2019.9.8 説教「十字架上のイエスの仲間」


聖書箇所

ルカによる福音書23章39〜43節
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


説教

1.イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪人
①イエスを真の神の子と認める

 今日も皆さんと共に「イエスに出会った人々」というテーマで聖書の物語を学びたいと思います。私たちは今までこの礼拝で、イエスに出会った様々な人々の姿を取り上げて来ました。皆さんも、聖書を読んでいて、「この人は私に似ている」と思えるような人物に巡り会えたかも知れません。もちろん、このお話は神を礼拝するためのものですから、聖書に登場する様々な人々を取り上げているように見えても、実際の主題はイエス・キリストと言う人物に向けられています。つまり私たちはこのイエス・キリストと言う人物を聖書に登場する様々な人々の視点を通して見つめ直すと作業を今、していると言えるのです。
 前回の伝道礼拝ではイエスの十字架を取り囲んだ様々な人々について取り上げて学びました。そこに登場する多くの人々はイエスの本当の姿を理解することができませんでした。むしろ彼らは自分たちの持っていた救い主への期待というフィルターを通して、イエスを見ようとしたのです。だから彼らは本当のイエスの姿を全く理解することできません。そして彼らは「イエスは自分たちに不必要な存在」と判断して、十字架に付けてしまったのです。その中で唯一人、十字架刑を執行したローマ兵のリーダーであった百人隊長だけはイエスを「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15章39節)と発言したことも学びました。
 この百人隊長はイエスの十字架の姿を見つめながら、イエスが「真の神の子」であるとことを認めています。この百人隊長とイエスとの出会いから分かるのは、イエスと私たちと出会いにとって最も大切なことは、このイエスを「真の神の子」と信じること、つまりは真の神であられたイエスが人となられてこの地上に来てくださったことを認めることが大切であると言うことです。
 この世には聖書をよく読んでいて、そこに記されているイエスの生き方やその教えの素晴らしさに感動を覚える人はたくさんいます。しかし、その多くの人はイエスを自分の人生に役立つ教えを語る偉人とまでは認めても、彼を「真の神の子」であるとは認めません。なぜならイエスを神の子であると認めることは、単なる人間の認識の問題ではなく、信仰の問題だからです。私たちがイエスを神の子として認めること自体が神の奇跡であって、聖霊の働きを受けた証拠であると言えるのです。

②天国を盗んだ泥棒

 今日のお話にはイエスと一緒にゴルゴダの丘で十字架にかけられた二人の犯罪人が登場しています。一方の犯罪人はこのとき十字架の周りに集まってきていた人たちと同じような態度をイエスに対して示しています。彼はイエスを神の子とは認めず、かえってイエスをののしるような言葉を語っています。しかし、もう一方の犯罪人は違いました。彼はイエスを信じ、イエスと共に歩む信仰の決心を語っているからです。
 私はまだ教会で求道中であったころに、この犯罪人に付けられた特別なあだ名を教会の人から聞いたことがあります。この人のあだ名は「天国泥棒」と言うのだそうです。イエスは天の国、神の国についての福音を多くの人々に語り伝えました。イエスは私たちをこの天国に招くためにやって来られた救い主だからです。そのイエスの招きに答えて、たくさんの人がイエスの弟子となって従いました。そしてその後、弟子たちはイエスと苦楽を共にしながら生活したのです。ところがここに登場する犯罪人は人生の最後の場面、十字架の死の瀬戸際に立たされて、はじめてイエスへの信仰を告白します。その上で彼はイエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言う約束をいただいたのです。彼は今まで全くイエスと無関係に人生を生きて来たのに、最後の最後になってイエスから素晴らしい約束をいただいています。彼は今まで何の苦労もしていないと言う意味で、しかも彼は他の福音書では「強盗」であったと解説されていますから、彼が最後になって盗んだのは天国だったと言うことになります。だから彼は「天国泥棒」と人々から呼ばれることになったと言うのです。
 もちろん、彼は決してイエスから何かを奪って行ったわけではありません。イエスは人生の最後に信仰を告白することができたこの人に、喜んで天国の祝福を与えてくださったのです。このことは私たちに「イエスを信じることに遅すぎたということは決してない」と言うことを教えています。人生の最後の瞬間にイエスを信じたとしても、イエスから最高の祝福を受けることができることをこの人物は証明しているのです。イエスの与えてくださる祝福は私たちがその人生で払った何某かの苦労によって与えられるものではなく、イエスが十字架でなされた御業によって私たちに与えられるものだからです。イエスはこの祝福を、ご自分を信じる者には誰にでも喜んで与えてくださるのです。

2.自分の人生の責任を認める

 イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の姿、この姿を通して私たちはイエスを信じる信仰にとって大切なことは何かを知ることができます。なぜなら一方の犯罪人はイエスを罵って「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と語っていまが、もう一方の犯罪人はこの発言をした人物をたしなめて「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」(40〜41節)と語っているからです。
 この発言からイエスを信じる者は自分の人生の責任を自分で認めなければならないことが分かります。ところがイエスを信じることのできない人々はそうではありません。自分の人生の責任を認めないで、かえってイエスを期待外れの人物に過ぎないと考えているのです。
 この世では口を開けば他人の悪口を語り、自分の人生の責任は棚上げにして、その責任を他人に負わせることに必死になっている人がいます。「私がこんなに不幸なのは自分の両親のせいだ」、「自分は信じていた友人に裏切られた」、「自分を陥れた人々を許すことができない」、そんな言葉を語り続ける一方で自分の責任は何も認めない人がいます。いつも被害者意識だけを抱いて生きているのです。
 なぜそうなってしまうのでしょうか。おそらくそう考える人は自分が自分の人生を決めて来たという実感を持っていないのです。いままで誰かに言われるままに自分の人生を送って来たと考えているからこそ、その他人を責めることに必死なってしまうのです。自分の人生をコントロールしてきた人々がいて、自分はまるでその人たちの奴隷のように生きて来たと思っているのです。しかし、本当にそうなのでしょうか。実はそうではありません。彼らは何も決断して来なかった訳ではありません。自分で自分の人生を他人に委ねる決断をして来ただけなのです。
 この世の学問の中に社会心理学と言う分野があります。その学問では多くの人間は自分で自分の人生に大切な決断を下すことを避けて、その決断を他人にゆだねる傾向があることが教えられています。独裁者を生む論理はそこにあると言われているのです。誰か他人に決断を任せれば、自分の責任を回避できると人間は考えるからです。そして多くの人は独裁者に自分の人生をゆだねる決断を下しているのです。
 このようにどんなに自分で人生の決断を下すことを避けて、他人にその責任を任せたとしても。結局、私たちは自分の人生の責任を引き受けなければなりません。神の前で私たちは自分の人生の責任を回避することはできないからです。
 イエスと共に十字架に付けられたこの人がいったいどのような罪を犯していたのか、聖書には詳しく説明されていません。おそらく彼はこのときイエスの代わりに釈放されて行ったバラバと同じように、ローマへの抵抗運動に身を投じて、そこでテロリストのような働きを担っていたのかもしれません。彼はたくさんの人の命を奪ったと言う罪を問われて、十字架に付けられていたと考えることができます。彼は、その自分の罪の責任をすべてここで認めているのです。自分は自分の意志でこのような重大な罪を犯した、だからその罰を受けて死刑になるのは当然だと告白しているのです。
 イエスを信じる者にとって大切なのは、まず自分の人生の責任が自分にあることを認めることです。他の誰かのせいではなく、自分が神から離れ、神に背を向けて歩んできた、その人生で犯した罪の責任があることを認めるのです。そして私たちは本来、神から永遠の滅びの刑罰を受けるにふさわしい罪人であること認める必要があるのです。

3.自分の人生を主にゆだねる

 それではどうして私たちは自分の人生の責任を認める必要があるのでしょうか。なぜなら、私たちが自分の罪の責任を認めない限り、私たちとイエスとの関係が無くなってしまうからです。イエスと共に十字架にかけられた犯罪人は「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と語っています。彼が語るようにイエスは何の罪を犯したことのないお方でした。彼は誰かに罰せられるべき罪を犯したことは一度もない方なのです。そのお方が十字架にかけられて死んで行きました。本当であれば、ご自分でご自分の命を救う力を持っておられる方が、あえてその力を一切使わずに、十字架の上にとどまり続けて、最後には神に見捨てられて孤独な死を体験されたのです。それはどうしてでしょうか。
 イエスは私たちのために死んでくださったのです。私たちの犯した罪の刑罰を代わって引き受けてくださるために十字架につけられ、そこで命をささげてくださったのです。それなのにもし、私たちが「自分には神に罰せられるべき罪はない」と言うならどうなってしまうでしょうか。自分の人生で犯した罪の一切の責任を自分以外の誰かに負わせ続けるならどうなってしまうでしょうか。その人はイエスの十字架の意味が分からなくなってしまうはずです。そしてイエスと自分との関係が分からなくなってしまうのです。
 このときイエスの十字架の周りに集まっていた人々、そしてイエスと共に十字架に付けられたもう一人の犯罪人はイエスと自分との関係を理解することができませんでした。なぜなら、彼らは自分の人生の責任を認めていなからです。彼らの関心は、イエスが自分たちの願望をかなえることができるかどうかに置かれていました。だから、彼らは十字架にかけられたイエスの姿を見て、「期待外れだった」、「全く役に立たない」としか判断できなかったのです。
 このように自分の人生の責任を放棄する者は真の信仰を持つことはできません。もしその人がイエスを信じると言ったとしてもそれは信仰ではなく単なる「甘え」と言ってもいいのかもしれません。そのような人々は自分の願望と違うことが信仰生活に生じると「こんなはずではない」と考え、「こんな信仰は役に立たない」と判断ことになるからです。イエスが十字架にかけられたときに周りに集まった人々はこのような人々であったと言えるのです。

4.パラダイスとはどこか
①犯罪人の信仰

 しかし、イエスは自分の人生の責任をはっきりと自覚し、その上でご自分に助けを求める人の言葉を決して無視されることはありません。死の淵に立たされながらイエスに向かって「助けてほしい」と願いでた人の言葉をしっかりと受け止めてくださる方なのです。
 十字架の上でこの犯罪人は最後の力を振り絞るようにイエスに向かって語りかけます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と。「お前が神の子ならば、俺を助けて見ろ」そんな傲慢な言葉を語った犯罪人とは対照的な言葉がここには記されています。この犯罪人はイエスに「思い出してください」とだけ語っているからです。「あなたが思い出してくれるなら、私はそれで十分です」と語ったのです。もし、この犯罪人がイエスをただの人間だと考えていたらこんな言葉を語ることはありません。自分と同じように十字架に付けられて死んで行く人間に何を願っても無駄だと言えるからです。しかし、この犯罪人は信仰を持ってイエスに語りかけています。イエスは決して十字架で死んで終わってしまうような方ではなこと、やがては復活され、人間の死に対して勝利することができる神の子であることを信じているのです。

②楽園とはどこか?

 イエスはこの犯罪人の「思い出してほしい」という言葉にはっきりと答えられました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。実はこのイエスが語る「楽園」とはどのような場所かを聖書は詳しく説明していません。私たちがこの地上の生を終えていくところはどのようなところなのか?。聖書は私たちの好奇心を満たすような説明を一切していなのです。たとえば「楽園」と言う言葉を聞けば、私たちは最初の人間が住んでいたエデンの園のことを思い出します。私たちは地上の生を離れた後、エデンの園に住むことができるのでしょうか?。それもはっきりとはわかりません。しかし、聖書はただ一つはっきりと私たちに教えていることがあります。「あなたは今日わたしと一緒にいる」。聖書が語る楽園とはイエスがおられるところです。言葉を換えればイエスが一緒にいてくれるところであれば、たとえそこがどこであろうと、そこは私たちにとって「楽園」と呼べるのです。それはどうしてでしょうか。私たちを愛して、私たちのために十字架にかけられ、命までささげてくださったお方が、私たちから離れず、私たちと共に生きてくださるからです。私たちとってこれほど安心で、喜びに満たされる場所は他にどこにもないのです。

 初代教会の最初の殉教者と呼ばれるステファノは死の直前にこう語ったと言われています。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7章56節)。彼はイエスが自分を迎えるために天上で待っていてくださる姿を目撃して勇気づけられ、慰められました。
 このように自分の人生の責任を認めた上で、イエスに助けを求める者の願いにイエスは必ず答えてくださるのです。そしてイエスを信じることに遅すぎることはありません。今からでも、イエスを信じるなら、イエスは喜んで、私たちをイエスがおられるところ、「楽園」に迎え入れてくださるのです。


祈祷

天の父なる神さま
 十字架に付けられた犯罪者の姿から信仰についての真理を教えてくださりありがつございます。自分の人生の責任を認めず、自分が神の裁きを受けるべき罪人であることを認められない人は、イエスの十字架の意味が分かりません。どうか私たちが自分の人生の責任を認め、自分が裁きを受けるべき罪人であることを悟ことがでるように、聖霊を遣わして、私たちの心を照らしてください。そしてイエスに助けを求めることができるようにしてください。
 イエスは信仰を告白する私たちをといつも一緒にいてくださり、どこにあってもそこを楽園と変えてくださいます。その祝福を信じて信仰生活を続けることができるように私たちを助けてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが十字架につけられたとき、一緒に十字架に付けられた人々はどういう人たちでしたか(32〜33節)
2.十字架につけられた犯罪人の一人はイエスに向かってどのような言葉を使って罵りましたか(39節)。彼はイエスをどのような人物と考えていたのでしょうか。
3.もう一人の犯罪人はどんな言葉を語りましたか(40〜41節)。この言葉から彼がどのような人物であることが分かりますか。
4.この人はイエスに対して最後の力を振り絞ってどのような願いを語りましたか(42節)。イエスはこの人にどのような返事をされましたか(43節)。