノイローゼ状態に陥ってしまうのです。私たちはそうならないためにもイエスの言葉を正しく読む必要があるのです。

2.律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるために
①天国に入れる義とは

 今日の聖書の言葉はマタイによる福音書5章20節で語られている「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言うイエスの言葉と深い関係を持っています。イエスが活動していた当時のユダヤ人たちは「律法による義」と言って、聖書に記されている律法を厳格に守ることで自分の義を獲得できると考えていました。聖書の教える神は義なるお方です。その神のおられる国、天の国に入るためには、自分も義とならなければなりません。ですからユダヤ人たちは毎日、必死になって聖書の律法を守っていたのです。その中でも律法学者やファイリサ派の人々と呼ばれている人々は最も熱心に聖書の律法を学び、それを日々の生活の中で実践していました。ところがイエスは「その人々の義にまさった義を得なければ、誰も「神の国」=「天の国」に入ることができない」と言われたのです。きっとこの言葉を聞いていた人々は驚いたはずです。いったい、何をすれば神の国に入ることができるのでしょうか。そこでイエスが語ってくださった教えが今日の聖書箇所の言葉となっているのです。

②律法学者やファリサイ派の人々の教え

 今日の箇所での「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」(38節)と言う言葉や、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」という言葉が書かれています。これらの教えはそれぞれ当時の律法学者やファリサイ派の人々が主張し、人々に勧めていた言葉なのです。
「目には目を、歯には歯を」という言葉は旧約聖書の出エジプト記21章24節やレビ記24章20節に記されているものです。罪を犯した者にはその犯した罪と同じ罰を与えなければならないと言う決まりです。これは私たち人間が持つ誤った傾向を抑制するために与えられた掟だと言えます。なぜならば私たちは何か他人から害を加えられると、それ以上の害をその相手に与えて復讐しようと言う傾向があるからです。その人間の邪悪な傾向を防止して社会の秩序を守るためにこの掟は存在すると言えるのです。
 また、「隣人を愛し、敵を憎め」という命令はレビ記19章18節に書かれている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉を指しています。ところが後半の「敵を憎め」という言葉は聖書のどこを探しても見つけ出すことはできません。おそらく、この言葉は当時の律法学者やファリサイ派の人々が考え出した聖書の解釈から生まれて来たものだと考えられています。なぜなら、彼らは神を信じるユダヤ人とそれ以外の人との間に明確な線を引いて区別していたからです。神が与えた愛の掟は信仰を共にする仲間同士にだけ当てはまると考えたのです。だから、神を信じない人々は愛の対象とはなりえないと言うのです。イエスが語れた「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10章25節〜37節)は実はこのような考え方の誤りを指摘するために語られたものだとも言えるのです。

 そしてイエスはこのような律法学者やファリサイ派の人々の教えを超えた教えとして、今日の箇所で「復讐してはならない」、そして「敵を愛しなさい」と語られているのです。

3.自分が神になることの間違い
①社会の秩序の維持

 ところでここで聖書の教えている律法は私たち人間の生活にどのような役目を果たしているかについて改めて整理して考えて見たいと思います。実は聖書の教える律法は私たちの生活に大きく分けて三つの役割を与えていると考えることができるのです。
 まず、第一に律法の役割は私たちの住む社会の秩序を維持するために役に立つと考えられます。以前、聞いた話ですが、中東の国などに旅行すると必ず入国審査の際に「あなたの宗教は何か」という質問をされると言います。もしそのときに旅行者が「無宗教」と言ってしまうと、途端に入国審査官は「あなたは入国させることができない」と言って来ると言うのです。その理由は信仰を持たない人は自分の生活を律する何の基準も持っていないと考えられるため、その人は大変に危険な人物と判断されるからです。「人を殺してはいけない」と聖書ははっきりと教えます。これはユダヤ教徒もイスラム教徒もキリスト教徒も信じている旧約聖書に記された神の掟です。もしその人が神を信じていなければ「人を殺してはいけない」というこの掟は、その人には通用しないことになります。ロシアの作家のドストエフスキーの小説の中には「神を否定するなら、殺人を否定する根拠がなくなってしまう」と言う話が登場します。ですから神の律法は私たちの社会を無秩序な世界にさせない役割を果たしているのです。

②救い主イエスに導く案内人

 神の律法の第二の役割は私たちを救い主イエスに導く案内人の役割を果たすことです。イエスは。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9章12〜13節)と語りました。イエスは罪人を招くためにこの世界に来てくださった救い主です。ところが、私たちは「罪人」と言われても、自分がイエスに招かれている罪人だとは思えないのです。そこで必要となるのが聖書の教える律法です。私たちはこの律法を学ぶとき、自分がその律法に従うことができない罪人であることがよく分かって来ます。自分が救い主によって救っていただかなければならない罪人であると言うことが分かるのです。
 イエスは私たちが天国に入るためには「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさる義が必要だと教えています。聖書はその律法学者やファリサイ派の人々が追い求めた義を「律法による義」と呼んでいます。そしてそれにまさる義を「信仰による義」という言葉で紹介しているのです(ガラテヤ2章16節)。この「信仰による義」はイエスの罪人に対する招きに応じて、イエスを救い主と信じる人々に無条件で与えられるものなのです。そのため神の律法は私たちを「信仰による義」を与えてくださる救い主イエスに導くための教育係の役目を持っているとも言えるのです(ガラテヤ3章24節)。

③イエスを信じる者の感謝の生活の指針

 律法の第三の役割は私たちに「信仰による義」を与えてくださり、救ってくださったイエスに感謝し、そのイエスに喜んで従う信仰生活を送るための指針を教ることです。私たちは自分が救われるために神の律法に従うのではありません。私たちはイエスを信じる信仰によって既に救われているのです。それなら、このイエスによって救われた命をどのようにこれから使って行けばよいのでしょうか。それを教えるのが律法の役割だと言えるのです。ですからイエスに救われた者の新しい人生の送り方がこの律法には記されていると言ってよいのです

4.完全な神の赦しの中に生きる者の生活
①人を許す意味

 イエスの山上の説教の言葉はこの律法の役割の第二と第三に関係していると考えることができます。律法学者やファリサイ派の人々は律法を自分の力で必死に守って、自分の義を獲得しようとしました。だから、律法の教える範囲を自分の力で守れるレベルにする必要があったのです。人間は自分の力で復讐心をすこしは抑えることができても、その復讐心を失くすことは不可能です。また、自分の限りある愛の力では、当然その愛の対象も限られた人々に絞る必要があったのです。しかし、彼らは律法を自分勝手に解釈することで、自分たちが救い主の助けを必要とする罪人であることが分からなくなってしまったのです。だから、彼らはイエスの招きに答えることができませんでした。
 イエスは律法が私たちに本当は何を求めているのかを教えています。そしてこの律法を守ることができない者は明らかに罪人であると教えるのです。その上で聖書はイエスが私たち罪人をその罪から救い出すためにやって来てくださったことを教えています。そして私たちが救い主イエスの招きに答えるようにと求めているのです。
 この律法はイエスの招きに答えて新しい人生を始めた私たちが、イエスに救われた者としてどのように生きればよいのか、その方法を教えます。十字架でささげられたイエスの命と引き換えに救っていただいた私たちの命です。もし私たちがその命を他人への復讐のために、また他人を憎むために使い果たしてしまったとしたら、これほど残念なことはありません。
 あるとき教会に知らない方から電話がかかってきました。その人は自分の悩みを聞いてほしいと言うのです。自分は他人からとても辛い扱いを受けたことが、許せなく悩んでいる。昔のことを思い出すたびにその人たちへの怒りが沸いてきてどうにもならない…。私がお聞きすると、その人がそのひどい仕打ちを受けたのはもう何十年も前のことで、自分にその仕打ちをした人が今、どこにいるのか、生きているの、死んでいるのかも分からないと言うのです。その方はただ、「許せない」と言う気持ちを持ったまま何十年も生きて来たと言うのです。
 聖書は私たちに人を許すことを勧めています。「自分に害を与えた人を許すなんで、自分が損をするだけだ…」。そう思う人もいるはずです。しかし、聖書が私たちに人を許すようにと教えるのは、私たちが持つ深刻な復讐心から自由になって、人生の大切な時間を他のことに使うことができるようにするためなのです。イエスは、私たちが喜びをもって、平和な生涯を送ることができるように、私たちに救いを与えてくださったからです。

②完全な神によって完全に赦されている私たち

 しかし、そう言われても、私たちにとって「人を許す」と言うことはとても困難なことです。私たちは「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから」という主の祈りの一節を心に何かのひっかかりを覚えながら唱えます。「こんな自分が本当にキリストに救われた者と言えるのだろうか」。そう思って落ち込んでしまうことがあるのです。しかし、そんな私たちが忘れている重要な事実があります。そんな私が既にイエス・キリストの十字架によって完全に赦されているという信仰の事実です。神が私たちを赦してくださっているのに、どうして私たちはその自分を許すことができずに。自分を裁き続けているのでしょうか。神が私たちに与えてくださった赦しは完全なものです。この赦しの中に生かされている私たちは自分を裁く必要はもうないのです。私たちの持っている力は確かに不完全です。二者択一の判断基準で考えれば、私たちの行動はいつも「ダメ」と言うことができるかもしれません。しかし、神は私たちが神経症になるためにイエスを救い主として私たちに遣わしてくださったわけではありません。そして神に赦していただいた私たちはもはや自分自身を裁く必要はないのです。また自分の愚かさを嘆く必要もありません。神はその私たちを完全に赦してくださっているからです。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 不完全な私たちが完全な者となる、それは私たちの力では決して為し得ないことです。しかし、私たちにはできなくても、神にはおできになります。神は救い主イエスを通して完全な赦しを私たちに与えてくださいました。だから私たちは今の自分を赦すことで、新しい人生を出発する力を神から与えられるのです。


祈祷

天の父なる神さま
 私たちに救い主イエスを送ってくださり完全な救いを実現してくださったことを感謝いたします。私たちにはこのイエスによって「律法による義」にまさる「信仰による義」が与えられました。自分の力ではあなたの律法を満たすことができない私たちでありながら、そのことを忘れて信仰のノイローゼ状態に陥ってしまう私たちです。私たちがあなたが与えてくださった完全な赦しを思い起こし、まず今の自分を許すことで、信仰による喜びと平安を回復し、日々あなたから力を受けて、信仰生活を歩むことができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの活動された当時のユダヤ人たちは旧約聖書の教えにもとづいて復讐をどのように考えていましたか(38節)。
2.イエスはこの当時の人々の教えについてどのような見解をここで示されましたか(39〜42節)。
3.それでは当時の人々は愛について律法学者やファリサイ派の人々からどのような教えを聞いていましたか(43節)。
4.このおしえについてイエスはどのような見解を示さていますか(44〜47節)。
5.48節でイエスは私たちにどのようなことを求めていますか。このような要求を私たちが実現することは本当に可能でしょうか。このイエスの言葉の意味についてあなたはどのように理解していますか?