2021.1.10 説教「羊とやぎの話」


聖書箇所

マタイによる福音書25章31〜46節
31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


説教

1.私たちの人生を正しく評価してくださる方
①先の二つのたとえ話の結論を語るお話

 今年もこの伝道礼拝では昨年に引き続いてイエスの語られたたとえ話を皆さんと共に学んで行きたいと思います。ところが、実はたとえ話と言っても今日の聖書箇所は厳密に「たとえ」と言えるのかと言う点で人によって意見が異なっています。確かにこのお話では天の祝福を受け継ぐ者たちが「羊」として、呪われた人々が「山羊」にたとえられて表現されています。しかし、このお話の中心はやがてイエスが再臨されるときに行われる最後の審判について教えているもので、「たとえ話」と言うよりは世の終わりについてのイエスの説教そのものであると言う方がふさわしいと考える人も多いのです。
このマタイによる福音25章には先に私たちが学んだ「十人のおとめ」のたとえ話(1〜13節)、次に「タラントン」のたとえ話(14〜30節)が語られています。この二つのお話はそれぞれ別のことを言っているように思えるのですが、よく読んでみると分かるように今日のお話と同じくイエスの再臨と、それに伴う最後の審判についての教えが語られているのです。ですから多くの聖書の解説者は今日のお話がこの二つの話を受け継いだ結論を語っていると説明しています。賢いおとめたち準備した油とは何なのか、主人がその僕たちに預けたタラントンとは何なのかが今日のお話を通して始めて明らかになると言うのです。

②あいまいな自己判断、神の正しい裁き

 私がカウンセリングを勉強し始めた頃のお話です。出席したカウンセリングスクールの実習で二人一組になってお互いに「自分の人生で一番楽しかったことを語る」という課題が与えられました。ところが、私とペアを組んだ人は「人生で一番楽しかったことは」と言う私の質問に即座に「わたしの人生で楽しかったことなど一つもありません」と答えられたのです。私はこの答えを聞いて、どう返答していいのか頭を抱えてしまいました。しかし、その人のお話を詳しく聞いてみると、その方はそのとき深刻な問題を抱えてこのカウンセリングスクールに来られていることが分かりました。つまり、その方はこの時、「自分は不幸のどん底にある」と思うような状態に立たされていたのです。
人間と言うものは不思議なもので「今の自分は不幸だ」と思ってしまうと、その人の思い出すことのできる記憶はすべて過去の不幸な体験だけなってしまいます。それは「自分は不幸だ」と言う認識に間違いがないと証拠づけるためです。そのためその人は過去に出会った「楽しかったこと」や「うれしかった」体験をすべて記憶の引き出しの奥深くにしまい込んでしまうのです。そして、このことは全く逆な現象も生み出します。「今、自分は幸せだ」と思う人はその人の過去に起こった楽しい出来事だけを思い出すことができるからです。またそれがたとえそのときにはつらい出来事だったとしても「今の自分が幸せになるために、あのことはとても役に立った」と結論づけることできるようになるのです。このような意味で私たちの持つ自分の人生についての自己評価は極めて主観的であって、いくらでも変わり得るものだと言うことが分かります。聖書は神が私たちの人生を裁かれるときが必ずやって来ることを教えています。この裁きは私たちの自己判断と違い、客観的で正確なものであり、決して変わることがないものであると言えます。そしてその裁きを行うために主イエス・キリストはこの地上に再び来てくださることを今日のお話は私たちに教えているのです。

2.羊と山羊に分けられる

 この裁きのときに主イエスは神の祝福を受けるべき者たちを「羊」として、また呪われた者として永遠の火入れられる者たちを「山羊」として右と左に分けられます。これがイエスによって行われる最後の審判と言ってよいのです。その際に両者を分ける裁きの基準は何かと言えば、それはこの世の人々には顧みられないような「小さな者」たちにどれだけ愛の業を施したかによると言うのです。口先や言葉だけではなく、実際にその小さな者たちに助けの手を差し伸べて愛を示した者たちがイエスによって「羊」として分けられ、神の祝福を受けるものとしてイエスからお褒めの言葉をいただくことができるのです。このお話はある意味とてもシンプルな教えを語っているように思えます。なぜなら、ここで羊や山羊たちに神から与えられるものは、彼らの人生で彼ら自身が行ってきたことに対する当然の報いと言えるからです。よいことをすれば評価され、それを怠った人は罰を受けることは、この世の教育も教えているもの、つまり世の常識とでも言えるのです。もちろんこの教えが世の中の現実と本当に一致しているかと言うことは別にしてですが…。
 しかし、このお話で問題となることが二つあると思います。その一つは私たちが神の国を受け継ぐことのできる条件です。ご存知のように聖書は私たちが神の祝福を受けて神の国を受け継ぐことができるのは、神からの恵みによってイエスを救い主として信じることがでる人たちです。ところが今日のお話を読むと、これとは違って私たちの行う愛の業が私たちに神の国を受け継ぐ基準となっているように読めるのです。これでは聖書はダブルスタンダード、異なった二つの基準を教えていることになってしまうのではないでしょうか。

 さらに、もう一つ問題となるのは次のようなことです。もし、私たちがこのお話を読んで、「そうか自分が救われるためには、小さな者たちを愛さなければならないのだ。そうしなければ自分は地獄に落ちるかも知れない」。そう考えて必死に愛の行いを実践しようとしたとします。しかし、そこで行われる愛の業は本当に「愛」と呼べるものなのでしょうか。
 以前、カトリックの病院で療養していた人が、そこで働くシスターたちの働きを見て、「自分は彼女たちが善行を積むための道具とされているような気がする」と考えて、「彼女たちの道具とされるのはいやだ」と言って一般の病院に移ってしまったと言うお話を聞いたことがあります。この話はシスターたちの働きを誤解していると当人に問題があったと言えるかも知れません。しかし、もしその人がなした小さな者たちへの愛が、自分が救われるためのものであり、そのために「小さな者」たちが道具として用いられているとしたら、その人の行為は決して「愛」と呼ぶことはできないのではないでしょうか。

3.愛は神から出るもの

 この問題への答えは聖書の言葉の中に隠されています。なぜなら聖書は私たちに「愛」は神から出るものだと教えているからです(ヨハネの手紙一4章7節)。ですから私たちがどんなに努力しても、私たちの内側から真の愛が生まれて来ることはできないのです。愛は神が私たちに与えてくださる賜物だと言えるからです。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)。

私たちはこのイエスの言葉を「羊」たちが既に神に祝福されていた人たちであって、天地万物が造られる前から神によって選ばれた者たち(エフェソ1章4節)だったからこそそれが可能であったと言うことができるのではないでしょうか。つまり、この人たちはイエスを信じ、自分たちに向けられたそのイエスの愛を知っていたからこそ、小さな者たちに手を差し伸べて、愛の業を行うことができたと考えることができるのです。
その証拠にこのお話に登場する「羊」と言われる人たちは、自分が小さな者たちに、さらにはそれを通して主イエスに行ったとされる愛の業を全く自覚していません。だから彼らはイエスからお褒めの言葉をいただいても「わたしたちはいつ、そんなことをしたのでしょうか」と首を振って答えているのです。もし、彼らが「よし、自分が救われるために、愛の業を行おう」と決心して、それらのことを行っていたとしたら、彼らは決して自分がしたことを忘れているはずはありません。「神さま、私はこんなことも、あんなこともしました」と自分をアピールするはずなのです。しかし、ここに登場している「羊」たちにはその意識がありません。ですからこれは彼らにとって特別な行いではなく、日常の当たり前の行いであったと考えることができるのです。
聖書は「愛には恐れがない」(ヨハネの手紙一4章18節)とも教えられています。だからもし、「自分が地獄に落ちないために、人を愛そう」としても、それは愛とは決して言えないのです。なぜなら、それは恐れから出たものとなるからです。ここに登場する「羊」たちにはこの恐れがなかったのです。だから彼らは当たり前のこととして人を愛することができました。それではどうして彼らは恐れから解放されていたのでしょうか。この「羊」たちは既にキリストの救いにあずかっていて、そのキリストによってすべての恐れから解放されていたからです。彼らはイエス・キリストの十字架によって自分たちが罪と死の呪いから解放され、自由を得ることができたことを知っていました。だから彼らは「小さな者たち」を愛することができたと言えるのです。まさに、彼らの愛は、彼らのために十字架にかかってくださった主イエス・キリストの愛から出るものであって、神から与えられた賜物がここに現れたと言ってよいのです。

4.キリストの再臨を待つ信仰生活

 イエスは私たちに「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6章34節)と教えてくださいました。しかし、もしこの言葉を読んで私たちが「よし、自分も思い悩まないようにがんばろう」と考えたとしたら、それは大きな読み間違いだと言えるかも知れません。なぜならおそらく、そう読む人はがんばっても自分が思い悩みから少しも解放されないことを知るだけだからです。このようなことではその人はますます思い悩み続けるほかないのです。イエスが私たちにこう言ってくださったのは私たちの「がんばり」ではなく、イエスご自身が私たちの人生を思い悩みから解放して下さったことを教えるためです。なぜなら主イエスの十字架が私たちの人生から思い悩みをもたらす原因をすべて取り去ってくださるからです。
 以前もお話しましたが、ロシアの文豪トルストイは今日の聖書に登場するイエスの言葉、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)と言う聖句を用いて、小さな物語を書いています。
 靴屋の主人のマルチンは愛する妻や息子に先立たれて毎日、希望のない日々を送っていました。彼は毎日「どうして自分だけが生き残ってしまったのだろうか。自分も早く死にたい」とばかり願う寂しい毎日を送っていたのです。ところがそんなマルチンにある日、一人の伝道者を通してキリストの福音が届けられます。そして彼の生活に変化が起こります。彼は聖書の言葉から自分に対するキリストの愛を知り、その愛によって励まされて生きるようになったからです。
 そんな毎日を送っていたときのことです。マルチンは夢の中で「明日、私はあなたのところに行きます」と言うイエス・キリストの言葉を聞きました。さあ、大変です。マルチンは次の日、朝早くから起きて、自分の家の掃除をし、ごちそうを作り、お茶を準備しました。そして「イエス様はいつおいでになるのか」とじっと、自分の家の窓から外の通りの様子を見続けたのです。
 ところがそこでマルチンの目に映った人は、道に積もった雪を取り除く重労働をする老人でした。また次には「自分のリンゴを盗んだ」と騒いでいる婦人と、そのリンゴを盗んだと言われている少年でした。さらにマルチンは乳飲み子を抱えて途方に暮れ、何も食べるものがなくて困り果てていた若い母親と赤ん坊にも出会います。マルチンはその人たちを自分の家に呼び入れて、イエス様のために準備したお茶や御馳走を提供し、自分にできる精一杯のもてなしをして彼らを帰したのです。そのようにしてマルチンの一日が終わりました。ところがマルチンが夜、再び聖書を読み始めたときに彼は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うイエスの言葉を見つけます。そして幻の中でマルチンは今日自分の前に現れた人々の姿を目撃し、「今日、私は確かにあなたのところに行きました」と言うイエスの声を聞いたのです。
 キリストによって罪を赦され、その人生からすべての重荷を取り去っていただいた者の生き方は変わります。それまで自分にだけ向けられていた心の目を別のところに向けることができるようになるからです。そして、キリストが再び私たちのために来てくださる再臨の時を心待ちにしながら毎日の信仰生活を送ることができるようになるのです、
 このようにキリストの再臨を待つ者たちは自分たちの前に「小さな者」たちがいることに気づくことができます。そして彼らにできる当然の行為を「小さな者」たちに施し、神から与えられた愛の賜物を彼らと分かち合うことができるようにされるのです。しかし、キリストを信じず、その愛を知らない者たちは、いつまでも自分が背負う罪の重荷から解放されることはできません。彼らの心の目は当然、自分にだけ向けられているので、たとえ自分の前に「小さな者」がいたとしても、彼らの存在は決してその視界に入ることができないのです。
 このような意味でこのお話に登場する「羊」たちはキリストに救われた者、キリストの再臨を待つ人々の姿だと言うことできます。つまり、キリストに救われた者のみがその恵みによって賢いおとめたちのように油を準備することができ、預けられたタラントを倍にして主人に帰すことができる人生を送ることができるようになるのです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.人の子が栄光の座につくとき、すべての国の人々が集められ、そこでどのようなことが起こると聖書は言っていますか(31〜33節)。
2.そこで「羊」として分けられた人に王はどのような言葉が欠けられていますか(34〜36節)。
3.この王の言葉を聞いた正しい人たちはその言葉に何と答えていますか(37〜40節)。
4.王は正しい人たちが示した「小さな者の一人にした」行為をどのように受け止めていることが分かりますか(40節)。
5.山羊として王の左側に分けられた人に王はどのような宣告を語っていますか。どうして彼らはそのような宣告を王から受けなければならなかったのですか(41〜45節)。
6.あなたは羊ですか、それとも山羊ですか。あなたがそう判断した理由は何ですか。