2021.9.5  「小羊の婚宴に招かれている者たち」


聖書箇所

聖書箇所:ヨハネの黙示録19章1〜10節
1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」3 また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。7 わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」9 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。10 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」


説教

1.天上での礼拝
①死に勝利したキリストをほめたたえる礼拝

 数日前に九州のある教会でコロナウイルスのクラスターが発生したと言うニュースがテレビやネットニュースで報道されていました。クラスターの原因は礼拝に集まった人たちが大きな声で讃美歌を歌ったからだと言うのです。他の情報によれば「マスクを外して歌っていた」とか、「手をつないで歌っていた」ということも聞きました。コロナウイルス禍が続く現在、私たちキリスト教会は細心の注意を払って礼拝を行って行くことが大切だと思います。しかし、礼拝で大きな声で讃美歌を歌ってはいけないというように指導しなければならないことは、私たちにとってとても寂しいことだとも言えます。
 太平洋戦争中にキリスト教は多くの人から「敵性宗教」と考えられて、信徒が自由に教会に集まって礼拝を献げることが非常に難しかったことがありました。私たちの改革派教会を作った創立者たちは、そのような経験の中から新しい教会を作る必要を考えたと言われています。いずれにしても私たちが日曜日に神さま礼拝を献げることができることは当たり前のことではなく、とても素晴らしいことだと言うことが分かります。
 この黙示録が書かれたヨハネの時代にもキリスト教会はローマ帝国からの迫害に会って、様々な制約の中で礼拝を献げていました。以前、この時代の礼拝について解説した本で読んだことがあります。ローマのキリスト者は人目を忍んで礼拝を献げるために、人が普段は寄り付かない場所を礼拝の会場に選びました。それが共同墓地です。当時のローマの共同墓地は地下の洞窟のような場所に遺体を葬ると言うスタイルだったようです。キリスト者はその墓地に集まって賛美歌を歌い、神に礼拝をささげたと言うのです。この時、聖餐式の台に使われていたのは、遺体が葬られていた石の棺だったとも言われています。そのような場所にキリスト者はどんな気持ちで集まっていたのかと考えてしまいます。ある本によればこの墓地の中に最初に描かれた宗教画のほとんどキリストの復活を表すものだったと言われています。つまり死者の遺体が葬られている墓地の中でキリスト者はキリストの復活を覚えながら神に礼拝を献げていたのです。「キリストが私たちの最後の敵である「死」を滅ぼしてくださった」とパウロはコリントの信徒への手紙一の中で語っています(15章26節)。つまり初代教会の人々はこの墓地の礼拝で死に勝利してくださったキリストをほめたたえて礼拝を献げることができたのです。

②希望を与える礼拝

 ヨハネの黙示録はここまで神に敵対するローマの都とそこに集う人々の上に下された神の厳しい裁きについて語り伝えて来ました。ローマの繁栄は神から与えられた恵みであるにも関わらず、彼らはそれをあたかも自分たちの力によって作り出したものと考え、その栄光を自分たちや自分たちの作り出した偶像に与えようとしました。彼らはそのような行為を自分たちの考えで行っているように思っていましたが、それは彼らを自分の支配下に置こうとする悪魔の業によるものだったと黙示録は語ります。ローマの犯したこのような罪のために本来は彼らを助けるために与えられて様々な恵みが彼らに対して牙をむくという事態が起こります。自分たちが作り出したものが、あるいは自然が彼らに対して牙をむき、大きな災いをもたらすこととなり、ローマの都は滅亡への道を進むのです。このことはローマの時代の人々だけではなく、現代の私たちにも関係する出来事だと考えることができます。なぜなら、私たちを取り巻く世界でも、人間の作り出したものが、あるいはその人間によって破壊された自然が私たちに対して牙をむき、世界中で深刻な問題を引き起こしているように思えるからです。
 私たちは自分の周りに起こる出来事を見るたびに、そこに人間の力ではどうにもならない深刻な問題が存在することに気づかされ、心が折れるような気持になることがあります。しかし、ヨハネの黙示録はローマの都に起こった深刻な事態を語りながらも、そこから一転して、天上で献げられている礼拝の姿を私たちに示そうとしています。それは墓地の中で礼拝をささげたキリスト者がキリストの復活を示されて励まされたように、ローマからの迫害の試練に立たされている人々に希望を与え、彼らを励ますためだったと考えることができます。このように、私たちの献げる礼拝はその礼拝を献げる者たちに、キリストにある勝利を伝え、決して消えることのない希望を与える役目を持っていると言うことが分かるのです。

2.血の復讐
①ハレルヤ

 「その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。」」(1節)

 ヨハネがこのとき天で大群衆のような大声を聞いたと語っています。以前に韓国出身の牧師が礼拝の説教の最初に「ハレルヤ」といきなり叫んだので、その説教を聞いていた人たちがびっくりさせたという話を聞いたことがあります。改革派教会の牧師はあまりこのようなことをしないので、違和感を感じられたのかも知れません。黙示録が私たちに示す天上の礼拝でまず聞こえたのは一人ではなく大群衆が叫ぶ一度に「ハレルヤ」と叫ぶ声です。この「ハレルヤ」はヘブライ語で「神をほめたたえよ」と言う意味を持っています。意外にも新約聖書の中でこの「ハレルヤ」と言う言葉が登場するのはこのヨハネの黙示録の19章だけのようです。旧約聖書の詩篇の中ではこの「ハレルヤ」と言う言葉が何度も使われています。つまりこの時、ヨハネは自分の周りでは長く聞くことができなかった「ハレルヤ」と言う言葉をこの天上の礼拝で耳にすることができたのです。
 それではなぜこのとき「ハレルヤ」と叫ぶ賛美の言葉がこの天の礼拝で再び歌われることになったのでしょうか。それは神の正しい御業がこの地上の歴史の中に実現したからです。ここに集った人々は前の章で取り上げられたローマの滅亡を知って嘆き悲しんだ人と違って、この出来事が示す本当の意味を知っていました。それはキリストの勝利であり、神の勝利と言う出来事です。だからこそ、この礼拝では地上に起こった嘆きや悲しみと対照的に神に対する賛美の声が高らかに歌われているのです。

②「血の報復」が意味することは何か

 この部分を取り上げる何人かの説教者たちはここで「御自分の僕たちの流した血の復讐」(2節)と言う言葉が語られていることを取り上げて「これはどのような意味なのだろうか」と言う問題を語っています。なぜなら、この「血の復讐」と言う言葉は敵に対する愛を語ったイエス・キリストの言葉とはとても相容れないように思えるからです。先日、テレビのある解説者がアメリカには現在でも普通の市民たちで構成されている巨大な民兵組織があって、そのリーダーをプロテスタントの牧師が務めていると言う紹介をしていました。そしてそのリーダーに「「敵を愛しなさい」と言うキリストの言葉をどう理解するのか」と尋ねたところ、聖書には「目には目を、歯には歯を」と言う言葉も書かれているという答えが返ってきたと言うのです。現代のキリスト教会でも案外、こんなところでは新約聖書のキリストの言葉ではなく、旧約聖書の言葉を優先する人がいることに私も驚きました。
 しかし、旧約聖書の言葉ならともかく、キリストの御業を伝えるべき新約聖書がここで「血の報復」と言う言葉を語るのはどうしてでしょうか。この言葉は相手に対する復讐を意味する言葉ではなく、信仰者たちの流した血が無意味ではなく、神から十分な報いを受けることができたと言うことを語っていると考えることができます。
 私は大学生の頃に始めて近所にあったキリスト教会の礼拝に参加するようになりました。ところがそれまで「日曜日は休日でゆっくり過ごす日である」と考えて育った私には、礼拝などと言う面倒くさいところに行く習慣はなかなか身につかず、毎週の礼拝に続けて出席することには困難を感じていました。その一方で、私は聖書の教えを知りたいと言う好奇心もありましたから大変でした。そこで私はあるときその当時通っていた教会の牧師に、「何かの理由で礼拝に出られない人が先生の説教を聞くことができないのはとても残念なことです。ですから欠席者のために礼拝の説教を録音したらどうでしょうか」と提案したのです。もしそのテープがあれば私も眠い日曜日の朝に礼拝に無理して参加する必要ないと考えたからです。するとその牧師は「それはよい考えですね」と意外にも喜んでくれました。しかし、その後に牧師は「じゃあ、その録音の奉仕を櫻井君にお願いします」と言って来たのです。それで結局、私はそのときから礼拝の録音係となり毎週礼拝を休むことができなくなってしまったのです。
 今考えて見ると、あのとき私が録音係に選ばれず、いつもでもお客さんのようなつもりで教会に通っていたら、いつの間にか教会やキリスト教信仰からも離れて行ってしまっていたのではないかと思います。私はあのとき教会で録音の奉仕が与えられて、始めて自分の存在が教会や神さまのためになっていると思えるようになりました。ですから今考えて見ると、これは本当に神さまが私に与えてくださった恵みであったと思えるのです。
 神さまは私たち一人一人を「何もしなくてもよいですよ」とお客様扱いをされるような方ではなりません。むしろ私たち一人一人の存在をご自身の御業を行うために必要としてくださるのです。今、私たちはもしかしたら自分の存在や、自分の働きが何の役にも立っていないと考えているかも知れません。しかし、神さまはその私たちの存在を見事に用いてくださる力を持っておられるのです。ですから私たちは礼拝の中でこの神さまを信頼して、「ハレルヤ」と今日も賛美の声を上げるのです。なぜなら、私たちの流した血に対して必ず豊かな報いを神さまが与えてくださることを私たちがはっきりと知らされているからです。

3.小羊の婚礼に招かれる

 さて黙示録は次に「小羊の婚礼」と言う出来事を取り上げています。

「わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。」(7節)

 この「子羊の婚礼」とは何を意味しているのでしょうか。ここで登場する「小羊」は黙示録の中でも今まで何度も登場し、また他の新約聖書の文書の中にもたびたび登場して来た言葉です。この「小羊」は私たちのために十字架にかかり、命を献げられた救い主イエスを指し示しています。つまりこの婚礼の一方の主人公である「花婿」はこのイエス・キリストであると言うことが分かります。それではその小羊と共にこの結婚式の主役となる相手、「花嫁」とはいったい誰を意味しているのでしょうか。
 これも新約聖書の中にそのヒントが隠されています。たとえばキリスト教の結婚式でよく読まれる聖書の箇所があります。そこで聖書は結婚をする男女に彼らの模範となる夫婦関係を上げて、その関係に見習うようにと勧めているのです。その模範となる夫婦関係について使徒パウロは次のようにエフェソの信徒への手紙の中で語っています。

 「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(5章23〜25節)。

 ここで言われているようにキリストの花嫁とは教会を意味し、そこに集められている私たち一人一人の信者のことを語っているのです。そうなると私たちはこの結婚式のゲストではなく、主役として神さまから招かれていると言うことになります。それでは私たちがキリストと結婚すると言う意味はどういうことなのでしょうか。この結婚式は私たちの地上での信仰生活が終わり、その信仰生活がゴールに入ることができたことを意味しています。このゴールに私たちが達するとき、私たちの救いは完全な形で実現したことになります。つまり私たちはこの時キリストの花嫁にふさわしい完全な者に変えられることになるのです。
 私たちの地上の信仰生活は、そして地上の教会はいまだ未完成のままであると言えます。私たちはこの地上に留まる限り人間的な弱さをもっており、罪と悪から完全に解放されると言うことはありません。だから私たちは様々な失敗を繰り返して犯します。これは私たちが集まる地上の教会も同様です。しかし、それでも神は私たちに聖霊を遣わしてくださり、私たちの信仰生活の歩みと教会の歩みを導いてくださるのです。私たちはこの聖霊の導きによって、この地上で信仰の訓練を受け、その救いが完全な形で実現するときを待ちながら信仰生活を送っています。しかし小羊の婚礼のときが来れば私たちは自分が持っていた弱さから完全に解放され、キリストの花嫁としてふさわしい者と変えられることができるのです。
 ここで花嫁が着せられる清い麻の衣が「聖なる者たちの正しい行い」と語られています。それは苦しみと悩みの多い地上での信仰生活の中でも、決して希望を捨てず、キリストを信じ続けた人々の行いを語っていると言えます。しかし、彼らの行いのすべても結局は彼らを導いてくださったイエス・キリストが彼らを助けてくださることで可能となったものであると言えます。ですからその意味でこの麻の衣もキリストから私たちがいただいたものと言ってよいのです。
 中世の時代、キリストと同じようになりたいと願って信仰生活を送ったアッシジのフランシスコという信仰者がいました。彼は自分と同じ志を持った者たちとキリストの生き方に倣って貧しい修道生活を送ったことで有名です。元々、フランシスコは裕福な財産家の出身でしたから、彼の元に集まって来た人々も、かつてのフランスシスコをよく知っていた同じような財産家たちの息子たちだったようです。彼らはフランシスコに影響されて、修道生活の仲間入りをしたのですが、その不便な生活の中で自分がかつて味わっていた贅沢な生活を懐かしく思う人も現れました。そこでフランシスコは彼らに向かってこうアドバイスしたと言うのです。「兄弟たち、あなたたちは自分が捨ててきたものを思い出して、残念に思う必要はありません。むしろ、私たちにこれから神が与えてくださる天の宝を思って喜びなさい」と。
 私たちは今信仰生活の中で何に対して関心を持っているのでしょうか。自分が失ってしまった何かでしょうか。ヨハネはそのような私たちにこの天の礼拝の光景を示すことで、私たちの信仰生活の中に本当の喜びを与えようとしています。私たちもこの礼拝から神から与えられる消えることのない希望をいただいて、信仰生活を続けて行きたいと思います。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときヨハネは大群衆の大声のようなものが、何と語っているのを聞きましたか(1〜4節)。
2.彼らは大淫婦が滅びる姿を見て嘆き悲しんだ人たち(18章)と違いこの姿を見て、どのようなことを感じましたか。
3.ヨハネが聞いた激しい雷のようなものは、そこでどんな日が来たことを伝えていますか(6〜8節)
4.天使はどのような人を「幸い」だと言っていますか(9節)。
5.ヨハネは天使に向かって何をしようとしましたか。天使はそのヨハネに何と語りましたか(10節)。