2021.11.14 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」


聖書箇所

マタイによる福音書9章14〜17節(新P.15)
14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」


説教

1.新しいものと古いもの

 今日も皆さんと共にイエスの語られたたとえ話から学びたいと思います。今、私は「たとえ話」と言いましたが今日の聖書箇所に登場するイエスの言葉は「たとえ話」と言うよりは、昔の人の知恵を伝える格言のようなものと考えた方がよいかも知れません。イエスはここで「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言う言葉を語っています。聖書の解説者たちによれば、この言葉もイエスが自ら考えだした言葉ではなく、当時の人たちがよく知っていた格言をここに引用して、ご自身の考えを説明されたのだろうと説明しています。この格言の意味は、イエスの言葉から考えても簡単にわかります。イエスは16節と17節で次のように語っているからです。
 「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
 日本の社会が豊かになったためでしょうか。今は「継ぎ当て」をした服を着ている人に巡り会うことは滅多にあまりありません。しかし、私が子どものころは破れた洋服の部分に他の布を縫い付けて修理をしたものを子供たちはよく着ていました。私の母は洋裁学校を出ていましたので、私のズボンや上着、それに破れた靴下まで継ぎ接ぎして使うと言うことがよくありました。しかし、現代ではこのような技術も廃れてしまっていて、身近でできる人も少なくなったような気がします。ですから、イエスの語られた言葉の意味も実感として現代人によく分かるとは言えないのかも知れません。
 古い服に新しい布切れを当てて継ぎ当てをすると、洗濯をしたときに新しい布が収縮して周りの布を引っ張ります。そんため、すでに着古して伸びきっている古い布地の部分はその収縮に耐え切れず破れてしまうことになります。だから、それを用心して、古い服を修理する場合はその服と同じような古い布地を使って修理をする必要があるのです。
 また、私たちは次にイエスが語る「皮袋」と言うものを見慣れていないので、よくわからないと思います。中東の国では今でもこの皮袋に水などを入れてラクダなどに運ばせる姿を見ることができるようです。このお話も前の継ぎ当ての場合と同じです。すでに伸びきってしまっている古い皮袋に、まだ醗酵が終わっていないような新しいぶどう酒を入れるとどうなるでしょうか。醗酵の途中で排出される二酸化炭素がその皮袋内に発生して、皮袋を膨らませます。ですからまだ伸縮性のある新しい皮袋なら大丈夫ですが、そうではない古い皮袋に新しいぶどう酒をいれたら、その皮袋は膨張に耐えられずに最後には爆発してしまうことになります。
 イエスはこのような格言を引用して、このような愚かなことをしてはいけないと教えています。つまり、イエスはこの格言を使って誰かが犯している愚かな行為を非難していると考えることができるのです。それではイエスはこのお話を誰に対して、そして彼らのどのような愚かな行為を取り上げて非難しているのでしょうか。

2.古い生き方に固執する人々
①ヨハネの弟子たち

 福音書の中には様々な人が登場してきます。特に当時のユダヤ人のグループの中でファリサイ派やサドカイ派と言う人々がいたこと、またその他にもヘロデ派や熱心党と呼ばれる人がいたことを私たちは聖書を通して知らされています。これらの人々はそれぞれ違った立場にあって、自分の利害の関係から異なった主張をする人たちであったと言えます。ところが、主張が違って互いに対立していた彼らもイエスを批判し、非難することでは一致して協力していたのです。
 今日の物語の中に登場するグループはそれらのグループとは少し違った特色を持っています。なぜなら、彼らは「ヨハネの弟子」と呼ばれているからです。つまり彼らは福音書の最初に登場する洗礼者ヨハネの弟子であったと言えます。イエスはこのヨハネといとこ同士であったと言う身近な関係であるとともに、ヨハネは神が約束された救い主であるイエスの登場を準備した人物として聖書の中で紹介されています。つまり、このヨハネは他のグループの人たちと違って本来はイエスの仲間の中に入れられるべき人物なのです。しかし、実際の事情は少し複雑であると言えます。なぜなら、聖書の他の箇所でヨハネの弟子たちが登場し、ヨハネの元に集まって来ていた人たちが大挙してイエスの元に駆けつける姿を見て、危機感を覚えてヨハネに報告しているところが記されているからです(ヨハネ3章22〜30節)。しかし、この弟子たちに対してヨハネは「わたしはこのようなことが起こるために働いて来た」と語って、たくさんの人たちが自分の元を離れて、イエスの元に集まることをむしろ肯定的に受け止めているのです。
 ところがおそらくヨハネの弟子たちはこのヨハネの言葉に合点がいかなかったのだと思います。今日の箇所でこのヨハネの弟子たちの発言を見ていると、その言葉の中に「ファリサイ派」と言う言葉が語られています。どうもヨハネの弟子たちはイエスとファリサイ派の人々の言動を比べて、自分たちはファリサイ派の人々に近いと言う考えを持っていたことがここから分かるのです。つまり、ヨハネの弟子たちはイエスとその弟子たちの行動を理解できないでいたのです。

②伝統に従わないイエスとその弟子たち

 この9章ではまずイエスが中風で歩くことのできない人を癒したお話が語られています(1〜8節)。この際にイエスが中風の人に向かって「あなたの罪は赦された」と言う言葉を語ったことから、神の律法を専門的に研究する学者たちによって「神を冒涜している」と厳しく非難されています。なぜなら彼らは罪を赦す権限は神にしかないと考えていたからです。
 次に、イエスは徴税人のマタイをご自分の弟子の一人に加えられました。そしてこのことを祝ってマタイの家で開催された食事会でイエスはそこに集まった徴税人の仲間や「罪人」と呼ばれる人と一緒に交わり、食事をしたのです。このこともやはりファリサイ派の人々の非難の的となりました(9〜13節)。ファリサイ派の人々は徴税人や罪人と呼ばれる人たちと食事をするなどと言うことは決してなかったからです。
 そして今日の部分で問題となるのは「断食」と言う問題です。ヨハネの弟子たちの話にもあるように当時のユダヤ人たちはこの「断食」を定期的に行っていました。私たちは「断食」と聞くとすぐダイエットとか、健康上の理由で行うものを考えます。しかし、ここで取り上げられている断食の理由は違います。これはユダヤ人たちが古くから守って来た宗教的な義務の一つです。今でも様々な宗教で「断食」と言う信仰のための業が奨励されています。実は私たちの教会の信仰告白の中にも「神聖な断食」が神を礼拝するためのふさわしい手段として紹介されています(ウエストミンスター信仰告白第21章5節)。
 ユダヤ人に正式に律法の中で求められているのは年に一回の「贖罪の日」に行われる断食だけでしたが、イエスの時代にはこの断食がもっと頻繁に行われていたようです。たとえばルカによる福音書に記されている有名な「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ話(18章9〜14節)でファリサイ派の人は祈りの中で「わたしは週に二回断食しています」(12節)と言っています。このように当時の人が当然のように守っていた断食でしたがイエスとその弟子たちはこの断食をしていなかったようです。そこでヨハネの弟子たちはこのことをユダヤ人の伝統的な信仰に反する行為だと非難したのです。もしかしたらこの背後には彼らの「イエスに自分の仲間の信仰者たちを取られた」と言う恨みがあり、その腹いせとしてこのような言いがかりをつけて来たのかも知れません。

3.断食の意味は何か
①悲しみを表す断食

 このようにイエスとイエスの弟子たちの行動はそれまでのユダヤ人の宗教的な伝統と言う観点から見ると「きわめて特異な行動」と考えられていたようです。それではなぜイエスとイエスの弟子たちの行動は他のユダヤ人たちとは違うのでしょうか。そこで登場するのが今日の格言です。「古い着物に新しい布地で継ぎ当てをすること」、また「古い皮袋に新しいぶどう酒をいれること」これらの言葉はこのイエスと弟子たちの行動を理解できないユダヤ人たち、そこには今日のお話に登場するヨハネの弟子たちも含まれています。その人たちにイエスが語られたものだったのです。つまりここではイエスとイエスの弟子たちの行動がこの時代にふさわしい行動であるのに対して、古い宗教的伝統に拘る人たちは誤った判断をしていると言われていると言うことが分かります。
 それではなぜイエスは「断食は今するにはふさわしいものではない」と言っているのでしょうか。イエスはこの点について次のようなたとえ話を語ります。

。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」(15節)。

。ここに「悲しむ」と言う言葉が記されています。実は「断食」と言う習慣はユダヤ人たちの間では元々「悲しみ」を表す行為として行われていたと言えるのです。なぜなら、旧約聖書の時代から人々は自分の犯した罪を神の前で悲しむ表現として「断食」と言う習慣を守っていたからです。つまり、断食は自分の犯した罪を悔いて、その罪を神に赦してもらうために行うものだったのです。しかし、イエスはここで、今はもはや断食をして「悲しむ」時ではないと語っています。自分の犯した罪を悔いて悲しみ続けるときではないと言うのです。

②イエスの十字架によって神に赦された私たち

。それはなぜでしょうか。神が私たちの罪を赦してくださったからです。神が私たちの祈りに答えて、私たちの罪を赦すために救い主イエスを遣わしてくださったからです。このイエスは私たちの罪をすべて引き受けて十字架にかかってくださったのです。だから、私たちの罪はこのイエスによってすべて赦されました。自分の力ではどうすることもできなかった罪の問題をイエスが解決してくださったのです。だから、今は「悲しむとき」はなく、「喜ぶとき」なのだと言うのです。
。ここで続けて「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と語られています。これはイエスが逮捕され、十字架につけられて殺されるときを意味した言葉です。この言葉の通り、イエスの弟子たちはこのときイエスの前からすべて逃亡してしまい、自分の無力さを痛感して悲しむことになったのです。
。しかし、これは私たちのように聖書を読む者にとってすでに過去の出来事となっています。なぜなら、十字架で死なれたイエスは弟子たちの元に復活された姿を現わして、彼らの罪がすべて赦されたことを告げてくださったからです。だから、イエスを信じる者にとって今は「悲しくむとき」ではなく、「喜ぶべきとき」なのです。なぜなら、確かに私たちの罪はすべてイエスの御業によって完全に赦されているからです。

4.私たちに求められる新しい生き方
①神をコントロールすることはできない

 現在、金曜日に教会で行われているフレンドシップアワーでは旧約聖書のヨブ記を学んでいます。神に対して敬虔な信仰を守り、罪を犯すことのなかったヨブの人生に突然、様々な災いが洪水のように起こります。このようなことが自分の人生に起こった訳をヨブは神に尋ね求めるのですが、そのヨブを慰めるためにやって来て彼の友人たちはヨブの苦しみをかえって増し加えるような役割を果たしてしまいます。なぜなら、彼らはヨブの叫びに耳を貸そうとせず、むしろ自分たちが持っていた人生の苦しみについての伝統的解釈に拘り、それを語ったからです。
 この物語の中でヨブの友人たちが主張した伝統的解釈は「因果応報」と言うものでした。これは日本の宗教でもよく言われることです。悪いことをすれば神が罰をその人に与え、また善いことをすれば神が祝福を与えられると言う見解です。ヨブの友人たちはヨブの人生に起こった悲劇の原因をヨブが罪を犯したからだと語るのです。おそらく、この考えはヨブの友人にとどまることなく、日本人の私たちも子どものときからよく聞かされている内容であると言えます。
。この因果応報の問題点は私たちの行動次第で神の私たちに対する態度が簡単に変わってしまうところにあります。言葉を換えれば、因果応報に立てば神の行動は私たちの行動によってコントロールすることができると言うことになります。これは聖書の言っている神と私達との関係とは異なります。なぜなら、私たち人間は全能者である神をコントロールすることはできないからです。

②変わることのない神の愛を信頼して生きる

 このような誤解に陥りやすい私たちに対して、救い主イエスは私たちと神との正しい関係を教えてくださいました。なぜなら、父なる神の独り子であるイエスはこの正しい関係の中で生きることができる唯一のお方だからです。イエスによれば神の私たちに対する愛は変わることがありません。なぜなら、罪に苦しむ私たちのために救い主イエスを遣わすことで神は私たちの罪を解決してくださり、そのことを通して私たちに対して変わらない愛を貫き通して下さったからです。
 ですからキリストを信じて生きる私たちは古い価値観や人生観を捨てて、キリストが示して下さった新しい生き方、福音にふさわしい生き方を生きる必要があります。私たちを愛して私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださった神は私たちの人生の上にたとえ何が起こってもその愛を貫き通して下さる方だからです。だから、私たちは今、この神の愛に信頼して、喜びを持って神を礼拝する生活を送ることができるのです。そして私たちのささげる礼拝はこの神に愛され、救われた者の喜びの生き方を表すものと言えるのです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.この聖書箇所でヨハネの弟子たちはイエスのところにやって来てどのような話をしましたか(14節)。どうして彼らはこのような話をしにわざわざイエスの元にやって来たのでしょうか。
2.イエスは彼らの質問に何と答えられましたか(15節)。
3.イエスは自分と自分たちの行動と他の宗教的伝統に縛られるユダヤ人との間の違いについてどのような格言を使って説明されていますか。(16〜18節)。
4.このイエスの言葉から考えると当時、断食をしていたユダヤ人たちはふさわしい行動をしていなかったことが分かります。イエスに出会ったユダヤ人たちは本来どのような行動をとるべきだったのでしょうか。
5.あなたキリストを信じて救われた者たちが毎日の信仰生活をどのように生きて行くことが大切だと思いますか。