2022.8.13 「救い主」


聖書箇所

テモテへの手紙一2章4〜6節(新P.385)
4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

ハイデルベルク信仰問答
問16 なぜその方は、まことのただしい人間でなければならないのですか。
答 なぜなら、神の義は罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできないからです。
問17 なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。
答  その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性に担われ、わたしたちのために義と命を獲得し、再びそれをわたしたちに与えてくださるためです。
問18 それではまことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。
答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。


説教

1.罪の病に犯されている人間
①問題を抱える人間とこの世界

 今日は月に一度の伝道礼拝です。この礼拝では私たち改革派教会の信仰を伝える大切な文書、ハイデルベルク信仰問答から皆さんと共に学びます。私たちはこれまで信仰問答を通して人間の悲惨について学び、その悲惨から人間はどのようにして救われるのかについて学んで来ました。私は今回この信仰問答の文章を読んでいて、その内容がお医者さんの診断によく似ているような気がしました。
 私たちは自分の体の具合が悪くなるとお医者さんに行って診断を受けます。中には自分では病気に対して全く無自覚がなかったのに、たまたま受けた健康診断で異常が見つかったと言う人もいます。そのような人はお医者さんに行ってさらに詳しい診察を受けることになります。
 聖書によれば私たち人間は神に造られたすばらしい存在だと言われています。つまり、私たち人間は神の作品なのです。神は完全なお方であり、完璧なお方でもあります。当然その神が造られたものに不良品のようなおかしなものはないはずです。しかし、私たち人間の人生は必ずしも完全と呼ぶことはできません。むしろ、私たちは日々色々な問題を自分で負って、その人生を送っています。これは私たち人間だけではありません。神は天地万物を造られたと聖書は教えています。それなのにこの世界は矛盾に満ちていて、誰もそれを解決することができないようなたくさんの問題を抱えています。それではなぜ、神に造られた人間やこの世界はこのような深刻な問題を抱えているのでしょうか。聖書はその原因を人間の犯した罪によるものだと説明しています。この罪が人間や世界を蝕んで、神の作品としてのすばらしさを奪ってしまったと言うのです。

②律法による健康診断

 しかし、私たちは「罪」と言われても、それがどんなに深刻な問題を持っているのか、自覚症状がありません。なぜなら、私たちは罪に蝕まれている人間しか、あるいは現在の問題ある世界しか知らないからです。だからいつの間にかそれが当たり前だと思ってしまっているところがあります。そこで聖書は罪の自覚症状を持たない私たちに「健康診断」を受けてみなさいと勧めているのです。その健康診断は聖書が教える律法、つまり神の掟に基づいて自分の人生を調べて見ると言う方法です。もし、私たちが自分の人生をこの神の律法に基づいて調べてみるなら、聖書の中で使徒パウロが語っているような結論に必ず行き着くはずです。

 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ロマ7章19〜20節)

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ7章24節)

 この律法の検査によって私たち人間は自分が確かに「罪」という深刻な病に犯されていることを知ることができます。さて深刻な病を持った人を癒すために次に行われるのはこの正しい診断に基づいてふさわしい治療法を考え出し、それを施すことです。それでは人間はどうしたらこの「罪」と言う病から癒されることができるのでしょうか。

2.まことのただしい人間(問16)

 まず、この「罪」の病の治療方法を考えるために大切になって来ることは、この罪は私たち人間だけで解決できる問題ではないということです。なぜなら、この罪にははっきりとした相手があるからです。私たち人間の犯した罪の被害者が存在するのです。だから罪を犯した人間はその被害者に償いをする必要があるのです。私たち人間の犯した罪は神に対してなされているものであって、罪は明らかにその神の正しさをそこなう行為であると言うことができます。だから、まず私たち人間は自分の犯した罪について神に正しい償いをして、神の正しさを回復させる必要があるのです。
 しかし、ここで新たな問題が起こります。なぜなら、罪の病にかかっている人間は神に自分の犯した罪の償いをする能力、神の正しさを満たす力を全く持ていないからです。つまり、この罪の問題を解決するには「罪」の病に犯されていない人、自分では全く罪を犯したことのない人間が必要となるのです。ハイデルベルク信仰問答問16はそのことを私たちにここで説明しています。
 人間が犯した罪なのですから、その罪を償うのは人間でなければなりません。しかし、その人間は皆と同じように「罪」の病に犯されていてはいけないのです。そのような普通の人間は罪の病を癒す力を持っていないのです。神に創造された最初の人間、その最初の人間がまだ罪を犯していなかったときと同じように「まことのただしい人間」でなかればこの病を癒すことができないのです。

3.まことの神(問17)
①神の力が必要

 しかし、ここで私たちはさらに一つの疑問を抱くかもしれません。確かに神に造られた時の人間は「まことのただしい人間」であったかもしれない。しかし、その「まことのただしい人間」が「罪」を犯してしまったからこそ、私たち人間は悲惨な状態に陥ってしまったのです。旧約聖書は神に造られた最初の人間であるアダムとエバが蛇に騙されて、神との約束を破り、罪を犯してしまったことを教えています(創世記3章)。このことを考えると私たちの「罪」の病を解決するためには「まことのただしい人間」であるだけではまだ足りないと言うことが分かります。人間の力だけでは「罪」の病を解決することはできないのです。
 そこで信仰問答の問17は私たちの罪の病を解決する者に必要な追加の条件をここで付け加えます。それは「その方は、同時にまことの神でなければならない」と言う条件です。そしてその理由を「その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性に担われ(るため)」と説明しているのです。私たち人間の罪の問題を根本的に解決するためには全能の神の力が必要なのです。

②救い主が解決した二つの問題

 ここで信仰問答が「まことの正しい人間」であると同時に「まことの神」である方が「わたしたちのために義と命を獲得し、再びそれをわたしたちに与えてくださる」と言っている点に注目してみましょう。信仰問答は私たち人間の抱えている問題は大きく分けて二つあることをここで語っているのです。
 私たちが抱える問題の一つは私たちが今まで述べて来た私たちの「罪」の問題です。だから私たちは信仰問答が語る「まことの正しい人」であると同時に「まことの神」でもある方によってこの罪の問題を解決する必要があります。しかしその問題が解決しただけでは私たちは最初に神に造られた人間の状態に戻るだけとなり、まだ完全に問題を解決してはいません。なぜならそれだけでは私たち人間は聖書が約束する「永遠の命」を得ることができないからです。そして私たちが永遠の命を得るためには、神に従うという最初の人間に求められたテストを合格しなければならないのです。だから信仰問答は「まことの正しい人」であると同時に「まことの神」である方は同時にこの二つの問題を解決してくださる方だと言っているのです。なぜなら、この方は私たち人間の代表として最初の人間が合格できなかったテストを受けてくださって、ご自身の示した神への従順により私たちに永遠の命の祝福を与えてくださったからです。

4.完全な救い(問18)
①イエス・キリスト

 さて、信仰問答は私たち人間を罪の病から癒し、永遠の命を与えることができる方は「まことの正しい人間」であると同時に「まことの神」でなければならないと語ります。そしてその資格を持つ方がただ一人おられることをここで明らかにしています。その方こそ「わたしたちの主イエス・キリストのことです」(問18)と語っているからです。
 この教会堂がたった頃のころだと思います。一人の女性が教会の礼拝に来て、二、三回続けて出席されたことがありました。そんなに親しく話をした訳ではないのですが、この女性のことを私が今でも覚えているのは、この女性が教会の礼拝に来なくなった後に、丁寧にその理由を記した手紙を教会に送って来たからです。そこには「わたしにぴったりの神さまを見つけました。だからもうキリスト教会に行く必要はなくなりました」と言うような理由が書かれていたのです。その文面からその女性は聖書が教える神ではない、生きた教祖を神と崇めるある新興宗教に導かれたことがわかりました。女性はその教祖との出会いを「わたしにぴったりの神さま見つけました」と説明していたのです。どうしてその女性は新興宗教の教祖を自分にぴったりの神さまと判断することができたのか私には分かりませんでした。。しかしその女性の判断は本当に正しいものであったのか私は疑問に思えてならなかったのです。
 聖書は私たちが罪の病から癒される方法を探すために自分勝手な判断をしないようにと教えています。なぜなら、私たちの能力は罪の病に犯されていて正しい判断をすることができないからです。宗教改革者のカルヴァンは私たちが自分を正しく知るためには、真の神を知る必要があると言っています。なぜなら、私たち人間はまことの神によって造られた存在だからです。だから神は私たちが知ることのできない問題の本当の原因をよく知ってくださっています。そしてその問題を解決する方法も同じように知っておられるのです。イエス・キリストは私たちを救うためにその神が遣わしてくださったお方です。だから、私たちを救うことのできるお方はこの方しかおられないと聖書は語るのです(使徒4章12節)。

②完全な救いと義のために

 ここで私たちは問18が「この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです」と語っていることについて考えてみたいと思います。イエス・キリストが与えてくだる救いと義は「完全」だとこの信仰問答は言っています。この「完全」とはイエス・キリスト以外には私たちの救いと義のためにもう何も必要がないと言うことを意味している言葉です。
 初代教会の時代にはユダヤからやってきた人々が「キリストを信じるだけでは救われない。聖書の教える律法を守り、割礼を受けてユダヤ人にならなければだめだ」と教えたと言います。そして「キリストを信じるだけで救われる」と言う使徒たちの伝えた教えと違う主張をして、生まれたばかりキリスト教会を混乱に陥らせたのです。実はこのような誤った教えはこのときだけではなくなってしまったのではありません。この後もキリスト教会の歴史の中で何度もこのような教えが出現して人々を惑わしたのです。私たちはこのような教えに気を付ける必要があります。イエス・キリストの救いの御業は完全であり、そこに私たち人間が付け足さなければならないものは何一つないのです。
 確かに私たち人間はまだこの世では完成されていない不完全な存在です。ですからキリストを信じて信仰生活を送っていても、様々な失敗を繰り返し、また罪を犯してしまうのです。しかしそれは私たちに対するキリストの救いが不完全なことを意味するものでは決してありません。
 むしろイエス・キリストは不完全な私たちが犯す罪をすでにすべて贖ってくださってくださった完全な救い主なのです。だから、私たちは自分の罪を示されるときに、それで何か自分の救いについて不安を覚える必要はありません。むしろ、その私たちの罪をすべて担って十字架についてくださったキリストを見上げて、この方によって私たちの救いが確かにされていることを信じて、この方に感謝をささげるべきなのです。なぜなら、この方こそが私たち罪人にとってぴったりの救い主であると言えるからです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.信仰問答は私たちを悲惨な状況から救うことのできる仲保者について、なぜその方は「まことのただしい人間」でなければならないと主張するのですか(問16)。
2.さらに信仰問答はその仲保者についてどんな方でなければならないと追加の条件を語っていますか(問17)。どうして「まことのただしい人間」と言う条件だけでは仲保者の使命を全うすることができないのですか。
3.信仰問答はこの正しい条件を満たす仲保者こそイエス・キリストであると教えています。あなたはこのイエスが「まことのただしい人間」であると同時に「まことの神」であることを信じることができますか。あなたもこの教えの根拠となる聖書の言葉を自分で探し出してみましょう。
4.信仰問答が語るようにイエス・キリストこそ「完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方」(問18)です。私たちはこのキリストの完全さを否定する考えや主張に警戒すべきです。あなたは今までそのような間違った教えをどこかで聞いたことがありますか。