1.クリスマスを準備する期間「待降節」
(1)人の子が来る
今日から教会のカレンダーはアドベント、待降節に入ります。この待降節は降誕祭、つまりクリスマスの前の四週間を使ってクリスマスの喜びを準備するために設けられています。もちろん、ここで求められている準備はクリスマスツリーやさまざまなデコレーションをする、そのようなものではありません。むしろ、この待降節を迎える私たちに求められているのはクリスマスの主人公である救い主イエス・キリストを私たちが心から受け入れ、また喜ぶための備えであると言ってよいのです。
さて、この待降節の第一週に教会暦が選んでいる聖書の箇所は御子イエス・キリストの誕生を知らせる箇所ではありません。ここではむしろ、イエス・キリストが再び来られるとき、つまりイエスの再臨の出来事を預言する箇所が選ばれているのです。「人の子が来るのは…」(37節)とここでは語られていますが、この「人の子」とはイエス・キリストを指し示している言葉です。旧約聖書のダニエル書ではこの世の悪を裁き、迫害されている信仰者を救うためにやって来る神様の使者をこの「人の子」という言葉で預言しています。つまり「人の子」という言葉は世の終わり、神の審判という出来事と結びついて使われる呼び名であり、イエス・キリストが世の終わりに神の審判をもたらすためにやってこられることを言い表す言葉であると考えることができるのです。
(2)クリスマスと主イエスの再臨
それではどうして今、クリスマスを準備する私たちがこのイエスの再臨、世の終わりに起こる神の審判を考える必要があるのでしょうか。それはまさに、このときにこそイエス・キリストが私たちのために勝ち取ってくださった救いの出来事が完全な形で私たちの上に実現するからです。そのために私たちが祝うべきクリスマスの主人公イエス・キリストはやがて「人の子」として私たちの救いを完成されるために再びこの地上に来てくださるのです。
この会堂が完成してもうすぐ四年目を迎えようとしています。私はこの会堂が建てられている間、何度もここを訪れました。はじめに建物の基礎部分が作られ、鉄骨が組まれていきました。やがて建物のてっぺんに大きな十字架が立てられたとき「本当にここに教会が建つのだな」という実感を感じたことを思い出します。おそらく皆さんもあのとき自分たちの教会堂が完成するのを待ち遠しく思っておられたのではないでしょうか。同じようにイエス・キリストの救いの約束を信じ、生きている私たちはその救いが完全な形で実現することを心から待ち望んでいるのです。クリスマスは神の約束の通り私たちを救うためにイエスがこの地上に来てくださったことを祝う日です。ですからこのクリスマスを心から祝うことができる人は、同時にこのイエスの再臨、私たちの救いの完成の日を、希望を持って待ち望むものとされていると言ってよいのです。そのような意味で私たちはこの待降節の最初の日曜日に主イエスの再臨の出来事について学ぶようにされていると言ってよいのです。
2.何を知らなかったのか
(1)世の終わりについての質問
イエスはこの24章の最初で当時エルサレムの町にそびえ立っていた神殿がやがて崩壊するという預言を語っています(1〜2節)。イスラエルの民にとってエルサレムの神殿は「神様が自分たちと共におられる」という信仰の確信を与える重要なシンボルのようなものでした。ですからその大切なシンボルが壊されてしまうと言う預言は、彼らにとっての最大の危機、つまり世の終わりを示す出来事と考えられたのでしょう。イエスの弟子たちはこのイエスの預言を聞いて、オリーブ山に場所を変えて改めて「それはいつ起こるのか、世の終わりにはどのような徴があるのか」と質問しています(3節)。そして、今日の箇所はこの弟子たちの質問に答えたイエスの言葉の一部が記されています。
イエスはこの直前の部分で世の終わりに伴う様々な徴を語っています(3〜28節)。イエスはこの部分ではそれに続いて世の終わりに対して私たちはどのような態度でそれに備えるべきかを教えているのです。まずこの最初の箇所でイエスは創世記に記されているノアと言う人物にまつわる出来事を語っています。
(2)神の計画を知らない人々
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(37〜39節)。
この創世記6章以下に登場するノアの物語では、神様はご自分から離れ、悪を犯し続ける人間たちを滅ぼすことを決心されています。しかし、そのとき神様はノアの家族だけをこの裁きから逃れさせ、彼を通して人類再生の機会を与えているのです。ノアはそのために神様の命令に従って箱船を作りました。それは相当大きな船でしたから、当時の人々はその船を作るノアの行動から、これから大変なことが起こると言うことを予想することができたはずなのです。しかし、彼らはその目に見える神様の警告にまったく気づくことなく、むしろ日常生活に没頭して大切な救いのチャンスを逃してしまいます。そしてノアの家族以外の人々はすべて洪水で滅ぼされてしまったのです。イエスは「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」と彼らの愚かな態度を説明しているのです。
「何も気づかなかった」と言う言葉は彼らが、洪水が起こることを全く知らなかったというだけではなく、その洪水を通して世を裁くことのできる神様の力を全く知らなかったことを語っているのです。そして彼らはノアを通してこの裁きから逃れる道を準備され、救いの機会を提供されようとしている神の計画を全く知ろうとしなかったのです。
イエスの時代、イスラエルの人々はエルサレムの神殿を通して、「神様は自分たちと共におられる」という信仰の確信を抱いていました。しかし、エルサレムの神殿は実は神の御子イエス・キリストを通して私たちを救おうとする神様の救いの計画を示すものでした(ヨハネ2章19〜21節)。ですから大切なのはイエス・キリストであって、神殿はそのイエスを示す影のような存在だったのです。ところがイスラエルの民はその影だけに満足し、本当の実体であり、救い主として神様から使わされたイエス・キリストを拒否するという愚かな失敗を犯してしまったのです。それはまるで東京を目指して出発した人が、「東京まであと50キロ」という標識を見てそれで満足して、そこでストップしてしまうようなものです。イスラエルの人々はこのエルサレムの神殿で満足し、またそこでささげられる儀式に没頭して、神様がイエス・キリストを通して実現されるようとする素晴らしい救いの出来事を見逃してしまったのです。
イエス・キリストの再臨を待ち望む私たちが知らなければならないことは、神がイエス・キリストを通して実現しようとする救いの計画です。そして、このイエスを信じる者はやがてこの地上にどのような危機が訪れようとしているとしても、箱舟に乗ったノアがその危機から救われたように、イエス・キリストの救いによって守られ、神の創られる新しい世界に入ることができるのです。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。イエスは続けてこのように語っています。人の目からは見分けがつかないような信仰の部分を神様は見極めてくださることをここで語っています。つまり私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、その方により頼んでいるなら神は必ず、その救いを私たちの上に実現してくださるのです。
3.知らないことを知る
(1)予告なしにやって来る
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(42節)。
この後半の部分でもイエスは終わりの日を前に私たちが知らなければならないことを教えています。しかし、ここではその答えは少し複雑です。なぜならここでイエスが教えている私たちが知らなければならないことは「私たちは何も知らないこと。つまり知ることができないことを知るべきだ」と言っているからです。このときイエスの弟子たちは「世の終わりはいつ起こるのですか」とイエスに問いました。しかし、その質問へのイエスの答えは「あなたたちには分からない」と言うものだったのです。確かに神様は世の終わりの日を着々と準備されており、その日は必ずやってきます。しかし、神様は肝心のその日がいつ訪れるかについては私たちに何も教えてはくださらないのです。
「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(43節)。
ここでイエスは一つのたとえ話を語っています。小説に登場する怪盗二十面相やアルセーヌ・ルパンは別として普通、泥棒は予告なしに家に忍び込みます。ですから、泥棒に入られた家の主人は、泥棒に侵入されて始めてその事実を知ることになるのです。もし、泥棒が「何時何分に参上致します」という予告状を送れば、その家の主人はそれに備えることができますから、泥棒はやすやすとはその家に入ることができなくなります。イエスは世の終わりもこの泥棒のように予告状なしにやって来ると語ります。その上で「だから、あなたがたは用意していなさい」と教えているのです。
(2)何でもできると思う日本人
先日、ある方が東南アジアに出張するということになったと言うお話を聞きました。そこで私たちは東南アジアの人々の感覚と日本人の感覚ではどこが違うかと言う話で盛り上がりました。その上で東南アジアの国々と私たちの住んでいる日本が大きく違う点は時間についての感覚ではないかと言うことになったのです。日本では駅のホームに立つといつも時刻表どおりに電車が入ってきます。ところが向こうでは電車が遅れて来るのはあたりまえ、ときには何時間も待たされることもたびたびあると言うのです。ときにはずっと待ったが、ついにやって来なかったということもあるかも知れません。
また、そこでさらに違ってくる点はその出来事に対する人間の受け止め方です。日本では電車が5分でも遅れそうになるとすぐ構内アナウンスが入り、そのことを知らせます。そうしないと待っている人が不安を感じ、「どうしたのだろう」と心配し始めるからです。さらに電車が一時間でも遅れそうになれば乗客たちは騒ぎたち、駅員に食って掛かる人まで現れます。ところが電車が遅れることが当たり前の国では、そんなことはないのだそうです。乗客たちはホームで平然として思い思いの行動にふけって、いつかはやって来るであろう電車の到着を待つのです。確かに私たちの日本は便利な社会です。しかし、私たち日本人はある意味で努力すれば何でも可能になると思っている傾向があるのはないでしょうか。そしてその反面、私たちは「人間には不可能である。人間にはそのことが分からない」ということをいつの間にか忘れてしまっているのではないでしょうか。
(3)神に全面的に信頼する
もし私たちが「自分では分からない」という現実に出会ったとしたら、私たちはいったいどうすればいいのでしょうか。駅のホームの乗客のように騒ぎ立ってパニックに陥るべきなのでしょうか。そうではありません。むしろ、そのとき私たちはすべてのことをご存知で、確かな計画をもって私たちを導いてくださる神様を信頼すべきなのです。
「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44節)。
毎日寝坊を繰り返す人が、「今日こそ会社に遅刻しないで出勤するぞ」と一晩中寝るのを我慢して、朝がやって来るのを待ちました。やっと朝が近づいて「もうすぐ出勤の時間だ。これで今日は遅刻しないぞ」と安心した途端、深い睡魔に襲われて結局はその日も遅刻してしまったという笑い話のような本当のお話を聞いたことがあります。もし、イエスの再臨をそのような態度で待とうとするなら、私たちの力はこの愚かな遅刻の常習犯と同じようにすぐにぼろを出してしまうはずです。イエスの再臨について「私たちには詳しいことは知らされていない」と言う事実は、私たちがそのために自分の力で何かを準備するというのではなく、神の力を信頼して、その日を待つべきであることを教えているのではないでしょうか。どんなことがあっても、神様はその約束をこの世界の上に、また私たちの上に完全に実現してくださる、そのときが必ずやって来るのです。だからこそ私たちは今日もこの神様を信頼して、その日を待って生きることができるのです。
4.目を覚ましている=降誕祭を喜ぶ
この季節になると町はクリスマスのイルミネーションで満ち溢れます。キリスト教国でもなく、まして聖書やイエス・キリストについてほとんど関心を示さない人々がこの時期だけクリスマスと言ってはお祭り騒ぎをしようとします。そのため私たちクリスチャンはこのような人々の姿を眺めて、大変批判的な態度を取ることがあります。「クリスマスの意味も知らないで大騒ぎしている」。そう言って「クリスマスはもっと静かに迎えるものだ」などとも言ったりします。しかし、私はこの考えも少し違うのではないかと思うのです。もちろん、私たちは世間の人のお祭り騒ぎに影響されてクリスマスを迎えるのではありません。しかし、私たちは他の人々が知らない事実を今知らされているのです。神様は救い主イエス・キリストを遣わして私たちを罪と悪から救い出そうと計画をされ、それを実際に実行してくださいました。そして、その主イエスは私たちの救いを完全に完成されるために再び私たちのところに来てくだると言うのです。この二つの事実を知っている私たちは、今、誰に強制されてでもなく、心の奥底からクリスマスをお祝いしたいと思うようにされているのです。クリスマスの日のことを思うと私たちの心は抑えがたい喜びで満たされるのではないでしょうか。ですから神の救いの事実を知り、それを体験する私たちはこのクリスマスを誰よりも強い、それこそ抑えがたい喜びをもって、迎えたいと願うのです。
イエスの再臨を待つ人々にイエスは「目を覚ましていなさい」と今日のところで命じています。しかし、これは私たちが眠い目をこすって、コーヒーでもすすりながらそのときを待ちなさいと教えているのではありません。むしろ、このクリスマスの喜びを知っていて、その喜びで満たされる人々の自然な反応をここでは語っているのです。「そんなすばらしいときがやってくる。そのとき神様は私たちのために必ずすべての計画を実現してくださる。そのことを知らされている私たちは、眠るなんてもったいない…」。そう思いながらこの日を待つことが許されているのです。そしてこのような意味で、クリスマスの喜びに満たされる人こそ、本当にイエスの再臨を待つことのできる資格を持った人であることを今日の箇所は私たちに教えているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
今年もあなたの恵に導かれてこの12月の待降節を迎えることができました。どうかこのとき私たちにもう一度、主イエス・キリストによって示された救いの計画の素晴らしさを知らせてください。私たちがその救いを与られた者の喜びをもってクリスマスを迎えることができるようにしてください。また、イエス・キリストが私たちに与えられた救いを完全に完成されるためにやって来られるときをも喜びに満たされて、またあなたに信頼して待ち望むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
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