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礼拝説教 桜井良一牧師
「神の賜物を再び燃え立たせる」

2004.10.3)

聖書箇所:テモテへの手紙二 1章6〜14節
6 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。
7 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
8 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
9 神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、
10 今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

1.パウロの遺言状

 今日もパウロの書いたテモテへの手紙から学びます。この礼拝で以前学びましたテモテ第一の手紙から今日のこの第二の手紙が書かれる間にはかなりの時間の経過があります。この間、著者パウロを取り巻く状況はかなり変化していたと考えることができます。パウロは第一の手紙をローマの獄中で記したと信じられていますが、この第二の手紙も同じローマの獄中で書かれたものです。ところがこのときにパウロが繋がれていた牢獄は最初のときのものとは違いかなり劣悪な環境で、彼の自由も大幅に奪われていたと考えられています。そしてさらに彼はこの牢獄での生活の後、このローマで殉教の死を遂げたと伝えられています。つまり、この手紙は自分の死を間近にしたパウロが「信仰によって生み出した子」として心から愛していたテモテに書いた遺言状のようなものと考えることができるのです。
 その点からでしょうか、第一の手紙ではパウロはテモテがかかわる教会の状況について具体的に立ち入って細かなアドバイスを送っています。彼は第一の手紙で特に教会の秩序はどうあるべきかについて言及しています。しかしこの第二の手紙ではむしろ伝道者テモテを助け励ますという性格がさらに強くなっています。第一の手紙を書いた後も伝道者テモテの働きは好転するよりは、さらに困難になっていたのでしょうか。さまざまな問題にぶつかるテモテはこのときも相変わらず、悩み続け、苦しみ続けていたのかもしれません。そこで今日は伝道者パウロがテモテをどのように励まし、導こうとしたのかについて少し学んでみたいと思うのです。

2.神が与えてくださった賜物に目をむけよ

 私たちは困難や問題にぶつかるとそれを処理することのできない自分の能力や力の限界を感じてしまいます。ところがパウロはここで、私たちが問題を処理する力は私たちの内側から出るのではなく、神様から与えられる賜物から来ることを最初に教えています。

「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」(6節)。

 カウンセリングの技法の一つに「リフレーミング」という方法があります。ここにたとえば半分の水が入ったコップがあるとします。このとき、皆さんはこのコップの水をどのようにご覧になるでしょうか。ある人は「もう半分しか残っていない」と残念がるかもしれません。しかし、他の人は「まだ半分も残っている」と安心するかもしれません。残っている水は同じなのですがこの両者の捉え方にはかなりの差があります。そしてこの考え方の差によってその人の生き方の姿勢もかなり異なってくると言えるのです。
 医師に余命半年と宣言された人がいるとします。そこで「あと、半年しか生きられないのか」と考える人はそのことを悔やむだけで残された日々を送ってしまうかもしれません。「しかし、後半年も残っている」と考える人は残された日々でどれだけ充実した生活を送るかに目をむけ意義のある人生を送れるかもしれません。
 テモテは問題の中で自分の能力の限界を感じていたかもしれません。ひょっとしたら「自分は牧師には向いていない」と思ったのかもしれません。しかし、パウロはそのように自分の内側だけを見つめようとするテモテの考え方を修正して「この問題を解決する力はあなたの外側から与えられるのだ」と教えているのです。
 私たちの内ですべての人がテモテのように「伝道者」として召されているわけではありません。しかし、クリスチャンとして召された私たちにも神様は同じようにふさわしい賜物を与えてくださるのです。確かに私たちの信仰生活にも様々な困難や問題が生じることがあります。しかし、それを乗り越え、解決する力は私たちの内側から生まれてくるものではありません。それは神様が与えてくださる賜物にあるのです。だから、私たちもここでリフレーミングをして同じ出来事の中でも自分ではなく、神様の力に信頼して物事を考えていく必要がるのです。

3.おくびょうの霊ではない
(1)おくびょうなテモテ

 同じパウロの記したコリントの信徒への手紙一の16章にはテモテについて次のような言葉が記されています。「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください」(10〜11節)。パウロはテモテを「心配させないでほしい」、「安心させてほしい」とここでコリントの教会の人々に願っています。こんな記事を読むとどうもテモテは生来の心配性の持ち主であったような気がしてなりません。ですから、パウロは今日の箇所でもテモテに「心配するなら、あなたと共にいてくださるイエスがどんな方であるかを思い出しなさい」とアドバイスしているのです。

 パウロは次のように語っています。
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(7節)。

 ここでパウロは「おくびょう」と言う言葉を用いています。心配性のテモテを思い出すとき、このような言葉が彼の心に浮かんできたのかもしれません。しかし、「おくびょう」なのは決してテモテだけではありません。人は誰でも人生の危機に出会うとき「おくびょう」になるのではないでしょうか。そしてむしろ「おくびょう」でない人はまだ本当に怖い経験をその人生でしていないだけだと考えることができます。

(2)なぜおくびょうになるのか?

 
マルコによる福音書4章40節にはイエスの語られた次のような言葉が登場しています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」ここでイエスが語った「怖がるのか」と言う言葉は、テモテの手紙に登場する「おくびょう」と言う言葉とギリシャ語ではほとんど同じ語源を持った言葉です。ですからこのときイエスは「なぜおくびょうになるのか。まだ信じていないのか」と言ったとも読み替えることができるのです。
 この聖書の箇所でイエスの弟子たちはガリラヤ湖の舟の上で突風に出会い、恐怖に陥っています。イエスの弟子たちの内、かなりの部分はこのガリラヤ湖で長い間、漁師の生活を送っていた人たちでした。ですから、彼らはこのガリラヤ湖についての知識と経験をかなり持っていたはずです。その彼らが恐怖に陥ってしまったというのですから、このとき彼らの出会った出来事が彼らがいまだに経験したことのない危機であったことがわかります。ところがこのとき弟子たちは一つの真実を忘れていました。それはこの舟にイエスが自分たちと共に乗っておられるということです。いや確かに彼らはイエスが同じ舟に乗っていることだけは知ってはいましたが、イエスがこの危機の中で自分たちに関係なく眠り込んでいると考え、イエスに不満を投げかけたのです(38節)。そのときイエスが彼らに語った言葉が「なぜおくびょうになるのか。まだ信じていないのか」というこの言葉だったのです。このとき弟子たちはイエスが自分たちと共にいてくださること、またイエスがいつも彼らを守ってくださっていることに気づいていなかったのです。
 パウロはテモテにこのイエスが聖霊なる神を通して、今も共にいてくださることをここで教えています。そしてそのイエスは今も聖霊を通して、テモテの直面する危機に目を配り、適切な助けを与えようとしてくださるのです。私たちもこの人生の中で経験したことのない危機に出会うことがあります。その中でも最も大きな危機は私たちの「死」という問題ではないでしょうか。しかも私たちが必ず出会わなければならないのがこの「死」と危機を一度は経験しなければならないのです。しかし、イエスはそのような危機に直面する私たちと共にいてくださいます。聖霊なる神を豊かに私たちに使わして、私たちを導いてくださるのです。ですから恐れに見舞われるときに私たちはこの主が今、自分と共にいてくださることに目を向けるべきだとパウロは教えているのです。

4.恥じてはならない
(1)パウロ攻撃の格好の材料

 
パウロはさらに自分の能力のなさに嘆くテモテに、そのことで自分を恥じて福音を語ることをやめてはならないと教えています。私たちはよく自分の人生を振り返って「とても自分の人生は証しにならない」と言って自分を恥じることがあるのではないでしょうか。そのとき私たちは自分にゆだねられている福音を伝える使命をないがしろにしてしまうことがあります。しかし、パウロはここで次のようにテモテに語っています。

「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」(8節)。

 このときパウロの反対者たちは彼が被っている困難な出来事を見ながら、「彼が語る福音には何の力もない」と攻撃することができました。牢に閉じ込められ、殺さるかもしれないというパウロに起こった出来事は彼を攻撃するための格好の材料になる可能性がありました。しかし、彼はそのことで少しも恥じることはない、むしろ福音を語るためにさらに苦しみを味わうことがあってもかまわないとまでここで語っているのです。

(2)神の言葉はつながれていない

 
ある教会の一人の結婚カウンセラーは自分が離婚経験者であることを隠さずに熱心に奉仕に励んでいます。その方に対して「自分が結婚に失敗しているのに、よく結婚カウンセラーなどと言って、他人にアドバイスができますね?」と言ってくる人がいるそうです。そんなとき、キリストの福音を信じているこの方は「自分がそういう経験をしているからこそ、よいアドバイスができるのよ」と語るといいます。

 キリストの福音を伝えるとき、私たちもまた「失敗ばかりしているあなたが、神様を信じているなんて言えるわね…」と言われるかもしれません。しかし、そんなとき私たちは「だから神様の素晴らしさが分かるのよ」と言うことができるのではないでしょうか。私たちの伝える福音は私たちの置かれている環境や境遇とは関係なく、人を変え、世界を変える力を持っているのです。パウロはこの手紙の2章の9節で次のように語っています。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。私たちの信じている神の言葉は私たちの置かれている状況が変わっても、その力に何の変化も起こることはありません。むしろ、この福音には私たちの限界を超えて、私たちを救い導く力があるのです。だから、パウロはこの福音を伝えることを恥じえてはならない、よろこんで伝え続けなさいとここで教えているのです。

5.神の計画に信頼すること
(1)もっと素晴らしい計画

 さて次に、パウロは自分の周りで起こっている出来事の意味を理解できずに、苦しみ、心配するテモテに神の計画に信頼するようにと教えています。パウロは次のように語っています。

「…というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(12節後半)。

 私たちは自分たちの身近に起こっている出来事のゆえに様々に心乱されることがあります。どうしてこんなことが自分の人生に起こるのか。どうして神様はこのようなことを許されるのかと悩むことがあります。しかし、私たちが見ているものは神の計画のごく一部分でしかないのです。それは何度も言うようにジグソーパズルの一断片のようなものです。ジグソーパズルの一断片はそれだけでは何の意味も表すことができません。しかし、そのジグソーパズルが神の御手により集められ、一つに構成されるとき初めて私たちは自分の人生に起こった出来事がどのような意味を持っているかを理解することができるのです。
 最初にこの礼拝で読んだハバクク書の著者ハバククはバビロン帝国によって南ユダ王国が滅ぼされようとする頃に活動した預言者だと考えられています。彼はこの危機に直面して、自分の民が滅ぼされることのないようにと神に熱心に祈りました。しかし、その祈りの中で彼に示されたことは意外にも自分たちユダヤ民族が抱えている深刻な罪の問題であり、神様はその罪のゆえにバビロン帝国を通して裁きを与えようとしているということでした。しかし、ハバククはさらにその出来事を通して神が最も素晴らしい救いの計画を自分たちのために実現させようとしていることを知り、神に賛美をささげているのです。

(2)イエス・キリストを通して実現される神の計画

「神に従う人は信仰によって生きる」(4節)。

それは救い主イエス・キリストを通して私たちのような罪人が救われ、永遠の命に生かされるという神の立てられた救いの計画でした。ですから神はハバククの祈りに最善の計画を持って答えようとされたのです。
 自らの周りに起こる様々な問題に悩むテモテ、その上で自分が頼りにし、「父親」のように慕っているパウロはローマの獄中で自由を奪われた上で、いまや死を待つ状態にまでなっています。しかし、パウロはこのようなことを通しても自分たちを召してくださったイエス・キリストは最善の計画を実行され、信仰のゴールに自分たちを導いてくださると信じていたのです。
 パウロを私たちが自分の信仰の手本としようとするとき、私たちは正直に言って「彼のようには立派にはなれない」と思ってしまうかもしれません。しかし、パウロが私たちにここで示そうとしたのは、彼に賜物を与え続けた方であり、彼と共にいて助けてくださる方であり、彼のために最善の計画を立てて、主イエス・キリストをこの地上に送ってくださった神様なのです。
 このように神に私たちの心を向けるなら私たちの信仰の炎はいつでも「燃え立たせられる」ことが可能なのだとパウロは教えているのです。

【お祈り】
天の父なる神様
私たちのために豊かな賜物を与え私たちの信仰生活を導いてくださるあなたに感謝いたします。私たちに聖霊を送り、日々私たちを導いてくださるあなたを覚えます。どうか私たちが自らの愚かさのゆえに福音を恥じるのではなく、福音の力を信じて、あなたを証しすることができますように。また、目の前の起こる出来事の本当の意味を知らない私たちが、あなたの計画に信頼を寄せて日々を歩むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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