2021.4.4 「希望の朝」


聖書箇所

マルコによる福音書16章1〜7節
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


説教

1.マルコ福音書の特徴

 本日の礼拝は主イエス・キリストの復活を記念する礼拝です。また今日は、私たちの東川口教会が北米キリスト改革派日本伝道会の伝道所から日本キリスト改革派教会の教会となったことを記念する「教会設立記念日」の礼拝でもあります。いつもでしたら今日一日、皆さんと一緒に食事会をしたり、午後には記念の講演会を開催することができたらよかったのですが、今年も昨年に引き続いてこれらの集会は中止することとなりました。しかしたとえ、コロナウイルスなどの問題によって教会の予定が大幅に変更されたとしても、主イエス・キリストの復活を心からお祝いしたいと考える私たちの信仰は変わることがありません。ですから、今日も皆さんと共に聖書の言葉から主イエス・キリストの復活の意味とその復活が私たちの日々の信仰生活にどのように関係しているのかについて考えて行きたいと思います。
 この主イエスの復活をお祝いする礼拝では毎年、私たちは福音書を通して復活されたイエスと出会った人々の驚きや混乱、そして彼らの喜びについて学んで来ました。ところが、今日私たちがテキストとして向き合っているマルコによる福音書だけは他の福音書とは大きく違う点があります。それはこのマルコによる福音書だけは復活された主イエスの姿を表すことなく終わっている点です。
 今日、私たちはマルコによる福音書16章の1節から8節までを読んでいるのですが、お手元の新共同訳聖書を見ると、マルコによる福音書はここで終わってしまうのではなく、9節以下にも続きがあるように記載されています。ただ、よくご覧になられると新共同訳は9節の以下の部分を括弧で挟んで記していることが分かります。この括弧はここに記された部分が本来のマルコによる福音書に記された記録ではなく、後代になって聖書を書き写す作業を行った人たちが付け足したであろうと思われる箇所だと言うことを表しています。よく読むとこの括弧で囲まれている部分は他のマタイ、ルカ、ヨハネと言った福音書から引用されてここに書き写されたと判断することができる物語が記されています。つまり本来のマルコによる福音書は8節の「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と言うところで終わっているのです。だからこのマルコによる福音書には、実際に復活されたイエスの姿は全く記されていないと言うことになります。
 どうしてマルコは自分の書いた福音書に復活されたイエスが弟子や他の人々の前にお姿を表されたという証言を記さなかったのでしょうか。これがマルコによる福音書を読む人々を悩ませる問題となっています。マルコは復活されたイエスに出会った人たちのことを知らなかったのでしょうか。そうではありません。実際マルコの福音書の最後の部分でも天使が現れて主イエスの復活をこの時、墓にやって来た婦人たちに告げています(6〜7節)。また、彼女たち自身もおそらく、墓の中にあったはずの主イエスの遺体がなくなっているのに気づいたはずです。
 このマルコによる福音書よりも前に記されたとされるパウロの書いた手紙の中には主イエスの復活された姿を目撃することができた人々が多数いたことを伝えています。

 「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(コリント一15章5〜8節)。

 おそらくマルコも主イエスの復活を体験して、そのことについて証言する人々のことを知らないはずはありません。つまり、マルコはそれらの人々の証言を知っていて、あえて自分の福音書ではその証言を取り上げなかったと言うことになるのです。マルコは何のために実際に復活されたイエスの姿を福音書に記さなかったのでしょうか。
 この点について水曜日の祈祷会で毎週使っている聖書研究のテキストは興味深い解説をしています。マルコによる福音書が伝えてきたのは過去の物語であり、そして復活されたイエスとの出会いは実際に今、イエスを信じる者の信仰生活の中で起こっている現実の出来事であると言うのです。マルコはそのような意図があって福音書をこのような形で終わらせたのではないかと説明するのです。つまり、この後の復活された主イエスとの出会いの物語は私たちが各自の信仰生活を通して体験し、証して行くものではないかと解釈するのです。私たちの日々の信仰生活はこの復活されたイエスとの深い結びつきを通して続けられるものです。だからもし、復活されたイエスが今も働いてくださっていなければ、私たちの信仰生活は成り立たないと考えることもできるのです。そこで私たちはこの復活されたイエスと私たちの信仰生活との関係を続けてこの福音書の記録から考えて見たいと思います。

2.婦人たちの驚き

 さてどの福音書にも日曜日の早朝に主イエスが葬られた墓に向かったのはこれまで主イエスに従って来た女性の弟子たちであったと言う記録が記されています。なぜなら、他の男性の弟子たちは主イエスが逮捕されたときに主イエスの前から逃げ出してしまったからです。そして彼らとは違って女性の弟子たちはイエスの十字架刑を実際に自分の目で目撃し(15章40〜41節)、その後にユダヤ人議会の議員だったアリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き取り、自分の持っていた墓に葬った一部始終を目撃していました(15章47節)。このイエスが葬られたのは安息日が始まる直前の出来事で、彼女たちはその安息日が明けると再びイエスの葬られた墓に向かいました。その理由はイエスの遺体に彼女たちが香油を塗るためであったと書かれています。しかし、この時の彼女たちの行動は決してよく計画されていたものではないように思えます。なぜならそもそも、香油は遺体を布でくるむ前にその体に塗るものでしたから、その香油をこれからイエスの遺体に塗ろうとするのは順番が違ってしまっています。さらに、もっと大きな矛盾はイエスの墓はこの時、大きな石で閉じられていて、これは決して女性たちの力では動かすことのできる代物だったのです。そう考えて見ると彼女たちの行動は、主イエスの死のショックの中で、冷静さを失っている状態がそのまま反映されていると考えた方がよいかも知れません。彼女たちは「とにかく何かをせずにはいられない」と言った思いに駆られてイエスの墓に向かったのだと思われます。
 ところが彼女たちが墓に着くと、そこですでに墓の前に置かれていた石が何者かによってわきに転がされているのを発見します。そして彼女たちが開かれた墓の入り口から中に入ってみると、そこには見慣れない若者が白い衣を着て座っているのを目撃するのです。そのときの彼女たちがどのようになったかについて、福音書の結末で次のように報告されています。

 「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。

 「震え上がり、正気を失っていた」と言う表現からも分かるように彼女たちは混乱して目の前で起こった出来事を全く把握できていないことが分かります。この彼女たちの状況は彼女たちが予想もしなかった出来事がこの日、イエスの遺体が葬られていたはずの墓で起こったことを告げています。このように主イエスの復活の出来事は誰も予想することが出来ない出来事であったと言えます。もちろん主イエスはこの復活の出来事を以前から何度も弟子たちに告げていました。しかし、それでも主イエスの復活の出来事を理解し、それを受け入れる力を持つ人間は一人もいなかったのです。ですから、この女性の弟子たちの姿は主イエスの復活と言う出来事に出会う私たち人間すべての姿を表していると言えるのです。

3.主イエスは復活であり命

 本日の礼拝の最初に読まれる「招きの言葉」では主イエスの復活を記念してヨハネによる福音書11章25節で語られている主イエスの言葉が朗読されていました。
 「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。
 実はこの言葉が主イエスの口から語られるきっかけとなったマルタと言う女性と交わされた会話の中には興味深いやり取りが報告されています。物語はマルタの弟であったラザロが病気のために死んでしまってことを経て、その後にやってきたイエスに語りかけるマルタの姿を描写しています。この時、イエスは弟を失って悲しみに暮れるマルタに対して「あなたの兄弟は復活する」と言う言葉を語りかけています。するとマルタはすぐに「「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えたのです。そしてそのマルタの答えに対する主イエスの応答が今朝の「招きの言葉」に引用されているのです。この主イエスとマルタのやり取りを聞いていると、復活という出来事について両者の間には考え方に大きなずれがあったことが分かります。
 実は聖書を読んでみると、当時のユダヤ人は特別に復活と言う出来事を否定する合理主義者だったサドカイ派の人々を除いて、主イエスと激しく敵対したファリサイ派の人々や、その影響を受けていた多くの民衆は死んだ者たちが「終わりの時に復活する」ことを信じて言ことが分かります。しかし、主イエスがこのときマルタに語っているのはこの「終わりの時の復活」ではないのです。なぜなら、主イエスはここではっきりと「わたしが復活であり、命である」と語っているからです。イエスは決して「わたしは復活する、そして命を再び受ける」とは語っていません。これはここでイエスが語っている復活と命は、彼自身の存在と決して切り離すことのできない、彼自身の存在そのものを指していることが分かるのです。
 このように聖書が語る復活、そして命はこの主イエス・キリストと言う存在と切り離して考えることはできないものであると言えます。そう考えると分かるのは、聖書が教える復活や命は、私たちが死んでから復活することを語っているのではないと言うことです。聖書は、今既に主イエスを信じた人がこの復活を体験し、また主イエスの命にあずかって生きることを教えているのです。もちろん、パウロが言っているように私たちは「死者の復活」も信じていますし、そのために主イエスが私たちの「初穂」として復活されたことも知っています(コリント一15章20節)。しかし、この「死者の復活」も私たちが今既に主イエスによって復活し、主イエスの命にあずかっていることを証明する出来事であると言うことができます。今、すでに私たちは信仰によってこの主イエスの復活の出来事を体験し、また主の命にあずかって毎日の信仰生活を送ることが出来ているのです。だから、聖書の証言する復活と命は私たちが地上にとどまっている限りは、信仰の目を持ってしか確認できない霊的な真理であると言えます。そしてやがて、終わりの時がやって来た時にその真理は誰の目にも明らかに分かるようになるのです。
 このように私たちが主イエスを信じるとき、私たちは主イエスによって復活の恵みを受け、その命にあずかると言う体験をすることになります。このような意味で主イエスの復活の出来事は私たちが主イエスと共に復活し、その命にあずかることができるようになるための恵みの出来事であると言うことができます。
 このときは「震え上がって、正気を失っていた」女性の弟子たちもこの後、喜びを持って主イエスの復活を大胆に伝える復活の証人と変えられます。この変化はどうして起こったのでしょうか。主イエスが彼女たちの魂を復活させ、主イエスの命にあずかる者としてくださったからです。だから主イエスの復活の出来事がなければ、誰も主を信じて生きる信仰生活を始めることはできないと言えるのです。

4.ガリラヤからの再出発

 墓に座っていた若者、つまり神に遣わされた天使は彼女たちに「ガリラヤに行きさい。そこで復活されたイエスとお目にかかることができる」と語ります。このガリラヤは主イエスの弟子たちの生まれ故郷であるとともに、このマルコによる福音書が最初に取り上げた物語の舞台にもなった場所です。ですからこの天使の言葉は彼女たちや他の弟子たちが最初に信仰生活を始めた場所に戻り、そこから信仰生活を再出発させることを促す言葉だとも考えられているのです。
 これまでは彼女たちを含めて、イエスの弟子たちは自分の力で主イエスに従おうとしてきたのかもしれません。しかし、その結果、彼らは無力な自分たちの姿を悟ることになりました。しかし、これからは違います。彼らの歩みは復活されたイエスの御業によって進められて行くからです。だからこの時から主イエスの復活を体験し、その命にあずかる弟子たちの歩みが始まったと言ってよいのです。
 ある説教者は主イエスの復活の物語は、福音書の最後の部分に記されていることで終わってしまうのではないと語ります。福音書の続編である使徒言行録は復活されたイエスが弟子たちを通してその御業を表して下さったことを記録したものです。また、その後に続く2000年近いキリスト教会の歴史もまた復活されたイエスの御業の記録であるとも言えるとその人は語っていました。
 私たちの教会の歩みはこの2000年のキリスト教会の歩みのから考えると本当にわずかな歴史しか持っていません。しかし、私たちもすでに主イエスの復活にあずかり、その命に生かされています。そのような意味で、私たちの教会の歩みもまた復活された主イエスの御業を表す物語であると言えるのです。
 ですからマルコによる福音書の結末の後の主イエスの復活を証言して行くのは、私たち一人一人に与えられた重要な役目であると言えるのです。私たちは主イエスを信じることで主の復活にあずかり、その命に生かされて、私たちに与えられた重要な使命を果たして行きたいと思うのです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.安息日が終わった週の初めの日の朝ごく早くイエスの葬られた墓に向かった人たちは誰でしたか。その人たちは何をしに墓に向かったのですか(1〜2節)。
2.このとき女性たちが持っていた心配をどのようなものでしたか(3節)。その問題はどのような形で解決されましたか(4節)。
3.この女性たちが墓に入ると、そこでどのようなことが起こりましたか(5節)。
4.そこに座っていた若者はイエスの墓を訪れた女性たちにどのようなことを語りましたか(6〜7節)。
5.このような出来事を体験した女性たちはどのようになりましたか(8節)。
6.この物語が告げるように主イエスは日曜日の朝に復活されました。以来、キリスト教会は毎日曜日朝に礼拝をささげ続けています。それではどうして教会はこの日曜日の朝に礼拝を献げることを大切にして来たのでしょうか。