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礼拝説教 桜井良一牧師
「愛し、心を励まし、強める 」

2004.11.7)

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙二 2章16節〜3章5節
16 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、
17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
1 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
2 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。
3 しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。
4 そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。
5 どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。

1.待つことはとても難しい

 私はどちらかというと待つことが苦手な性分です。ときにはカップラーメンができるまでの3分間でさえもとても長く感じてしまいます。一番苦手なのは病院などに行って診察を受けるのを待つ、あの長い待ち時間です。何か待たされている間に自分の病気がますます悪くなってしまうような気がしてしまってならないのです。そのためもあるので、私はわざわざあまり診察患者がなく、すぐに診察してもらえる病院を探すことがあります。しかし、考えてみれば、患者があまり訪れない病院は他の意味が心配です。結局いつのまにか、私は自分が待ち時間をいかに逃れるかが目的となってしまい、肝心の早くその病気を治したいという目的がどこかに行ってしまうのです。そもそも、私のように待つのが不得意、待つのが苦手な人間は、待つことの意味、そしてその待ち時間をどのように過ごしたらよいのかを知らないところに重大な原因があるのかもしれません。
 さて、今日私たちが学ぶテサロニケの信徒への手紙は伝道者パウロの手によって記された書物の一つでで、彼の手紙の中では比較的に初期に記された手紙と考えられています。パウロはテサロニケの教会の人々を励まし、彼らが遭遇している問題に対処するためのアドバイスをこの手紙に記しました。そしてこの手紙の中心的なテーマはイエス・キリストの再臨をどのように待つのかということをテサロニケの教会の人々に教えるところにありました。そしてこの手紙を読むとこのときテサロニケの教会の人々の信仰生活に起こっている混乱の原因はこのイエス・キリストの再臨についての誤解から生じていたということが分かるのです。
 イエス・キリストは復活された後、天に昇られ、そこから私たちに聖霊を遣わしてくださり、私たちを今も導いてくださっています。私たちはこの聖霊の働きを通して、この地上にいながらも天のイエス・キリストと共に生きていることを確信できますし、そのイエスと豊かな交わりを持つことができるのです。しかし、そのイエスは再び、私たちのところに戻ってきてくださると何度も約束されています。そのとき、私たちは再びこの地上で私たちの目に見える形でイエスと出会うことができる、イエスと共に生きることができるという希望を与えられているのです。このためキリスト教会は礼拝をささげるごとに、またその中で聖餐式を行うごとにこのイエスの再臨を覚え、そのときを待ち焦がれてきたのです。

2.テサロニケの信徒たちの抱える問題
(1)悪者の存在

 さて、それではこの手紙の受取人であるテサロニケ教会の人々はこのとき具体的にどのような問題に遭遇していたのでしょうか。彼らが遭遇していた問題は大きく分けて二つありました。一つは彼らの信仰生活を妨害し、迫害する「悪人」たちがいるという問題でした。今日の箇所でもパウロは「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように」、また「必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」と語って、この悪人たちの存在を暗示させています。使徒言行録を読みますと、パウロは伝道に赴いた町々でまずユダヤ人たちの集まる集会場に赴き、そこでキリストの福音を語りました。なぜなら、子供のときから聖書に親しみ、聖書によって救い主の到来を知らされていたユダヤ人のほうがまず最初にイエス・キリストの福音を理解できると考えたからです。ところが、不思議なことにキリストを受け入れたのは今まで聖書の世界とは全く関係のないところで生きていた外国人、つまり「異邦人」だったのです。それではユダヤ人たちはどうなったかと言えば、かえって福音を語るパウロを敵対視して、彼を迫害し、彼の伝道を妨害したのです。ですからおそらく、ここで言われている「悪人」とは彼らユダヤ人のことではなかったかと考えられています。彼らはパウロの伝道を行く先々で妨害し、パウロの伝道によって誕生したテサロニケ教会の人々をも迫害して、苦しめていたのです。

(2)キリストの再臨をめぐる混乱

 この敵の問題はある意味でテサロニケの教会の人々の外側から彼らを苦しめる問題と考えることができます。ところが、もう一つの深刻な問題は彼ら自らの信仰生活の中で起こったものだったのです。そしてむしろこちらのほうが彼らの信仰生活にとっては重大な問題だったと考えることができるのです。その問題とは最初にお話しましたように、イエス・キリストの再臨についての誤解でした。
 テサロニケの信徒たちは信者になった当初キリストの再臨はすぐにでも起こると考えていたようです。ところがその再臨が自分たちの期待通りにすぐにやってこないと気づいたときに、彼らの信仰生活にいくつかの重大な混乱が起こりました。一つはこのテサロニケの信徒への手紙一で語れているのですが、キリストの再臨を待つことができずに死んでしまった信徒たちはどうなるのかという問題でした。「せっかく熱心にそのときを待っていたのに、不幸にも世を去ってしまった人々はどうなるのか、もしかしたら自分たちも彼らと同じような運命をたどるかもしれない。そうすると自分たちの持っていた信仰は意味を失ってしまうのではないか」…という疑問が彼らの信仰生活に起こり、混乱を与えていたのです。
 パウロはこの問題について「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4章13〜14節)と語っています。つまり、たとえキリストの再臨を前にして世を去らなくてはならなくなったとしても、私たちはキリストが再臨されるときそれぞれ、キリストと同じように神の力によって復活され、キリストと再会することができると説明しているのです。つまり、キリストの再臨がいつ訪れるとしても、そのキリストの再臨を希望を持って待ち望む私たちの信仰は決して無意味にはならないとパウロはここで教えているのです。
 ところで、この第二の手紙においてはこの再臨の問題がまた別の面で彼らに混乱を与えていたことが記されています。パウロはこのことについて次のように指摘しています。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2章2節)。どうやらテサロニケの人々に「キリストの再臨はすでに起こったのだ」という教えを語る教師がいたようなのです。「キリストはまだ再臨していないというのではなく、その再臨をあなたがたがた気づいてはいないだけなのだ」という教えを語る人々によってテサロニケの人々の信仰生活に新たな混乱が生まれたのです(3章6〜12節)。この誤った理解によって、テサロニケの人々の間では日々の生活をおろそかにして怠惰な生活をする人が現れたとパウロは語っています。キリストが既に再臨されたとするならば、今まで自分が携わっていた仕事をやめてしまい、教会や神殿に閉じこもって祈りと賛美に打ち込むべきだと考える人が現れたのです。パウロはこの問題に関しても、忠実に自分に与えられた仕事を行いながら、まだ訪れていないキリストの再臨を待つべきであると教え、「再臨がすでに起こった」という偽教師の教えに従ってはならないと語っているのです。

3.パウロの祈りと願い
(1)何をすべきなのか

 今日の箇所で、パウロはテサロニケの人々のために神に祈りをささげています。またそのテサロニケの人々に自分のためにも祈ってほしいと願っています。そしてこの文章の中でパウロはこの混乱の中でも神に信頼し、神にお任せし、神を見つめてイエス・キリストの再臨のときまで日々の生活を忠実に過ごすことを彼らに薦めているのです。
 まず、パウロはイエス・キリストの再臨を待つ者がどのように毎日を送るべきかをテサロニケの人々のためにささげる祈りの中で次のように語っています。「どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」(17節)。キリストの再臨を待つための時間は決して無意味なものではなりません。むしろ、神様は私たちがその時間を大切に使うようにと求めておられるのです。そしてその時間を各自、勝手に使ってしまうのではなく「善い働きをし、善い言葉を語る」ようにと神様は望んでおられるとパウロは語っているのです。この場合の「善い」とは単なる善行や親切な言葉を語ることではなく、神様に喜ばれる働き、言葉を語ること、つまり神様の栄光を表すためにその与えられた時間を用いるべきだと薦めているのです。
 そしてパウロはさらにテサロニケの人々に自分のために祈ってもらう課題として次のような言葉を述べています。「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」。「なぜイエスの再臨がまだ訪れないのか」という問いに対して、聖書が教えるのは、私たち人間の側の忍耐ではなく、神の忍耐を語っていることです。神は私たち人間が滅んでしまうことを好まず、むしろ福音を聞いて、救いを受け入れることを待ち望んでいます。そして神はそのために福音がすべての人々に伝えられるようにと時間的な猶予を私たちのために与えてくださっているのです。パウロはそのことを知っていたので、キリストの福音が少しでも多くの人々に伝えられるようにと働き、そのために神様から与えられた時間を一生懸命に生きようとしたのです。

(2)それはどうしたら可能か

 さて、人は案外、自分が今何をすべきかを考え、また多くの人に聞いてしていることが多いのですが、肝心なのはそのことをする力を持っていないといところにあるのではないでしょうか。ある人々はキリストの再臨を待つ姿勢についてこのように教えます。「キリストが再臨されるときに、失格者にならないように頑張らなければならない」。この言葉はある意味では正しいのですが、そのとき注意しなければならないのはこの頑張る力がどこから来るかという問題です。もしその力が自分の内側にあり、その力が自分を神様の裁きの前に合格にさせるのだと考えてしまうなら、それは聖書の教える救いの教理から大きく離脱してしまいます。この点ついてキリストの再臨を前に忠実に生きるべきできことを人々に求めているパウロははっきりとその力が私たちの内側からではなく、違ったところから与えられることを語っているのです。「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」(16〜17節)。私たちが忠実に生きることができるのは私たちの力ではなく、神様が与えてくださる励ましと、その力によるのだとパウロはここではっきりと述べています。
 そもそも、キリストは何のために再び私たちのところに来られるのでしょうか。それは私たちの救いを完成させるためです。私たちを救うためにキリストをこの地上に遣わしてくださった神は、このキリストの命を通して確かに私たちをその救いに入れてくださいました。しかし、その救いはまだ完全に私たちの上に実現してはいないのです。そしてキリストはその救いを完全に私たちの上に実現してくださるために、この地上に再び来られるのです。ですから私たちの信仰生活は私たちの力ではなく、この神の力、キリストのみ業によって完成されると言えるのです。
 この点に関してパウロはさらに確信を持って次のように繰り返しています。「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています」(3〜4節)。
 様々な問題が起こっても現に今、信仰生活を送ることができているのは、この主のみ業のためです。そしてその主は私たちを再臨のときまで導いてくださり、私たちの救いを完全な形として完成させてくださるのです。

4.神を見つめて生きること

 先日、フレンドシップアワーでイスラエルの最初の王となったさるサウルが犯した一つの重大な失敗について学びました。サウルは巨大な敵ペリシテの軍隊の前に苦戦を強いられていました。彼に味方する同胞イスラエルの人々はわずかな数でしかありません。しかも、彼らは巨大なペリシテの軍隊を前にして、弱気に捕らえられて、戦線から逃れようとしていたのです。イスラエルの王サウルはこの苦戦の中で自分のリーダーシップが問われていることを感じました。不安と焦りをサウルは感じていたに違いありません。さらにイスラエルの勝利のために神に祈ってくれるはずの預言者サムエルはいくら待っても現れないのです。そこで、サウルはサムエルに代わって神に生贄をささげ、戦争の勝利を神に祈願しようとしたのです。しかし、それは王であるサウルに許されたものではなく、預言者にだけ許されている行為だったのです。つまり、サウルは迫り来る危機の中で、その窮地を何とか切り抜けようと自分には許されたていた領分を越えてしまったのです。この行為のゆえにサウルはやがて王として退けられ、神様はイスラエルの王として新たにダビデを選らばれることになります。
 聖書はイエス・キリストの再臨について、そのときを人が勝手に操作したり、支配することはできないと教えています。それをすることは私たちには許されていない、サウルが勝手に生贄をささげたような行為なのです。テサロニケの人々はこの許されざる範囲を超えて、再臨について勝手な思い込みや、解釈をすることでますます混乱に陥ってしまっていたのです。しかし、パウロは私たちがするべきことは神を信頼して、その神様にお任せして、この人生を忠実に歩むことであると教えます。そして神様は自分に課せられた範囲を超えることなく、御言葉にしたがって忠実に歩むものを守って、イエス・キリストの再臨の日に私たちを導いてくださるのです。
 「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(5節)。私たちを神がどんなに愛してくださったのか、また私たちを救われるためにイエス・キリストはどのように忍耐され、その十字架を負われたのかを思い出しなさいとパウロはここで薦めます。私たちに大切なのは私たちに迫りくる問題を見つめて不安とあせりに駆られることではありません。なぜなら問題だけを見つめてもそこからは何の解決は与えられないからです。むしろ、私たちがこの神の愛とキリストの忍耐を見つめることで、そこから豊かに問題解決の知恵と力が与えられることをパウロはこの薦めを通して教えているのです。

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