2019.9.29 説教「復活の朝」


聖書箇所

マルコ福音書16章1〜8節
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


説教

1.マルコによる福音書の最終回
①元々の福音書はどこで終わっていたか

 私はよくテレビで放送されているドラマを見るのが好きです。毎週、楽しみにしながら自分が気にいっているドラマ番組を見ています。ドラマというのは視聴者の関心をつなぎとめるために、いろいろな苦労をして制作されているのが分かります。特に韓国で作られたドラマなどを見ると必ず「次回の放送ではどうなってしまうのだろうか…」と、視聴者の心をその続編にひきつけさせるような巧みな終わり方となっています。ところがずっとそのドラマを楽しみにして見続けて来ても、いざ、最終回となったときにがっかりしてしまうようなドラマもあります。ドラマ制作者は何とかそのドラマをこの回で終わらせたいと言う思いがあるのでしょうか。今までのドラマ展開よりも何倍も速いスピードで結論へと導くドラマがあります。そのためかえって最終回のドラマのストーリが簡単になってしまっていて、がっかりすることがあるのです。日本のことわざには「終わりよければ、すべてよし」というものがあります。あまりにも最終回の内容が粗末になってしまうと、今までのドラマの印象全体を壊してしまうこともあるのです。
 皆さんと共にこのマルコによる福音書を学んできました。今日はその最後の部分、つまりマルコによる福音書の最終回を取り上げたいと思います。
 このマルコによる福音書の終わり方は他の福音書と違う大きな特徴を持っています。それはこの最後の箇所で、マルコはイエスの復活の出来事には触れているのですが、肝心の復活されたイエスの姿は一度も紹介しないままで福音書を終わらせてしまっているのです。実は私たちの読んでいる新共同訳聖書には今日の16章1節から8節の箇所の後にも、いくつかの物語が続けて印刷されています。しかし、この部分をよく見ると分かるのですが、この後は〔括弧〕で囲まれているのです。この印は括弧で囲まれた箇所の言葉が一部のマルコによる福音書の写本にだけ記されて、多くの有力な写本にはこの部分が載っていないということを示しているのです。
 ご存知のように聖書は元々、印刷されたものではなく、人の筆によって書かれ、それを書き写すという作業を通して伝えられました。印刷された聖書が出現するのは宗教改革の時代、つまり今から500年ほど前の時代です。ですからそれまで聖書はずっと人の手によって書き写されて来ました。残念ながらマルコが実際にこの福音書を書いたオリジナルな文章を現存していません。ですから、聖書学者は残された写本をたくさん集めて、それを調べて、オリジナルなマルコによる福音書の文章がどのようなものだったかを推測します。これは聖書学の中の「本文学」という学問になって、現代までかなり研究が進んでいます。その結果、私たちが今もっている聖書のテキストは本来のオリジナルに近いものとなっていると考えることができようになったのです。つまり、現代の本文学では元々のマルコによる福音書は16章の8節で終わっていると考えるのが常識となっているのです。

②マルコの残したミステリー

 すると、ここで問題になってくることはマルコがなぜ他の福音書のように、復活されたイエスの物語には一言も触れないままで自分の福音書を終わってしまったのかと言うことです。今日の箇所を読んでわかるように、マルコは空になった墓を示すだけでこの福音書を終わらせてしまっているのです。福音書はミステリアスな最後で終わってしまっているのです。
 はっきりしていることは、マルコは決して復活されたイエスを知らなかった訳ではないと言うことです。このマルコによる福音書が書かれたのは早く見積もっても紀元70年頃と考えられています。もしこのマルコが教会の伝承通りに、かつてパウロとバルナバと一緒に伝道旅行に参加したマルコであったとしたら、そしてそのあとペトロの協力者となった人物だと考えるとしたら、マルコが彼らからイエスの復活の出来事を聞いていないわけはありません。マルコが実際に仕えたペトロはイエスの復活の後、何度も復活されたイエスに出会っている人物です。それなのになぜ、マルコは彼らの証言をこの福音書に残すことをしなかったのでしょうか。
 この点に関しても学者たちはいろいろな推理をしています。たとえば本当はマルコによる福音書にも他の福音書に描かれている復活されたイエスの物語が記されていたが、何らかの理由でその部分が失われてしまったと考える人がいます。また、別の学者は、マルコはひとまずここで福音書を終わらせているが、続けて続編の物語を記す予定があって、そこで復活されたイエスの姿を描く予定があったと説明する人もいるのです。そのほかにもいろいろな推測がこの件に関してなされていますが、今となっては何が正しいのかを確かめる手段はありません。

③結末は私たち自身の信仰生活にある

 いずれにしてももし、私たちが現在に残されたマルコによる福音書の終わり方をそのまま受け入れるとしたら、私たちはここからどのようなことを教えられるのでしょうか。確かにイエスの復活は否定することのない歴史的事実です。もし、この事実を否定してしまうなら使徒パウロが言っているように私たちの信仰自身が無駄になってしまうのです(コリント第一15章14節)。
 キリスト教信仰にとってイエス・キリストの復活はすべての教えを支え、キリスト教信仰を成り立たせる根本的な出来事だと言ってよいのです。だから、復活を否定する教会は真のキリスト教会と呼ぶことはできません。
 それではマルコはなぜ、私たちの信仰にとってこれほど大切な復活されたイエスの姿を福音書の最後に記さなかったのでしょうか。それは、復活されたイエスに私たち自身が自分の信仰生活の中で実際に出会うことができることを教えているためと考えることができます。この日の朝、復活されて墓から出て行ったイエスは、今も天で生きてくださっており、信仰生活を送る私たちにそこから聖霊を送ることによって、私たちと出会ってくださるのです。マルコは誰かとイエスの出会いの物語を学ぶより、私たち自身が復活されたイエスと出会うことが大切であることを教えよとしているのでしょう。だからマルコはこのような福音書の終わり方を残したと考えることができるのです。

2.婦人たちは墓に何をしたかったのか

 今日の箇所で興味深いのは最後の「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)という終わり方です。この文章を読んでみるとこの時点で婦人たちはイエスの復活という出来事をまだ信じていなかったことがわかります。空になった墓とその墓にいた若者、彼はイエスの復活を彼女たちに告げるために遣わされた天使であったと考えることができます。その天使の証言を聞いても彼女たちは恐れるだけで、その事実を受け入れることができなかったのです。
 それではなぜ、彼女たちはイエスの復活を信じることができなかったのでしょうか。それは彼女たちがこのとき何をしにこの墓までやって来たかという理由から考えることが可能です。

 「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた」(1〜3節)。

 彼女たちはこのとき「イエスに油を塗りに行くために香料を買って」その墓に向かっていました。なぜ、彼女たちはそんなことをする気になったのでしょうか。死んでしまったイエスの遺体はもうそこで腐敗し始めていると彼女たちは確信したからです。彼女たちが買い求めた「香料」は遺体の腐敗臭を幾分でも和らげるために用いられるものでした。これは日本の仏式の葬儀で使われる線香やお香と同じ役目を果たすものです。人間は死という現実に抵抗できるすべを持っていません。だから彼女たちはせめて自分たちにできることをしたいと願って、このときイエスの墓に向かっていたのです。イエスの死という現実をすでに確かめにいた彼女たちにとって、イエスの死は動かすことのできないものと確信されていました。彼女たちは目の前に起こった現実と、そしてそれを自分たちの経験だけで判断しようとしたために復活されたイエスを墓の中に探すと言う誤りを犯すこととなったのです。
 わたしたちもまた、自分の目の前の現実を自分が今まで経験した出来事に基づいて判断をしたりしています。これがいわゆる科学的判断と言えるものです。しかし、聖書は私たちのこの判断には限界があることを教えています。この世界には私たちの判断を超える神の御業が存在するからです。聖書は私たちの科学的判断を必ずしも否定するわけではありません。むしろ、私たちが私たち自身の知識を超える神の御業を受け入れるとき、私たちの判断はもっと豊かにされることを教えているのです。
 イエスの復活を信じる信仰は私たちを迷信の世界に逆戻りさせるものではありません。むしろ、現代を生きる私たちの人生を豊かなものにするためにイエスの復活は実現したのです。

3.復活されたイエスと出会うために
①人間の小さな期待の中では収まらない神の計画

 イエスの墓に現れた天使はそこに居合わせた婦人たちにいくつかのことを指示しています。一つは復活されたイエスの姿を墓の中に捜そうとしても無駄だという指示です。もし私たちが聖書のメッセージを私たちに知り得る知識や経験の範囲の中で受け入れようとするならば、彼女たちと同じような過ちを犯すことになります。そのような方法で聖書を読む人も、確かにそこから何らかの知恵を得ることができるかもしれません。しかし、この方法では復活されたイエスと自分の信仰生活の中で出会う機会を失ってしまうことになります。
 天使は婦人たちの誤りを指摘したうえで、さらに次のような指示を語っています。

 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(8節)

 天使はこのイエスの復活のメッセージをペトロたち信仰の仲間たちと分かち合うようにと彼女たちに命じています。その上で婦人たちに託されたペトロたちへの伝言の言葉は大変興味深い内容になっています。第一にイエスの復活は決して何の予告もなしに起こった出来事ではないと言うことを表しています。ここには「かねてから言われたとおり」と語られています。イエスはかつて弟子たちにご自分が十字架にかけられて死ぬことと、三日目に再び甦ることを伝えていました。だから、弟子たちはこの出来事を知らなかったのではなく、本気にしなかっただけなのです。それはおそらくイエスによって地上に王国を建てようと考えた彼らの願いと合わないと判断されたからです。だからこのことからもイエスの復活は人間のあらゆる期待を超越するような、神の素晴らしい御業であったことが分かります。神は私たちのために私たちの願望を超えた、素晴らしい救いの出来事をこのイエスの復活を通してこの地上に実現して下さったのです。

②最初に戻って、もう一度始める

 さらに、天使は復活されたイエスと再会するために弟子たち「ガリラヤに行け」と教えています。このガリラヤやイエスと弟子たちの出身地であり、イエスに出会った彼らが、イエスの弟子とされて、イエスと共に生活を始めた最初の場所です。つまり、この天使の指示は、弟子たちに再びイエスの後に従って弟子としての生活を始めるようにと促していると考えることができます。ですから復活されたイエスと会う場所は、特別な場所ではなく、彼らが今まで続けてきた信仰生活の中にあると語っているのです。
 さらに、このガリラヤという地名はこの福音書を読む読者に特別な意味を教えています。ガリラヤはイエスが救い主として最初に行動を開始された場所です。ですから、ガリラヤに戻ると言うことは、福音書の最初に戻ると言う意味を持っています。テープレコーダが最初の再生箇所に戻ることをオートリバースと言いますが、福音書を読む私たちも、最後から最初にもう一度戻って福音書を読む必要があります。婦人たちが目撃した空になった墓の出来事を思い出しながら、私たちがもう一度聖書を読み、その言葉を心に刻んで生きるならば、復活されたイエスがその聖書の言葉を通して私たちに出会ってくださるのです。私たちは復活されたイエスに出会うために、特別な修業をする必要はありません。聖書を読み、その言葉に従うなら、私たちの経験や常識を超えた神の御業が私たちの信仰生活の中で働いてくださるからです。そして私たちは確かにイエスが復活されて今も生きておられることを知るようになるのです。なぜなら、復活されたイエスが天から聖霊を送って、私たちの信仰生活を毎日導き続けてくださっているからです。


祈祷

天の父なる神さま
 マルコによる福音書を最後まで学ぶことができたことを心から感謝します。この福音書のホントの結末は私たちに一人一人の信仰生活の上に起こることを信じます。そのために私たちが何度も聖書に記されたイエスの言葉に耳を傾け、その言葉に従うことができるようにしてください。イエスがガリラヤで弟子たちを待ってくださったように、私たちのこれからの信仰生活の行く手であなたがいつも私たちを待ってくださることを感謝いたします。どうか私たちが喜びをもって主の復活を確信し、その出来事を証し続けることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.安息日が終わった後、イエスが葬られた墓に行った人々は誰でしたか。その人たちは何をするために墓に向かったのですか(1節)。
2.その人たちがイエスの葬られた墓に着くと、そこでどのようなことが起こりましたか(3〜5節)。
3.イエスの墓の中にいた若者はどのような恰好をしていましたか。この若者の正体は誰だと思いますか(5節)。
3.この若者はどのようなことを語りましたか(6〜7節)。
4.8節を読むと、日曜日の朝、イエスの葬られた墓に向かった人々はそこで起こった出来事にどのように反応していることがわかりますか。この反応はその人たちのどのような心の状態を示していると思いますか。