1.人生の終局を前にするパウロ
(1)さびしい生涯
前回にも学びましたようにこのテモテへの手紙第二はパウロがローマの獄中で書き記した手紙と考えられています。このときパウロは劣悪な環境の中、さまざまな自由を奪われて不便な生活を強いられていました。その上、教会の伝承によればこの後、パウロはこのローマで殉教の死を遂げたと伝えられています。そしてこの手紙の中にはこの時のパウロの状況を暗示させるような言葉が数々登場しています。今日の部分ではパウロがもうすぐ来ようとする自分の死のときを予感して、今までの自分の人生を振り返るような言葉がまず語られています。
「死への準備教育」という学問あります。そのことについて語られている本を読んで一番多く登場するのは、「人の命は量ではなく質で考えなければならない」という言葉です。なぜならば、どんなに長生きをして、たくさんの財産や名誉に恵まれていたとしても、自分の人生に対して不満ばかりで生きているとしたら、その人の人生は質的には非常に貧しいものだと言えるからです。しかし、その逆にたとえ短い生涯で、さまざまな困難を背負った人生であっても、その人が自分の人生を振り返って「本当に生きてきてよかった」と満足できる、そのような人生を送れるとしたら、その人生は質的に高価なものと呼ぶことができるのです。
旧約聖書の創世記47章には有名なヤコブという人物が登場して、エジプトの王に会見したときに自分の人生を振り返って述べた次のような言葉が記されています。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(9節)。
たくさんの家族や財産に恵まれながら、しかも130歳まで生きたヤコブは自分の人生を「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多かった」と述べています。彼が自分の人生をそのように判断する根拠は彼の父や祖父の人生と比べていたからだということもこの言葉からわかります。しかし、私はこの言葉を聖書で読むたびに何か物悲しい気持ちになってしまいます。この言葉から察するとヤコブの生涯は量的には豊かでしたが、質的には不満足であったかのように思えるのです。
(2)満足できる生涯
一方、このテモテへの手紙の著者であるパウロは自分の人生を振り返って次のように語っています。
「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(6〜8節)。
パウロはここで自分が生を立派に生き抜いてきたことに満足を覚えています。しかも、それは単なる自己満足ではなく、神様からもそのように評価していただけると自信を持って語っているのです。パウロはこのとき、獄中でさまざまな自由を奪われて、自分の命まで奪われよとしていました。しかし、彼はそのような状況にも関わらずここで自分の人生に満足を感じているのです。しかも、パウロは次のように私たちに続けて語っているのです。
「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節後半)。
パウロはすばらしい伝道者でたくさんの人々をキリストに導き、多くの教会を立てた人物です。彼がこのように自分の人生を評価できるのは、彼がそれだけ優秀だったからだと私たちは考えてしまいます。しかし、パウロはここで私たちもパウロと同じような人生を送ることができると教えているのです。これはどんなに祝福に満ちたすばらしい言葉でしょうか。私たちはこのパウの言葉に促されながらパウロの確信に満ちた人生の秘訣を少し考えみたいのです。
2.正しい評価は神様から与えられる
(1)八方美人では自分を失ってしまう
私たちが学んできましたようにこのテモテへの手紙は当時、おそらくエフェソという町にあった教会で働いていた若い伝道者テモテに宛てられて送られたものです。テモテはこの教会でさまざまな問題にぶつかり大変苦労していました。伝道者としての経験も浅く、ある意味で自信を失っているこのテモテを励ますためにパウロはこの手紙を書いたのです。
先日行われた大会に行った帰り、友人の韓国人宣教師が新幹線の中で私に「八方美人」という言葉の意味を尋ねてきました。どうやら大会の誰かの発言の中でこの言葉が使われていたようなのです。私はその発言を聞き逃しているので、前後関係がわからず、十分に説明することができませんでした。ですから「八方美人」という言葉は日本語ではあまりよい意味では使われないということだけを彼に説明したのです。
いろいろな人々に同時に気に入られて、よい評価を得ようとするとき、その人は「八方美人」になって、たくさんの人の期待に同時に答えなければなりません。もちろん、人の期待に答えることは必ずしも悪いことではありませんが、私たちは人に気に入られようとするあまり、同時に正反対の期待に答えようとすることがあります。また、その期待に答えすぎるあまり、肝心の自分を見失ってしまうことがないでしょうか。
(2)主イエスとその御国を思う
テモテも教会に起こるさまざまな人の声を聞いて混乱していたのかもしれません。「八方美人」にはなれなかったのでしょうが、少なくともその苦しみを味わっていたのかもしれません。ですからこの4章ではそんなテモテを察するようにパウロは次のようのよう語り出しているのです。
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(1〜2節)。
パウロはここでテモテが思い続けなければならないことは、やがて再びこの地上に来てくださる主イエス・キリストであり、彼が立てようとされる神の国であると教えます。そしてそのことを思うときに自分たちがなすべきことはみ言葉を宣べ伝えること、つまりイエス・キリストの福音を宣教することにあることがわかると言っているのです。
ここにパウロの生涯の秘訣のひとつが披露されています。それは彼が自分の人生を人の期待や思いに答えるために使うのではなく、主イエスの御心に答えるために使おうとしたところにあると言うことです。このよう人生の視点を持っていたパウロですから、困難な状況の中でも自分を見失うことなく、人にも、また自分にもその都度、なすべきことが何であるかを教えることができたのです。
私たちは今、どれだけこの「主イエスの出現とその御国」を思うことに努力と時間を注いでいるでしょうか。むしろ、さまざまな人の声にだけに耳を傾けて自分を見失ってはいないでしょうか。私たちが祝福される人生を送るためにはまず、このことに最大の努力と時間を注ぐべきではないでしょうか。そうすれば私たちはこの複雑な問題の中から自分が何をなすべきかを神様から教えていただき、その上で私たちの兄弟姉妹のために自分が何をすべきかをも教えていただくこともできるのです。
3.主がそばにいて力づけてくださった
(1)誰も助けてくれなかった
パウロはここで続けて自分を取り巻くさまざまな人間関係を語っています(9〜15節)。そこには彼を心から助けようとする人もいました。しかし、それとは反対に彼の期待を裏切り、自己保身のために逃亡してしまった者、また彼を逆に苦しめる者さえあったことが語られています。しかし、彼はそのような状況の中でどのような判断を下すことができたのでしょうか。
「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように」(16節)。
パウロはおそらくここローマで裁判を受けていたと思われます。パウロがここで語るようにその裁判の際、彼を弁護して立つ人が誰一人いなかったというのです。おそらく、彼らは裁判でパウロを弁護することによって自分に同じ嫌疑がかけられたり、何らかの被害を被ることを恐れたのでしょう。しかし、パウロはここで彼らがそのことで責めを負わされないようにと執り成しの祈りをささげています。それは彼らの置かれた立場を同情したためというよりは、「主イエスとその御国」のことを思うとき彼らのために何をすべきかを主から示されていたからではないでしょうか。そして、パウロは「主イエスとその御国」を思うとき自分がしなければならない最も大切なことを教えられ、それをなすことができたことをここで感謝しているのです。
(2)法廷で福音を弁明したパウロ
「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。」(17節)。
確かにパウロを弁護する人は誰一人いませんでした。しかし、パウロはその代わりに自分の口を通して「自分が今、どうしてこのローマで裁判を受けているのか」、「自分が今までしてきたことが何であったか」を語ることができました。このことを通してパウロは、このローマ帝国の中心であったローマの法廷で主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝える機会を与えられたこと、そしてそれを立派に成し遂げることができたことを感謝しているのです。さらに、パウロは自分がそのようなことができた秘密は「主イエスが自分のそばにいて、力づけてくれたからだ」と語っているのです。
私たちが「主とその御国」を思うなら私たちは混乱の中でも自分が何をすべきかを教えられることができます。またそれだけではなく、それを遂行するときに主ご自身が私たちと共にいてくださり、助けてくださるのです。そしてパウロの人生の秘訣はこの主が彼と共にいてくださり、彼を力づけてくださったことにもあることがわかります。
4.主が助け出して、御国に入れてくださる
(1)主への感謝は確信と希望を与える
いつも「主とその御国」を思うパウロはこのように自分の人生の上に起こった出来事を回顧しつつ、主イエスが共にいてくださって、力づけてくださったことを感謝しています。私たちも祈りをささげるときにまず、神様に感謝をささげます。それは神様の恵みを覚える者が取る当然の応答の行為と言えるかもしれません。しかし、神への感謝はパウロの次の言葉を読むとまた、別の力があることを知ることができます。
「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(18節)
ここで今まで自分を守ってくださった神様に感謝をささげたパウロは、これから起こることでもまた、神様が守ってくださるという確信を持っています。つまり、神様への感謝は過去に私たちの目を向けさせるだけではなく、同時に未来への希望を私たちに与えるものだと言えるのです。私たちがもし、将来に対して不安を覚えるなら、いままで導いてくださった神様の御業とその恵みに感謝する必要があります。そうすれば私たちもパウロと同じように困難や人生の危機を前にしても希望を見出すことができるからです。
パウロはここで主が共にいてくださって、いままでと同じようにこれからもすべての悪い業から自分を助け出してくださること、御国に入れてくださることに希望を抱き、その確信を表明しているのです。
(2)私たちの人生を完成してくださる主
ここでパウロによって「すべての悪い業」と呼ばれているものは、私たちをイエス・キリストから引き離そうとするすべての災いのことです。パウロの裁判の際、彼の仲間たちが逃げ出し、彼のために弁明してくれる人が誰一人いなくなってしまったことはパウロにとって「悪い業」ではありませんでした。なぜなら彼はその代わりイエス・キリストの福音を大胆に法廷で語ることができたからです。これもまた、神様が悪い業から彼を守ってくださった実例です。ですからパウロはこのような神様の恵みについてローマの信徒への手紙の中で次ぎのように語っています。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8章38〜39節)。
私たちもそれぞれ自分の人生に計画を持ちます。しかし、その計画の大半はいろいろな妨害に出会い中途半端に終わることが多いのではないでしょうか。そしてその妨害の中で最大のものは実は他人から来るものではなく、自分の内側から出る弱さであることが多いのです。そのことを考えるとき、私たちは自分の人生とその計画に不安を持たざるを得ません。しかし、パウロが自分の人生にこれだけの評価を語り確信することができたのは、自分の人生を、計画を持って導いてくださる方が主であることを知っていたからではないでしょうか。
パウロもあるいは自分ではもっと他の計画を持っていたのかもしれません。彼のことですから事情が許されればもっと違う国々の人々に福音を伝えたいと思っていたのではないでしょうか。しかし、もしそれができなくなってしまったとしても、それは彼の人生が途中で中途半端に終わってしまうことにはならないことを彼は知っていました。なぜなら、彼の人生はイエスが導かれている人生だからです。ですからパウロはこのとき自分の死を予感しながら、その一方で「よくやった。お前は私の定めた計画を最後までやり遂げることができた」という主の言葉を聞くことできたのです。パウロの確信に満ちたこの告白は自分の中から出てくるものではなく、主イエスから与えられたものなのです。私たちも「主とその御国」を思いつつ、私たちに委ねられている人生を主に従って生きていこうではありませんか。そうすれば主は必ず私たちの人生をも導いて、それを完成させてくださるからです。
【祈祷】
天の父なる神様。
私たちのために救いの計画を立てそれを実現してくださったあなたは、私たち一人ひとりにもその計画を持ち、またそれを実現してくださる方であることを感謝いたします。この世の人々の関心を買うために労苦して、心乱れてしまう私たちです。主イエスとその御国を思い、今、自分が何をすべきかを知ることできるようにしてください。さまざまな問題や困難の中でもあなたが最善のことを私たちに与え、御国に導いてくださることを確信し、希望をもって未来を見つめること出来るようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
このページのトップに戻る
|