Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
「キリスト者の死について」

2004.10.10)

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一 4章13〜14節
13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
テサロニケの信徒への手紙一 4章13〜14節
13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

1.死ぬ人は幸い
(1)準備のいい婦人

 私が以前、奉仕していた教会での出来事です。一人の婦人からある日、私は「自分の主人が末期がんになったのでよろしく」という相談を受けたことがありました。当時、この方のご主人はまだクリスチャンではありませんでしたが、そのような申し出を受けて私はこの後、そのご主人の病床を度々訪問することになりました。幸いなことにしばらくして、その方は神様の恵みによって病床で洗礼を受けられました。一度も教会の礼拝に出席することができませんでしたが、その方は教会のメンバーに加わったのです。
 しばらくして、そのご主人が危篤になられると、私はまたあの婦人から相談を持ちかけられました。「こうなると、いつ葬儀になるかわかりません。主人の葬儀のことについて段取りをしてほしいのですが」と言う申し出でした。私も葬儀をするのは牧師になって始めてのことでした。そこで近くの教会に相談して葬儀社を紹介してもらい、事前に葬儀社の方とそのご婦人と一緒に話し合いをすることになりました。葬儀屋さんは今までした葬儀の写真などを持って来られて、「こんなふうにしますので」と丁寧に説明してくれました。その説明を聞いて安心されたのでしょうか。そのご婦人は「それではここに主人の写真を持ってきましたので、葬儀のときに使ってください」と葬儀社の方に写真を渡そうとされたのです。そのとき、葬儀社の方がとても驚いた顔で言われた言葉を思い出します。「あの、ご主人はまだお亡くなりになってないのに、もう写真をお預かりしてよろしいんですか…」。

(2)葬儀を考えることは縁起の悪いことではない

 
普通だったら「縁起でもない」とまず家族のほうが葬儀のことなど考えたりしないものです。しかし、キリスト教信仰においては葬儀やその原因である死は決して忌み嫌われるもの、縁起の悪いものではないのです。ヨハネの黙示録は信仰者の死について次のように語っています。

「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(黙示録14章13節)。

 ここで聖書は私たちに「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と告げています。聖書によれれば私たちの死は忌み嫌うべきものでも縁起の悪いものでもないのです。むしろ神様が私たちに与えてくださる最もすばらしい祝福なのだと言っているのです。「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」。そのとき、私たちはイエス・キリストが十字架で獲得してくださった恵みを確かに受け取ることができるのです。
 ですから葬儀について考えることも決して縁起の悪いことではありません。なぜなら葬儀を考えるとき私たちは当然、私たちの救い主イエス・キリストのことを考えることになりますし、そのイエスが与えてくださる祝福と希望を考えることができるからです。

2.葬儀の内容

 私たちの教会の決まりを集めた『憲法(教会規程)』の中には礼拝指針と言って、私たちが信仰生活送る中で神様をどのように礼拝しなければならないかを教える文章があります。その中に葬儀のことについて短く記されているところがあります。今日の礼拝ではその言葉をもとにキリスト葬儀のことについて簡単に考えてみたいと思うのです。まず礼拝指針には葬儀の内容についてつぎのような解説が記されています。「葬式は、通常、教師によって次のように行なわれる。1.適当な賛美歌を歌うこと。2.適切な諸聖句を朗読して説教をそえること。3.とくに遺族をおぼえて、彼らが悲しみにあって支えられ・慰められ・また苦しみが祝福されて霊的益となるように、彼らのため、神の恵みを祈り求めること」。
 私たちの教会の葬儀では賛美歌を歌い、聖書を読み、説教をし、お祈りをささげます。これは私たちが毎週日曜日の礼拝でささげている内容とほとんど同じものです。つまり、この内容から葬儀はその理由は信者の死をきっかけに行われるものですが、目的は私たちが毎日曜日にしている礼拝と同じものであると教えているのです。
 キリスト教の葬儀に出席されるとわかる一番の特徴は、その式次第はほとんど出席者の理解できる言葉で行われるということです。もちろん、文語体の賛美歌や普通の人が聞きなれないキリスト教の専門用語も出て来ることもあるのですが、それも本来なら出席者にわかるように解説する義務を司式者は負っています。それはどうしてなのでしょうか、なぜならキリスト教葬儀はそこに出席する人たちが神様を礼拝することに目的があるからです。出席者が内容を理解できなくてどうして神様を心から礼拝することができるでしょうか。私たちは自分たちの理解できる言葉の中で神様がどんなにすばらしい方であるかを知り、心からの感謝を持って礼拝をささげるのです。

3.葬儀の目的
(1)神礼拝

 そこで礼拝指針は葬儀の目的についてそれは第一に「神への礼拝」であると明確に教えています。これは私たちがよく知っている他宗教、とくに日本の仏教の葬儀の目的とは大きく違ってくる点ではないでしょうか。日本の葬儀の大半の目的は「死者を弔う、死者を供養する」といところにあると思います。ですからお坊さんが難しい「お経」を一生懸命に読むのは、列席者のためではなく、亡くなった人がその「お経」を聞いて悟りを開き、成仏するためのものなのです。葬儀に出席した列席者は別にその経を理解していなくてもよいわけなのでしょう。日本のこのような伝統的葬儀の前提となっていることは、まず亡くなった人はまだ不完全であり、誰かの何らかの助けを借りなければならない存在であるということです。そしてその助けを生きている者たち、つまり人間が与えなければならないと考えているのです。
 ところがこの点についてキリスト教では、ますキリストを信じて死んだ人は神様の完全な祝福を受けて幸せな状態に置かれていると考えます。ですから、もはや死者のために誰かが何かをしてあげる必要は一切ないと考えるのです。そしてこのような素晴らしい業をなしてくださった神様に感謝をささげることが私たちの捧げる礼拝、つまり葬儀の目的となるのです。
 このようにキリスト教の葬儀は神様を礼拝するためにささげられるものであって、決して死んだ人のために、また彼らの魂を供養するために葬儀を行うのではないのです。

(2)遺族の慰め

 しかし、神様のためとは言ってもこの礼拝には特に大切にされるべき点がほかにもあります。礼拝指針はそのことについて「地上にある者への慰め」と言う目的を教えています。私たちは先に天に召された家族や友人たちと再会することができる望みを信仰によって与えられています。しかし、そう言いながらもやはり身近な人と死別することは私たちにとって深い悲しみでもあることに違いはありません。昨日までともに生きていた家族がいなくなってしまうのですから、その心の痛みは体験者でしかわからないものでしょう。キリスト教の葬儀にはこの悲しむ人を慰めるという目的があります。
 しかし、この場合の慰めは遺族にこの出来事を諦めさせ、早く忘れるようにと教えることではないのです。むしろ、人間の死を通して与えられるキリストの恵みを説き、復活の希望を明確に語ることがその慰めの内容の中心になるのです。
 古くから伝わる仏教説話の中にこのようなお話があります。一人の婦人が愛する子を病気で失いました。しかし、彼女は自分の子の死を受け入れることができません。子供の遺体を抱きしめたまま、さまざまな医者を訪ねては「この子を治してください」と願います。もちろんその彼女の願いに答える医者は誰一人いません。その婦人はやがてブッタ(釈迦)の元をも尋ね、同じように嘆願します。仏陀は「わかった、それではあなたの願いごとをかなえてあげよう」と彼女に語ります。その上で「どこかの家からケシの種をもらってきなさい、ただしそれはまだ一度も自分の家から死者を出したことの無い家からもらってこなければなりませんよ」と命じるのです。婦人は一生懸命にそのような家を探しますが、死者を出したことの無い家など一軒もないのです。やがて探し疲れた彼女は「人は必ず死ぬものなのだ」と事実を悟り、初めて自分の息子の死を受け入れることができたと言うのです。
 仏陀はここで人間の死は避けられないものとして受け入れること、むしろその法則に逆らおうとするから人間の心に苦しみが起こるのだと教えているのです。
 聖書を読むと同じように身内の死に出会い悲しむ家族が登場しています(ヨハネ11章)。有名なマルタとマリアの姉妹です。彼女たちは愛する弟ラザロを病気で失い悲しみにくれていました。死と言う現実を前に、彼女たちができることは泣き悲しむことであり、この現実を受け入れ、早く弟の死を忘れることでしかありませんでした。しかし、そこに主イエスが訪れたとき、主は意外な行動にでます。誰もが何もすることができないと考えていたラザロの遺体が横たわる墓に行こうとされるのです。そしてもはや、誰もなにもできないと考えていた死んだラザロを甦らせるという奇跡を行われたのです。
 もちろん、私たちはこのラザロのときのように、今、なくなった人が目の前ですぐに甦ると考えているのではありません。しかし、聖書は私たちに次のような希望を教えているのです。

「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」(テサロニケ第二4章13〜14節)。

 ラザロの復活はやがて私たちも復活することができる希望を教えるモデルのようなものです。イエスはその同じみ力を持って、私たちを必ず復活させてくださるのです。そして私たちが葬儀で語る慰めの中心はこの復活を語り、イエス・キリストが人間の死を滅ぼしてくださったことを語ることにあるのです。

(3)遺体の埋葬

 この復活の希望に関係して礼拝指針は葬儀の目的のもうひとつとして「遺体の葬り」をあげています。またこのことについては特に「埋葬」という条文を設けて「遺体は、法律に従い、復活ののぞみをもつ者にふさわしく、丁重に扱い、埋葬しなければならない」と教えてもいるのです。
 以前、神学校に在学中に「典礼学」という授業で神戸にある大きな斎場(火葬場)を見学しに行ったことがありました。そのとき韓国からの留学生が「韓国では火葬など犯罪者のような特別な場合にしかしない」といって、とても珍しがって「一緒に斎場に行ってみたい」と言っていたことを思い出します。そのことがあってからしばらくして私はある本の中で「日本で最初に火葬になったのは仏教のお坊さん」だったという記録を見つけました。火葬という埋葬の習慣の背後には「人は肉体から離れて魂だけが救われる」という宗教的な考えがあるというのです。キリスト教国で火葬の習慣があまりないのは、このような考え方がないことに原因があるのかもしれません。
 なぜなら、人の肉体は神様が創られたものであるという考え方を聖書は教えているからです。神様は人間を肉体を伴って創造されました。だから、やがて私たちが完全に救われときも、この肉体をもって復活すると聖書は教えているのです。ただしこの場合、私たちの体は今までの肉体通りに復活するのではありません。大教理問答書はこのことについてこう教えています。「正しい者の体は、キリストのみたまにより、また彼らの首(かしら)であるキリストの復活の力によって、強いもの、霊のもの、朽ちないものによみがえらせられ、キリストの栄光の体に似たものとされる」(問87)。そのために「その体は、死にあってなお続いてキリストに結合され、終わりの日に彼らの魂に再び結合されるまで、床にあるようにその墓で休息する」(問86)と教えるのです。そのために、死者の遺体は丁重に葬られる必要があるです。もちろんその際、遺体が火葬にされていても、またどのような状態になっていても神様はその体を復活させる力を持っておられるのですから心配する必要はありません(エゼキエル37章)。つまり、遺体を葬ることにおいても私たちは復活に対する希望を持ってそれをするのだと教えているのです。

5.キリストに導く

 最初にお話した一人の婦人の話に戻ります。実はこの方が信仰を得られたのは、その方の娘さんを若くして脳腫瘍で亡くされたことがきっかけだったのです。彼女の娘さんはある教会の教会学校で教師も勤める熱心なクリスチャンだったそうです。この婦人は娘さんの死をきっかけに、とくに教会で挙げられた葬儀を通してキリスト教の福音に初めて出会いました。そして、その福音を信じてクリスチャンになられたというのです。
 人は身近な人の「死」と言う現実を通して自分の人生をまじめに捉えなおすきっかけを得ます。そのような中でキリスト教の葬儀を通して神様に出会ったという人も数多くいるのです。つまり、キリスト教の葬儀は多くの人に福音を伝える伝道集会になりえるのです。私たちは自分たちの死を通して、特に葬儀を通して人々をキリストに導く機会を与えられているのです。そして、私たちの葬儀を通して私たちの親しい人がクリスチャンとなり、天国で再会する希望を得ることができるとしてらそれは素晴らしい機会ではないでしょうか。私たちは神様が私たちの葬儀をそのように用いてくださることを信じて、希望をもって準備したいと思います。

【祈り】
天の父なる神様
私たちのために十字架で死に、私たちの死を滅ぼしてくださった主イエスの御名を賛美いたします。私たちの信仰の先輩たちはむかし、私たちの死は主によって「永遠の命への入り口」へと変えられたと告白し、主イエスを褒め称えました。どうか私たちもこの主イエスを信じながら、復活の希望をもって生き、また死ぬことができますように導いてください。そしてすべての人々にこの希望を告げ知らせることができるように、私たちを用いてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

このページのトップに戻る