2021.10.17 「新しいエルサレム」


聖書箇所

ヨハネの黙示録21章9〜27節
9 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」10 この天使が、"霊"に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。12 都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。14 都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。15 わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。16 この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。17 また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。18 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。19 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21 また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。25 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。26 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。27 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。


説教

1.滅亡するローマと新しいエルサレム
①黙示録が示すメッセージと私たち

 今日も皆さんと共にヨハネの黙示録の記録から学んで行きたいと思います。長い間、学んで来たこのヨハネの黙示録も結末まであと僅かとなりました。このようにして教会の礼拝で聖書のお話をしてきて、始めてこの黙示録を礼拝でのテキストに選びました。最初にこの黙示録を礼拝でお話しようとして私は予め何冊もの参考書を準備しました。しかし、説教を始めてみるとそれでも足りないと思えるようになって、さらに黙示録の参考書を買い求めて今では10冊以上の本が手元に残されました。実際、この黙示録をお話してきて、私が「とても難しい」と感じたのはヨハネが見た幻の意味が簡単には理解できないと言うところでした。ですからそれを理解するために何冊もの参考書を読む必要があった訳です。しかし、それ以上に私を苦しめたのは、ヨハネの見た幻と私達の信仰生活がどのように結びつくのかと言う問題でした。なぜならヨハネの見た幻から私たちの信仰生活に結び付くメッセージを語ることができなければ、そのお話は説教になり得ないからです。
 今まで私たちは何度も学びましたように、この黙示録は当時のローマ帝国の迫害の中で、皇帝礼拝への強制にも屈することなく、命がけで信仰を守ろうとしている教会の信徒たちに書かれたものと考えられています。ですから、当時の教会の人々はこの黙示録の言葉から自分たちの信仰の戦いの意味を教えられ、その戦いが必ず勝利に終わるという希望をいただくことで困難な信仰生活を生き抜く糧をこの書物から受けることができたのです。
 時代は大きく変わって現代の日本の地で信仰生活を送っている私たちの状況はどうなのでしょうか。確かに憲法では信仰の自由が保障され、私たちは日曜日に自由に礼拝に出席することができます。聖書を手に入れることも簡単ですし、その聖書を読むことが禁じられると言うことはありません。しかし、私たちの周りの人々はあまりにも信仰に対して無関心です。「聖書の言葉など自分とは関係ない」と多くの人は考えて暮らしています。それはヨハネの時代に、自分の利害のために皇帝崇拝に群がった人々とよく似ています。当時の人々も聖書の言葉に無関心だったのです。いえ、彼らは自らの財産や安全を犠牲にしてもキリストへの信仰を守り抜こうとした人たちを「馬鹿げた生き方だ」と軽蔑し、非難したのです。私たちも確かに今、厳しい信仰の戦いの中にいると言えます。この世は今もキリストを信じる信仰の価値を認めようとはしないからです。ですから黙示録の示す幻は今、世俗的な価値観だけが優先される社会の中で、その流れに逆らい信仰生活を送っている私たちに確かな信仰の確信を与え、希望を与えるために語られていると言ってよいのです。

②天使が示した二つの幻

 今日の黙示録の箇所は次のようにヨハネに語る天使の言葉で始まっています。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」(9節)。実はヨハネはこれと同じような言葉をやはり同じ天使から聞かされている箇所がありました。それはすでに学んだ17章に記されています。ここでも「七つの鉢を持つ七人の天使の一人」がヨハネの前に現れて、こう語っています。「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう」(1節)。この天使の言葉から明らかになるのは、ここで同じ天使が語っている二つの出来事は関係があると言うことです。まず17章では「大淫婦」と言われるローマの都が神の裁きによって滅ぼされることが預言されています。そして、今日の箇所は神によって滅ぼされたローマの都とは対照的に、聖なる都エルサレムが天から下ってくる幻が語られているのです。
 ヨハネがこの黙示録を記した時代、すでに地上のエルサレムはローマ軍の攻撃により、徹底的に破壊されていました。そこにかつて建てられていた神殿は影も形もなくなっていたのです。ですから、地上ではこのローマの巨大な力がすべての人々を支配している時代にヨハネは天使から自分が見ているこの世の光景とは全く違った光景を示されているのです。ローマの都は滅び、反対に滅ぼされたはずのエルサレムの都が天から下って来る姿をです。それではこのヨハネが見た聖なる都エルサレムの幻はいったい私たちに何を教えようとしているのでしょうか。

2.聖なる都エルサレムの正体

 まず、この天から下ってきた聖なる都エルサレムを天使が「小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」と語っている点に私たちは注意する必要があります。ここで語られる「小羊」は私たちの救い主イエスを指している言葉であることはすでに何度も私たちは学んで来ました。それでは救い主の「妻である花嫁」とはいったい何を示しているのでしょうか。
 パウロはエフェソの信徒への手紙の中で妻と夫との間の愛を教会の人々に説明するためにその模範として、キリストの愛について語っています。その際、キリストは教会にとってその夫であり、教会はキリストの妻、つまり花嫁であると教えています(5章21〜33節)。このパウロの言葉から考えて見ると、黙示録の中で天から下ってきた聖なる都エルサレムは「小羊の妻であり花嫁」と呼ばれていることから、キリストの花嫁である教会について語っていると考えることができるのです。
 この箇所を説教している何人かの説教者が、ここで天使によって聖なる都エルサレムを見せていただいたヨハネの姿と旧約聖書に登場するモーセの姿を対比して語っていました。ご存知のように旧約聖書に登場するモーセは神の命令に従ってエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を導き、約束の地であるカナンを目指して旅を続けました。40年間に渡るこの旅は決して簡単なものではなく、モーセは命がけで民を導いてと言えます。しかし、そのモーセは約束の地であるカナンに入ることが結局できませんでした。彼に神から与えられた使命はイスラエルの民を約束の地にまで導くまでであり、彼の生涯はカナンの地を前にして終わることになっていたからです。
 イスラエル民がカナンの地を目前にしたときのことです。モーセの生涯がそこで終わろうとしたときに神はモーセをピスガ山の頂上に導き、彼に約束の地カナンの全貌を見せてくださったのです(申命記34章)。モーセ自らは約束の地に入ることは許されませんでしたが、この時モーセは自分の目を通してその約束の地を確認することができました。彼はこの時、自分のこれまでの人生の歩みが神の計画の中で豊かに用いられていたことを確信することができたのです。これはどんなにモーセにとって喜びのときであったことでしょうか。
 ヨハネはこのとき天から下って来た聖なる都エルサレム、小羊の花嫁である教会の姿を神から示されます。このエルサレムの姿はヨハネが生涯をかけて、仕え続けた教会の姿を表していました。今までヨハネが地上で奉仕した教会は決して大きな教会ではありませんでした。この時代の教会は決められた建物もなく、キリストを信じる何組かの家族が集まる家庭が「教会」と呼ばれていたのです。ヨハネの仕えた教会は嵐のようなローマの迫害の中で消え去ってしまってもおかしくないような小さな存在です。しかし、ヨハネは幻を通してこの教会が神の栄光に輝く姿を目撃します。そしてすでにその教会を迫害していた「大淫婦」であるローマの都は神の裁きに耐えられず滅んでいく姿を彼は目撃したのです。ですからこの幻はこの教会に仕え続けたヨハネのために神が見せてくださったものだったのです。そして黙示録は今を生きる私達にも、このヨハネの幻を通して栄光に輝く教会の姿を見るようにと勧めています。地上の教会に仕える私たちの生涯は決して無意味なものではありません。なぜなら、私たちの仕える教会を神は新たに創造される新天新地の中心に据えてくださるからです。このような意味でこの聖なる都エルサレムの幻は私たちの信仰生活に確かな確信を与えるために示されていると考えることができます。

3.エルサレムの都の土台
①神の栄光によって輝く都

 この都の描写を実際に目に見える形で再現することはとても困難であると言われています。聖書の中に示されている寸法を頼りにするとこの都の大きさはほぼ日本列島が入ってしまうような大きさとなります。また、この都は様々な宝石で飾られていたと言われています。おそらく、この宝石は「神の栄光の輝き」を描写するたとえとして登場していると考えることできるのです。かつて地上にあったローマの都、そしてそこに据えられていたローマ皇帝の玉座があった王宮は様々な金銀宝石で飾られていました。これらはローマ皇帝の権威を裏付ける道具として使われたのです。しかし、神の権威は何かによって裏付けられる必要はありません。むしろここに登場する宝石は神の栄光を映し出すからこそ光り輝いていると言えます。つまりこの都のすべてはこの神の栄光によって輝いていたと言えるのです。
 この都には東西南北に十二の門があって、その門には十二人の天使の名前、つまりそれはイスラエルの十二部族の名前が記されていたと語られています。この十二部族は神と契約を結んだアブラハムの子孫たちを表しています。そして新約聖書ではイエス・キリストを信じるすべての人々がその信仰によってアブラハムの子孫とされていると教えられています。つまり、この都はキリストを信じるすべての人々が集まる場所であると言うことが分かります。神に選ばれたて、信仰が与えられ、「小羊の命の書に名が書いてある」すべての人がこの都に集められるのです。

②教会の土台は使徒の教え

 興味深いのはこの都の土台に「小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」と言う記録です。どんなにこの栄光に輝く教会が私たちの今、生きている教会の姿と違っていたとしても、私たちの教会と同じところがあります。それはその都の土台に十二使徒の名前が刻まれていたと言う点です。教会では古代教会のときから自分たちの信仰を表す大切な文書として「使徒信条」が伝えられて来ました。なぜ、この文章に「使徒」と言うつけられているかと言えば、私たちの教会はいつも使徒たちの教えの上に立てられているからです。
 教会が真の教会であることを保証するのはその教会の人数や財政の規模ではありません。その教会が使徒たちから伝わった教えを忠実に受け継いでいるかどうかにあるのです。私たちが持っている同じ聖書を読んでもユダヤ教徒になってしまう人たちがいます。またイスラム教徒になってしまう者もいますし、聖書を読んでも大半の人々はキリストを信じることのできないのです。ですから私たちがキリスト教会であり得るためには、いつも聖書の言葉を使徒たちが伝えた教えに従って理解し、信じる必要があります。そのように使徒たちの伝えた教えは今の私たちの教会でもやがてやって来る栄光に輝く教会でもその教会を支える大切な土台とされていることを覚える必要があるのです。

4.太陽も月の光も必要ない

 このほかにもヨハネが見た幻に登場する聖なる都エルサレムはかつて地上に存在したエルサレムの都とは違っている点がたくさんあります。まず、この都の中には神殿がありません。本来、エルサレムの都が重要なのはそこに神殿があって、イスラエルの民はその神殿で神に礼拝をささげることができたからです。それではその神殿がなかったなら、人はどこで礼拝をささげることができるのでしょうか。ヨハネは「主と小羊とがこの都の神殿だから」(22節)と語っています。かつてイエスはご自分の体こそ「神殿」であると語られました(ヨハネ2章18〜21節)。ですからかつて地上に建てられていた神殿はこのイエスを示すためのモデルに過ぎなかったのです。新しいこの都ではイエスが私たちと共にいてくださるために、私たちはすべての時間を使って神に礼拝をささげることができるのです。
 また、この都には太陽も月もありません。いえ、ヨハネはそれらのものは「必要がない」と言っています。なぜでしょうか。「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(23節)とヨハネは続けて語ります。この幻は神がおられれば他に何も必要ないと言うことを私たちに教えています。
 私たちは地上の信仰生活の中でこの神の存在を忘れてしまうことがあります。神がおられるならば太陽も月も必要がありません。神自らが光となられるからです。それなのに私たちはその神の力を忘れて、必死になって自分の弱い力で神を守っている、信仰を守っていると勘違いしてしまうことがあります。だから私たちは自分の人生に起こる変化にうろたえてしまうことがよくあるのです。私たちは今まで必死に守ってきたものを、これからも守り続けることができるだろうかと不安を感じるのです。しかし、事実はそうではありません。私たちを守ってくださるのは神であり、私たちの救い主イエスが私たちを守ってくださるのです。この方が私たちと共にいてくださるからこそ、たとえ私たちの人生に大きな変化が訪れたとしても、神はその力を使って私たちを守り導いてくださるのです。だから太陽の光も月の光も届かないような暗闇の場所でも、主と子羊が私たちの光となってくださることは何とすばらしいことなのでしょうか。私たちはこの救いの真実の姿をヨハネの見た幻を通して再び確認し、地上の信仰生活を続けていきたと思うのです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネは天使が自分に語り掛ける声を聞いたとき、そこで何を目撃しましたか(9〜10節)。
2.ヨハネが見た都は何によって輝いていましたか。この都にあった十二の門にはそれぞれどのような名前が刻まれていましたか(11〜13節)。さらに、この都の城壁の土台にはどのような名が刻まれていましたか(14節)。
3.ヨハネはこの都の中に何がないことに気づきましたか。また、それがない理由について何と語っていますか(22節)。
4.どうしてこの都には太陽も月も必要なかったのでしょうか(23〜25節)。
5.この都に入れない人はどのような人たちですか。また入れる人はどのような人ですか(27節)。