1.日曜日の過ごし方
私が教会の礼拝に通い始めたのは二十歳の頃でしたから、今から三十年近い前のことです。当時、私の家の日曜日の日課といえば、午前中はほとんど雨戸を閉め切って、一家全員が布団に入ったまま休み、その後遅い朝食を食べる決まりになっていました。私の父は電車で遠くの工場まで通い、働く肉体労働者でしたから普段の日は朝の6時ごろに出勤し、遅くなって帰宅するような毎日でした。父にとってはこの日曜日だけが体を休める休息の時だったので一家全員がこのような日課を送るようになっていたのです。そんな家庭で私が一人だけクリスチャンになって、教会の礼拝に通い始めたのですから最初はいろいろと苦労がありました。ところがしばらくして日曜日に教会の礼拝に出席するのが習慣化すると、今度はむしろ何かの都合で教会の礼拝を欠席せざるを得なくなった週は何か変な気分になりました。変なたとえかもしれませんがまるで歯を磨かないでその一日を始めるときのような気持ちの悪い、何かしっくり行かないままに一週間を始めることになったことを思い出します。
改革派教会が礼拝を守る人のために作った「礼拝指針」という文章の最初にはこのような文章が記されています。「第一条(主の日の準備)主の日を覚えることは、またそのために前もって準備することは、すべての者の義務である。聖書が要求する安息日の聖別が妨げられないよう、この世のすべての業務を整理しなければならない。」これを読むと分かってくるのは私たちが日曜日に教会にやってきて神様を礼拝するのは私たちの生活の中心であるということです。そしてむしろ月曜日から土曜日までの週日はこの主の日、つまり日曜日に神様を礼拝するために準備をする日だと教えているのです。どうして、私たちにとって日曜日に教会に集まって礼拝をささげることはこんなにも大切なことなのでしょうか。今日はこのことについて特に「安息日」と主イエスとの関係を明らかにする聖書の箇所を用いながら少し考えてみたいと思います。
2.安息日の起源と意味
(1)神様が聖別し、祝福された日
私たちが日曜日に神様を礼拝するのは、古くは旧約聖書に記されている「安息日」の律法に起源があると考えることができます。ただ旧約聖書のイスラエルの民は私たちと違い、日曜日ではなく土曜日を安息日と呼び、その日一日はすべての労働や日常的な営みから離れて、神様を礼拝するために用いました。そしてこの安息日の起源の根拠を示す旧約聖書の箇所は代表的なものとして二つの聖書の言葉が上げられます。一つは出エジプト記20章8〜11節の言葉です。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。
この箇所を読むと安息日は神様が天地創造をされたときに、最後の七日目に休まれたこと、その出来に依拠していることがわかります(創世記2章1〜3節)。ここで問題になるのは、神様はどうしてこの七日目に休まれたかということです。神様は六日間働かれて大変に疲れていたのでこの日を休日の日にしたのでしょうか。そうではありません。神様はこの七日目に大切なことをしておられるのです。「第七の日を神は祝福し、聖別された」と聖書は言っています。つまり、神様はこの日を私たちと出会い、交わりを持つための礼拝の日として定め、そのために特別な日としてくださったのです。そして私たちに祝福を与える日としてくださっているのです。
私たちは大切なゲストを向けるとき、その人のために時間を取り、準備をします。神様は同じように安息日を私たちに会う日としてくださり、他の日から区別して、そのために大切なほかの仕事を休まれた上で私たちの礼拝を受けてくださるのです。神様が私たちのために準備し、この日をわざわざ私たちのために空けてくださっているのですから。私たちもまた、その日のために準備し、その日一日を神様のために空ける、あるいは用いることはとても大切であって、神様に対する私たちの当然の応答ではないでしょうか。日曜日、神様はわざわざ私たちのために時間をとってくださり、備えてくださり、私たちと出会ってくださるのですから、私たちもまたこの日のために備えをし、礼拝で神様にお会いすることを待ち望みつつ一週間を送ることが大切なのです。
(2)私たちの命が回復された日
旧約聖書はこの安息日についてもう一つの説明を次の有名な箇所でしています。申命記5章12〜15節の御言葉です。
「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。
ここには安息日の起源のもう一つ重要な出来事が記されています。それはイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放された、あの出エジプトの出来事を記念して、思い起こすために安息日を守るのだと教えているのです。かつて彼らの先祖はエジプトで過酷な奴隷の生活を強いられていました。そのとき彼らは休むことさえ十分には与えられていなかったのです。エジプトの王は彼らの命を消耗品のように扱っていたらからです。ところが神様はその奴隷状態からイスラエルの民を解放されました。ですから彼らは休むことができ、消耗品のように粗末に扱われていた命を回復することができたのです。当然、そのような神様の救いを体験し、それを感謝する者は、他の人にも休みを与え、彼らの命を大切にすべきことが求められます。このため、自分の家の奴隷や家畜、また自分の家に留まっている旅人にまで、この日を休息の日として与えなさいとこの神様はイスラエルの民に命じられたのです。このように安息日のもう一つの大切な意味は私たちがこの日、神様の救いの出来事、私たちの命を回復させてくださったことを思い起こし、それを感謝するためにあるのです。ですから聖書が語る「安息」とは単なる私たちに与えられた肉体的な休息を取る日ではなく、私たちの命が回復されること、神様の救いを体験することがその意味の中に含まれているのです。
3.安息日の目標は
さて先ほど読みました礼拝指針の続きには私たちが日曜日に何をすべきかということが次のように記されています。「第二条(終日の聖別)この日は、終日、主に対してきよく守られ、礼拝と安息のために用いられるべきである。従って、不必要な労働と、この日の神聖にふさわしくない娯楽とは、さしひかえなければばらない」。
どうもこの文章を読みますと私たちの関心はいったい「不必要な労働と、この日の神聖にふさわしくない娯楽」とは何かということころに行ってしまうのではないかと考えるのは私だけの心配でしょうか。しかし、もしこの文章から私たちが日曜日にしてはいけないことをいろいろと考えはじめリストアップして、そのことについて論争していくならもしかすると今日の聖書の朗読箇所に登場するファイサイ派の人々の犯した誤りに陥ってしまう可能性があるのではないでしょうか。
ある日、イエスの弟子が安息日に麦畑から麦の穂を摘んで食べたことを知ったファリサイ派の人々は「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」とイエスに詰め寄りました。つまり、イエスの弟子たちは本来、安息日の前に十分に自分たちの食事を準備しておくべきであったのに、彼らはそれを怠って、安息日に「不必要な労働をしている」と非難したのです。ここでイエスは旧約聖書に登場する様々な出来事を通して、ファイサイ派の人々が持っていた偏屈で、固定的な律法解釈の誤りを指摘しました。ファイサイ派の人々の解釈を持ってすれば旧約聖書に登場するダビデのような人々まで律法違反をするけしからん人物だという判定を下すことになってしまいます。またそもそもファリサイ派の同胞に憐れみを示さない律法解釈は「私が求めるの憐れみであって、いけにえではない」と語られた神様の御心に反するものになってしまうとイエスは反論されたのです。そして、ここで最も重要なのは最後に表れる「人の子は安息日の主なのである」というイエスの御言葉です。この「人の子」とはイエス・キリストを指し示す言葉です。つまり安息日の目標、目的は私たちの主イエス・キリストにあるとこの言葉は明確に語っているのです。
さて、この言葉を理解するためには先ほど私たちが考えました「安息」についての理解を思い出す必要があります。「安息」とは私たちの命が回復されること、つまり私たちが救われることを意味していると申しました。そのことを踏まえて考えればこのイエスの言葉ははっきりとしてきます。私たちの命を回復し、私たちにまことの意味で救いを与えられる方はこのイエス・キリストお一人しかおられないからです。つまり、安息日はこの救い主イエス・キリストを指し示し、それを教えるために神様によって定められ、与えられたものだったのです。しかし、ファリサイ派の人々は安息日に何をしてはならないかということだけに関心を払い、固定的な律法解釈をすることに熱心でしたが、肝心の安息日の目標であるイエスを見失い、またその方を拒否するという大きな過ちを犯してしまったのです。
4.日曜日は何をすべきか
さて安息日の目標はこのイエス・キリストの救いであるとすれば、イエス・キリストの救いが実現し、その恵みに実際にあずかっている私たちとこの安息日はどのような関係があるのでしょうか。先日の祈祷会でカルヴァンのキリスト教綱要に記された道徳律法、つまり十戒の解説のところを学びました。カルヴァンの十戒の解説の特徴はこの安息日に限らず、十戒すべての戒めの目標であるイエス・キリストに焦点を合わせ、そこからすべてを解釈するところにあります。そして、この安息日の戒めにおいてカルヴァンは主イエス・キリストの救いによって安息日が求める内容はすべて成就、つまり完成されたと言っているのです。つまり、イエスを信じる私たちにはもはや週の内の一日を安息日して守る古い律法は必要がないと教えているのです。カルヴァンの考えによればイエス・キリストが救いを成し遂げられた今、私たちの安息は週の特定の日だけではなく、すべての日に実現されていると言うのです。つまり」私たちにとってすべての日が安息日だと言えるのです。
実は礼拝指針もそうですが、私たちがこの日を「安息日」と呼ぶのではなく「主の日」と呼ぶのはこのことに関係しています。私たちが日曜日に教会に言って礼拝をささげるのは旧約聖書の時代の安息日を守っているのではなく、その日を別の意味でつまり「主の日」として守っているとこの名称の変化は私たちに教えているのです。
日曜日は主イエス・キリストが復活されたことを祝う日です。つまり私たちの救いが実現し、私たちの人生にまことの安息が与えられたことを記念する日なのです。私たちはこの出来事を記念し、また感謝するためにこの礼拝に集められています。礼拝指針が教えているの「礼拝と安息のため」と言うのはこのイエスの救いに感謝すること、また私たちが礼拝に参加して聖書を聞き、祈り、また聖礼典に参加することで私たちの生活のうちに御霊が豊かに働かれるためなのです。つまり主の日は私たちの信仰生活のうちにイエス・キリストが実現してくださった救いの恵みが豊かに現れるように自分の人生を神様にゆだねていくことが求められているのです。
そうなると「不必要な労働と、この日の神聖にふさわしくない娯楽」とはこのイエス・キリストの実現してくださった救いの事実を無視して、神様に自分の人生をゆだねることなく、自分勝手に人生を費やす行為を言っていることがわかります。このため私たちが礼拝で交読しているハイデルベルク信仰問答は問103で安息日、つまり私たちにとっての主の日に神様は何を私たちに何を望んでおられるかを次のように教えています。
「神が望んでおられるのは、第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、私たちがとりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主を呼びかけ、キリスト教的な施しをすること、ということ。第二に、生涯のすべての日において、私たちが自分の邪悪な行いを休み、私たちの内で御霊を通して主が働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです」。
私はこの問答書が「私たちが自分の邪悪な行いを休み」と言っているところがとても興味深いと思っています。私たちは普段どんな邪悪な行いをしているのでしょうか。泥棒をしたり、麻薬にふけったりといったことをここで邪悪な行為と言っているのではありません。そうではなくて、私たちの救い主が実現してくださった救いの事実を無視して、思い煩ったり、あたかも自分が自分の力でこの救いを獲得しようとすることを言っているのではないでしょうか。だからこそ、私たちはそのすべての行いを休んで、その代わりに御霊に自分の人生をゆだねていくのです。こう考えるとこの日曜日に私たちが一番しなければないことは、この神様に自分の人生をゆだねていくことであることが分かります。私たちはそのために礼拝に集い、神様にお会いするのです。そうすれば私たちはこの日曜日だけではなく、そのすべての人生の日々を神様が実現してくださった救いによって安息の日として送ることができるのです。
【祈祷】
天の神様
礼拝を通して私たちと出会ってくださるあなたに感謝いたします。そのためにイエス・キリストはこの地上に来てくださり、救いを実現してくださいました。このイエスこそ安息日の主です。どうか私たちがこの主の日にあなたの与えてくださった救いを覚え、御霊に自分の人生を委ねていくことであなたが準備してくださった安息を受けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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