2021.10.3 「新天新地」


聖書箇所

ヨハネの黙示録21章1〜8節(新P.477)
1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。8 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」


説教

1.私たちの心に残る聖書の言葉
①もはや悲しみも嘆きも労苦もない

 今日も続けて皆さんと共に黙示録の言葉から学びたいと思います。私もそうですが、おそらく皆さんの中でも今日の聖書箇所に登場する聖句の言葉が好きだと言う方がおられると思います。たとえばこの21章の4節には「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言う言葉が記されています。深い悲しみの中にある人のお話を聞いていると、こちらからどんな言葉をかけてあげればよいのかわからなくなってしまうことが度々あります。そして、ついつい頑張れないで苦しんでいる人に「頑張ってください」などとい言葉をかけて、その人を余計に苦しめてしまうことがよくあるのです。
 しかし、ここでは何の言葉も見つけられずに、何を語ってよいのか迷っているような私たち、神の確実な約束が語られています。私たちが頑張って自分のもっている苦しみを解決するのではありません。誰かが手助けしたからそれがよくなる訳でもないのです。神ご自身が責任を持ってその人の人生を引き受けてくださることがここで語られています。だから私たちに大切なのは信仰を持って、神のみ言葉が私たちの上に実現することを待ち望むことだけなのです。神は必ずここで明らかにしてくださった約束を私たちに実現してくださるからです。そしてその約束が確かであることを黙示はヨハネが見た幻を通して私たちに教えようとしているのです。

②命の水の泉から価なしに飲め

 また、6節には「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」と言う言葉も記されています。ヨハネによる福音書の4章にはこの「渇き」や「水」というテーマをめぐって交わされたイエスとサマリアの女性との興味深い会話が記されています。その中でもイエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と言う言葉を語ってくださっています。イエスはこのときサマリアの女に示された水を私たちにも与えてくださると言ってくださっているのです。しかもイエスはこの水を私たちに「価なし」に、つまりただで飲ませてくださると語っています。私たちがこの地上で徳を積んだからとか、名声を得たからという条件は一切求められていません。ただ、私たちがイエスに対する信仰を持って、「その水を自分にも飲ませてほしい」と願い出れば、イエスは惜しみなくこの命の水を私たちに与え、私たちの心の渇きを癒してくださるのです。

2.天から下るエルサレム
①新しい天と新しい地と私たちの救いの関係

 そして黙示録はこのような素晴らしい神の約束が実現する時がどのようにやって来るかについて次のように語っています。

 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節)。

 私がまだ聖書についてもよく知らないで、教会にもまだ通っていなかったときのお話です。ある日、私の家にエホバの証人が訪問して来て、「あなたは永遠の命を欲しいとは思いませんか」と尋ねられたことがありました。そのとき私は「毎日生きているだけで苦しいことだらけなのに、その命がずっと続くとしたら、それは私にとって地獄でしかない」と言って、そのエホバの証人を困らせてしまったことがありました。
 私の誤解は、永遠の命を今の命がそのままでずっと続くと考えてしまったところにあったようです。しかし、聖書の教える永遠の命はそのようなものではありません。私たちがこの地上で生きている命はとは全く質的に違う命が、聖書の語る永遠の命であると言えるのです。そしてこの永遠の命が私たちに与えられるためには、私たちだけではなく、すべてのものが「新しく」されなければなりません。ですから聖書が語る「新しい天と新しい地」の幻は私たちの救いと密接な関係を持っていると言うことができます。なぜなら、この「新しい天と新しい地」が神によって実際に実現するときに、私たちはそこで初めて「永遠の命」の祝福に完全にあずかることができるからです。
 ここに「海もなくなった」と言う表現が使われています。聖書において「海」は定まるところを知らず、絶えず人に不安を与えるものの象徴として用いられることがあります。またキリスト教会を苦しめるため続けた「獣」が上って来たのはこの海からだったことも黙示録は語っています(13章1節)。つまり、私たちを不安にさせるすべてもの、私たちを苦しめるすべてのものがすべてなくなってしまうことが「海もなくなった」と言う言葉で説明されているのです。

②神の平和「エルサレム」

 それでは私たちの救いが完全な形で実現する「新しい天、新しい地」とは一体どのようなところなのでしょうか。そして私たちはそこでどのような祝福にあずかることができると言うのでしょうか。

 「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(2節)。

 現在の私たちにとって「エルサレム」と言う名前の付けられた町の印象は戦乱と血なまぐさい争いが際限なく続く場所と考えることができます。ユダヤ教徒やイスラム教徒、そしてキリスト教徒からそれぞれの宗教の聖地として崇められている町でありながら、その理由のためにお互いが争い合い、「その町の権利は自分たちだけのもの」だと言い張っているのです。
 実際にこの町の名前「エルサレム」の意味は「神の平和」というものですから、「平和」という名前の町が争いの町になっていることに大きな矛盾を感じてしまいます。しかし、この町の名前が示しているように真の平和は神によってのみ実現されるものだと言えます。だから、ここであらわされるエルサレムの町も地上のエルサレムの町ではなく、天から下ってくる新しいエルサレムの町です。つまり、真の平和はこの天からのエルサレムのように、天におられる神から私たちに贈り物のように与えられるものだといえるのです。

3.アルファでありオメガ
①神が共に住む

 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり…」(3節)。

 真の平和は「神が人とともに住んでくださる」ことによって実現します。ある人がこの世を去り、天国に行くことになりました。彼は天国で何不自由なく毎日、面白可笑しく暮らしました。しかし、しばらく経つと彼は天国の暮らしに不満を抱き始めました。確かにここでは自分が生きて行くのに何の不自由もない生活が保障されています。だからと言って毎日、何もすることもないような生活に彼は耐えることができなかったのです。そこで彼は神に向かって「こんなところが天国だと知っていたら、自分は来たくなかった」と不満をぶつけたのです。すると神はそんな彼にこう語ったというのです。「お前はここが天国だと思っていたのか…」。彼は自分が地獄に送られていたことに少しも気づいていなかったと言うのです。
 私たち人間の抱く天国についてのイメージはとても貧困であるといえます。そのような私たちに聖書はやがて訪れる新しい天、新しい地、新しいエルサレムの町について大切なことを語っています。そこで私たちは神とともに住むことができるということです。つまり、そこがどんなところであっても、私たちは「生きていてよかった」という命の実感を毎日味わうことができるのは神が私たちと共に住んでくださるからなのです。なぜなら私たちの心に本当の生きる喜びを与えることができるのは神だけしかおられないからです。

②天地創造の御業を完成される主イエス

 「また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(6節)。

 現在、病床にある私たちの親しい信仰の友がいつも自分の信仰の確信を語る言葉としてこの聖書の言葉を引用していたことを思い出します。アルファもオメガもギリシャ文字のアルファベットの中に含まれている文字です。そしてそのアルファベットの最初と最後の文字がアルファでありオメガなのです。だからここで「初めであり、終わりである」という言葉がさらに続けて語られています。これは私たちに対する救い主イエスの自己紹介の言葉と考えることができます。イエスの御業は天地創造の初めから、この新しい天と新しい地が実現に至るまで働かれています。神の素晴らしい計画はこのイエス・キリストによって実現されるものだからです。
 かつて、私たち人間の祖先であるアダムとエバはエデンの園で祝福された生活を送ることができました。そこで神が彼らとともに住んでくださっていたからです。しかし、人間の犯した罪の結果、人間はエデンの園から追放され、神から離れて生活することになりました。人間の悲惨はこの時から始まりました。そしてイエス・キリストは私たち人間の祖先が失ってしまった祝福を取り戻し、私たちのものとするために来られた方なのです。
 しかし、もしキリストが私たち人間を天地創造のときのアダムとエバの状態に戻すだけしかできなかったら、私たちには自分の先祖たちと同じように再び罪を犯す可能性を持ち、その祝福を再び失ってしまう可能性があります。しかし、そうではありません。なぜなら、すでに私たちを罪に誘う「年をへたあの蛇」(20章2節)は神によって完全に滅ぼされてしまっているからです。ですから私たちに神から与えられる祝福はもはや決して、私たちから取り去られることがないのです。そのためにアルファでありオメガであるイエス・キリストが救いの御業を完全に成し遂げてくださったからです。

4.新しい天と新しい地の幻と現代
①私たちが今を勇気をもって生きるために

 さて、最後にこの黙示録の示す「新しい天と新しい地」の幻が現代を生きる私たちにどのような意味を持ってくるのかと言うことについて少し考えてみたいと思います。なぜなら、この幻から「世界はやがてまったく新しくされるのだから、この地上の人生には意味がない。だから、信仰者はこの世の営みからできるだけ遠ざかって、祈りをもってこの最後の日を待ち続ける必要がある」と教える人々がたびたび教会の歴史で現れたからです。つまり、この世の生活や営みに信仰者が加わることをすべて否定するのが真の信仰だと主張する人々がいたのです。
 この黙示録を記したヨハネが生きていた時代、教会やそこに集う信徒たちはローマ帝国の激しい迫害の中に生きていました。彼らはキリストへの信仰のゆえに、皇帝を神としてあがめるこの世の習わしに従うことをよしとはしませんでした。そのために彼らは生活の手段はもちろん、身の安全さえも奪われて毎日、苦しんでいたのです。だからと言って彼らは、この地上での生活を諦めてしまったわけではありません。むしろ、彼らは黙示録が語る確かな希望を信じて、激しい迫害の中でも勇気をもって生きることができたのです。
 黙示録のメッセージは私たちがたとえどんない厳しい現実の中に置かれていたとしても、それでも私たちには生きる希望があることを教えています。ですから、私たちはこの黙示録から生きる勇気を与えられて、むしろ神のしもべとしてこの世に生活を生きていく使命が与えられていると言えるのです。

②福音の証人として生きる

 黙示録はこの21章でも新しい天と新しい地についての希望を私たちに語る一方で、この勝利にあずかることができずに「第二の死」を迎えなければならない人々についても語っています。どうして黙示録は救いの出来事を語る一方で厳しい裁きの現実を私たちに語り続けているのでしょうか。その意味は大きく二つあると考えられます。まず第一の意味は私たちがキリストによってどのような悲惨から救われることができたのかということを知るためです。なぜなら、この私たちが救いにあずかることができたのは私たちが他人よりも何か優れたものをもっているからではなくて、イエス・キリストが十字架にかかって私たちのために命を捨ててくださったからです。私たちはそのイエスによって「第二の死」の危機から救いだされたのです。そして私たちがこの事実を知ればするほど、私たちを救ってくださったイエス・キリストへの感謝の思いが強められ、そのキリストのために生きようとする決心が与えられるのです。
 さらにこれらのことが語られている第二の意味は一人でも多くの人が私たちの伝道を通してキリストの救いにあずかることができるようになるためです。この黙示録の示す幻は、まだ私たちの世界には実現していません。この最後の時がまだ実現していない訳は、神が忍耐をもって私たちの回心を待っておられるからです。旧約聖書のヨナ書には罪深い町ニネベの住民が一人でも滅びることを惜しむ神の姿が語られています。この町の人々を愛する神は彼らを救うために預言者ヨナを遣わされました。現代でも同じように神はすべての人々を愛し、すべての人が滅びることのないようにと願われて、私たちをこの地上に遣わしてくださっているのです。だからこそ、私たちはこの神の御心に答えて、地上の人々に神の福音を宣べ伝えて行く必要があるのです。そして、私たちはこの使命に答えるためにも、黙示録の言葉から確かな希望を与えられ、今日という日を生き抜く勇気を神からいただく必要があるのです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネは「最初の天と最初の地が去って行き」何が実現することを目撃しましたか(1節)。
2.さらに「新しいエルサレムが…天から下って来るのを見た」ヨハネは天の玉座からどのような言葉が語られることを聞きましたか(3〜4節)。
3.この玉座に座っておられる方はヨハネにどのような自己紹介をしていますか。この言葉からこの方が誰であることがわかります(6節)。
4.「わたしはその者の神となり、その者はわたしの子となる」(7節)と語られるように、神と私たち人間との関係が回復されることが私たちの救いにとって大切である意味をあなたも考えてみましょう。