2022.1.9 「慰めとは何か」


聖書箇所

マタイによる福音書10章28〜31節
28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

ハイデルベルク信仰問答
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。 そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。


説教

1.生きるにも死ぬにも

 以前見た、テレビのドラマの主人公が語っていたこんな言葉を思い出しました。
 「子どものころ、父が病気で入院したことがあった。そのとき父の病床には次から次へのお見舞いの客が訪れていた。それを見て自分は「お父さんはとてもすごい人なんだ」と子ども心に思った。その父が会社を退職した後に、やはり入院生活をすることになった。しかし、その時は会社を辞めた父の病床を訪れる人は誰もいなかった。それを見て自分は気が付いた。「そうか、あのとき父にお見舞いに来た人たちは父ではなく、会社の「部長」と言う役職を持つ人物の元を訪れていただけだったのだ…」。
 このドラマの主人公の父親は、今はすでに会社を退職して、何の肩書も持っていません。この時、主人公もこの父親と同じように大企業のエリート社員として、自分の家庭も顧みず働いています。しかし今は誰も見舞いにやって来ない寂しい父親の姿を見て、自分の生き方はこれでよいのだろうかと迷い始めるのです。このドラマの主人公の生き方はここから変わって行きます。
 今日からこの伝道礼拝では改革派教会の信仰を伝える大切な文書の一つであるハイデルベルク信仰問答を手掛かりにして、キリスト教信仰について皆さんと共に学んで行きたいと思っています。そして今日はこの信仰問答の第一問を学びます。この第一問では「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と言う問いで始められています。この問答書は16世紀のドイツで書かれたもので現代のドイツ語とは少し違う古いドイツ語が使われています。ここで大切になるのは「慰め」と言う言葉です。ハイデルベルク信仰問答の研究家たちはこの言葉のドイツ語を調べて、この言葉には「拠り所、信頼できるもの」と言った意味があると解説しています。つまり、この問いは「生きるときも死ぬときも、あなたを支えることのできる唯一ものものとは何か」と聞いていることになるのです。
 会社でかつては部長をしていたドラマの主人公の父親には、そのときたくさんの部下がいて、その仕事を支えてくれていました。しかし、それらの支えは部長と言う役職を失った今はすべてなくなってしまったのです。私たちは普段、社会や家庭で様々な役割を担って生きています。そしてその私たちを様々な人々が支えているからこそ、私たちはその役割を果たすことができているのです。しかし、もし私たちが何らかの事情でその役割を担うことができなかったら、私たちを支えてくれた人々はどうなるでしょうか。おそらく彼らは私たちの元を去って行くはずです。
 信仰問答はここで「死ぬときも」と言う言葉を使っています。私たちが死を恐れる一つの重大な理由は、そのときに私たちの社会的な役割が終わってしまうと言うところにあります。「何もできなくなった自分は誰にも必要とされることはない。自分はひとりぼっちなのだ…」。このように死を前にして私たちはすべての支えを失ってしまうような経験をするのです。
 しかし、この信仰問答はそのよう恐れを感じる私たちに「恐れることはない」と語り掛けています。「心配するな、あなたにはイエス・キリストがおられる。あなたはもうイエス・キリストのものとされている。このイエス・キリストはあなたが生きるときも死ぬときもあなたを支え続ける唯一のお方だ」。そう私たちに教えているのです。このイエスは私たちの元からたとえすべての人々が去って行ったとしても「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」(ヨハネ14章18節)と約束してくださるお方です。またこのキリストの愛を知ったパウロと言う人物はその喜びを次のような言葉で言い表しています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38〜39節)
 このように私たちにとってイエス・キリストは私たちから決して離れず私たちが生きるときも死ぬときも私たちを支え続けてくださる唯一のお方なのです。そしてこれこそが私たちの人生に与えられた最高の「慰め」であると信仰問答は私たちに教えているのです。

2.キリストの生涯が私のものに

 ところで、この信仰問答は「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と語ります。それが私たちの唯一の慰めだと教えているのです。それでは私たちがイエス・キリストのものとなると言うことはどういうことなのでしょうか。
 「わたしはイエス・キリストのもの」。この言葉は私たちとイエス・キリストとの関係を教えています。そしてこの言葉はイエス・キリストと私たちが一つに結びついていることを語っているのです。このことについてヨハネの福音書はイエスの次のような言葉を紹介しています。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15章5節)。

 ぶどうの木とその枝は一体となっています。この関係は切り離すことができません。そしてぶどうの木の命がその枝に供給されて、枝は生き続け、立派に実を結ぶことになります。この信仰問答はだからイエス・キリストが行ってくださった御業のすべてが、そのまま私たちのものとなったと言うことを教えているのです。かつてイエス・キリストが十字架に掛けられたときに、同じように十字架につけられた二人の強盗がいました。その強盗の一人は自分の死を直前にしてこのような言葉を語っています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ23章41節)。この強盗は自分の罪深い人生を十字架上で振り返り、「自分がこのように死んでいくのは当然のことなのだ」と考えました。しかし、彼の人生はこの十字架上で大転換を遂げていきます。なぜなら彼はイエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と信仰を告白したからです。この強盗にイエスは次のように答えます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。
 ここではいったい何が起こったのでしょうか。強盗がイエスに信仰を告白したとき、彼はイエスのものになったのです。その強盗とイエスが一体となりました。そして強盗のそれまでの人生がそのままそっくりイエス・キリストの人生と置き換わってしまったのです。そしてそのために強盗は「楽園」つまり天国に入る資格を得ることができたのです。
 私たちがイエス・キリストのものとなると言うことは、私たちの人生がそっくりそのままイエス・キリストの人生と置き換えられると言うことを意味しています。だから、たとえ私たちの人生が失敗だらけで、罪深い人生であったとしても、今は違うのです。イエス・キリストの人生が私たちの人生に置き換えられたからです。なぜ、私たちは聖書を読んでイエス・キリストのことを学び続けているのでしょうか。それはそのイエスの人生がそのまま私の人生になっているからです。だから私たちは自分の暗い過去を思い出すだけではなく、聖書に示されたイエス・キリストを思い出すことが大切です。そうすれば私たちは揺るぐことない未来に対する希望を抱くことができるのようになるのです。

3.父の御旨でなければ

 次にこの信仰問答はキリストと一つになった私たちの人生に起こる出来事についてすべての出来事が「父の御旨」によって起こること、またそこで起こったすべての出来事は「私の救いのために役に立つ」と言う確信に満ちた信仰を表明しています。
 先日、フレンドシップアワーで参加者が「このお正月をどのように過ごしたのか」と言うようなことを語り合う時間がありました。家族とどのようなお正月を送ったのか。またその家族にどのようなことが起こったのかを各自が話したのです。そのとき、私が一人の姉妹に「それは充実したお正月でしたね」と声をかけると「はい、でも自分が思っていたものとは違いました」と言う答えがすぐに返って来て、少し考えさせられました。
 私たちは自分の人生には自分が思った通りの出来事が起こってほしいと期待して生きています。自分が思った通りの出来事が起これば、自分は幸せになれると考えているからです。しかし、この信仰問答はその意見に同意していません。「神さまを信じれば、あなたの人生にあなたの思った通りの出来事が実現する」と言う甘い約束は一言も語っていないのです。
 それでは私たちの人生に起こる出来事は私達とは全く関係しない、偶然の出来事の積み重ねなのでしょうか。信仰問答はそれも否定しています。なぜなら、この信仰問答は私たちの人生に起こることは「父の御旨」、つまり神の計画に従って起こると語っているからです。それではこの神の計画は何を目的にしているのでしょうか。信仰問答はその目的について「わたしの救いのためです」とはっきり言うのです。
 確かに私たちの人生には私たちが思ってもいなかったような出来事が起こります。そんなとき私たちは「これは自分の計画とは違う。これからどうしていったらよいのだろうか」と悩むことがあります。この信仰問答はそんなときに私たちに「神の計画を信頼するように」と教えているのです。そして私たちの人生に起こるすべての出来事が「私を救おうとする」この神の計画の内にあることを私たちが覚えるとき、私たちは「慰め」を受けながら、この地上の人生を最後まで歩むことができると言っているのです

4.永遠の命を保証するもの

 さて、信仰問答は私たちに「永遠の命が保証されている」と言うことを最後に取り上げて、それが私たちの生きるときも死ぬときも「慰め」となると教えています。
 どこかで正式な契約書を作るとき、そこに「保証人」と言う欄が設けられている場合があります。この保証人の欄に、契約をする本人の名前を書き込むことはできません。なぜなら、この保証人は契約をした本人に予測のつかない何らかのことが起こって、契約を守ることが困難になったときに、その本人に代わりにその責任を引き受ける第三者、つまり別の人間でなければならないからです。
 現在は「高齢化社会」と言う言葉が表すように、高齢者の起こす問題が多く取り上げられるようになりました。私たちは市の災害無線では「尋ね人のお尋ねをいたします」と言うような言葉を毎日、聞くようになっています。私の身近でも、柔和な牧師として知られた方の性格が突然、変わって乱暴になり、家族に暴力をふるうようになったと言った話を聞いたことがあります。外出をすれば家に帰る道がわからなくなり、自分が今どこにいるのかさえ分かりません。そして自分の子どもや孫の顔さえ分からなくなってしまうということが現実に起こっているのです。
 聖書は「信じる者には永遠の命が約束されている」と語っています。それではその本人がすべてを忘れて信仰さえ分からなくなってしまったら、その人から永遠の命は奪われてしまのでしょうか。そうではわりません。信仰問答は私たちには保証人として「聖霊なる神」が与えられていると語っているからです。
 私たちは普段、自分の意志で神を信じ、信仰生活を送っていると考えています。だから、「意志の弱い者はすぐ信仰を捨ててしまう」と考えたりもするのです。確かに信仰生活には私たちの熱心が要求されています。どのようなことが起こっても神に従う決心を私たちは求められているのです。しかし、それは私たちの信仰生活の一つの面だけを語っていると考えることできます。実は私たちの信仰生活にはもう一つの隠された一面があります。それが聖霊の働きです。聖霊は私たちに信仰を与えてくださり、神に従う熱心を私たちに与えてくださる方なのです。きれいな刺繍がされた布地には裏と表があります。私たちの信仰生活にも裏と表があると言えます。私たちが知っている信仰生活が表面だとしたら、その裏面には聖霊の働きがあるのです。
 ですからたとえ私たちの認知が衰えて神を忘れてしまっても、神は私たちを決して忘れることはありません。神は私たちに聖霊を送り続け、私たちを永遠の命へと招待してくださるのです。
 このお正月に私が普段使っているパソコンの記憶装置が突然に壊れてしまい。記録したデーターが一瞬ですべて消失してしまうと言うことが起こりました。しかし、私のパソコンのデーターは「クラウド」と言って私の家のコンピューターではない別の場所にあるコンピューたーにすべて自動的にバックアップされていたので、危機を回避することができました。
 ハイデルベルク信仰問答はそのような意味で、私たちが生きるときも死ぬときも、イエス・キリストとその父なる神、そして聖霊と言う三位一体の神が私たちの人生をバックアップしてくださると教えているのです。そしてこの信仰問答はこれから私たちがこの「唯一の慰め」を受けるためにはどうしたらよいのか。また、この「唯一の慰め」を受けた者はどう生きていくべきなのかを私たちに教えようとしているのです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたもハイデルベルク信仰問答の問1の言葉を読んでみましょう。あなたはこの文章を読んでどんな感想を持ちましたか。
2.私たちがイエス・キリストのものとなるとき、私たちの人生にはどのような変化が起こりますか。どうしてそのような変化が私たちの人生に起こるのでしょうか。
3.私たちの人生に起こる出来事は偶然の産物か、それとも運命かと言う議論に対して、ハイデルベルク信仰問答はどのような見解を表していますか。
4.もし私たちの認知に何らかの障害が起こったとき、私たちの信仰はどのようになってしまうでしょうか。信仰問答はそのような状況に陥った私たちを支えるものは何であると教えていますか。