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礼拝説教 桜井良一牧師
「その名はインマヌエルと呼ばれる」

2004.12.19)

聖書箇所:マタイによる福音書1章18〜24節
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

1.ダニエルの預言
(1)同じ一つの約束を伝える書物

 私たちの読んでいる聖書には大きく分けて「旧約聖書」と「新約聖書」と言う二つの書物が収められています。この場合に「旧約」、あるいは「新約」の「約」と言う文字は「約束」と言う意味を表しています。つまりこの二つは「旧い約束」、「新しい約束」と読んでもいい言葉なのです。このように聖書は二つの部分に分かれていますが、神様が私たちに与えてくださった約束は一つであって、その約束には「旧い」ものとか「新しい」ものという区別はありません。それではどうしてこの二つの書物は「旧約」と「新約」という形で分けられているのでしょうか。それはこの聖書全体に記されている神様の約束、つまり私たちのために救い主を与えてくださるという約束は今日私たちが祝う、クリスマスを通して実現したことにその根拠を持っています。ですから「旧約」はこの約束の救い主が誕生する前に記された書物であり、「新約」はこの救い主が誕生した後に記された書物であると考えてよいのです。このように二つの書物は書かれた時代は異なりますが、その主題である約束は同じであることをまず皆さんに理解していただきたいのです。

(2)神様だけが救ってくださる

 さて、今日の礼拝の最初に読みました旧約聖書のダニエル書はイエス・キリストが誕生する600年ほど前に起こった出来事を伝える書物です。この当時、聖書の神を信じるイスラエル民族は自分たちの国を失い、遠い国へ捕虜として連れて来られていました。これがこのダニエル書の舞台となるバビロン、おそらく今のイラクあたりにあった王国です。それではどうしてイスラエルの人々はこのように自分たちの国を失い、遠い異国の地に連れて来られるはめになったのでしょうか。聖書はこの理由をイスラエルの民族が神様を忘れ、神様に背いて生きようとしたからだと指摘しています。ですから、神様はこのイスラエルにアッシリアやバビロンという当時の大国の軍隊を送ってその国を滅ぼさせてしまったのです。

 このダニエル書に登場するダニエルや今日の箇所に登場する、シャデラク、メシャク、アベデネゴと言った人々はこの厳しい現実の上に立って、なお自分たちのこの窮状を救うことができる方は神様以外にはおられないと信じ、行動した人々でした。彼らはこの神様への信仰に従って、ネブカデネザル王の立てた金で出来た像を拝むことを拒否したのです。
 
 「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(3章16〜17節)。

 この三人の言葉は真の神以外に自分たちを救うことが出来る方はおられないという彼らの信仰を明確に示しています。そして、ここで彼らが語った「神様だけが私たちを救うことができる方」という言葉は聖書を一環して流れる主題の一つでもあるのです。
 クリスマスがどうしてすばらしいのか、その日が私たちにどうして喜びの日となりえるのか。それはある意味でこの三人と同じように「神様だけが私たちを救ってくださる」という信仰を持ち続ける人にだけ理解できるものであると言えるのです。ですから、私たちもまず、このクリスマスの祝福にあずかろうとするとき、「この神様だけが私たちを救うことがおできになる」という信仰を明確に持つことが大切なのです。

2.正しい人ヨセフ

 さて今日の礼拝のテキストであるイエスの誕生の次第を伝えるマタイによる福音書の視点はマリアの夫ヨセフの側からこの出来事を理解しようとする点に大きな特徴があると言えます。まずこの福音書はマリアの夫ヨセフの系図を記します(1章1〜17節)。その上で、今日の箇所ではイエスの母となるマリアに起こった出来事を夫ヨセフがどのように理解し、受け止めていったかが語られているのです。
 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(18〜19節)。

 この部分について「現代訳聖書(尾山令仁)」はこう語っています。「夫ヨセフは聖書に忠実な人であったので、マリヤのこの出来事をいいかげんにごまかすことのできる人ではなかった。しかし、彼は、またマリヤに対する思いやりの深い人でもあったから、彼女を人々の前で見せしめにすることなど到底できるものではなく、散々悩んだ挙句、ひそかに彼女を離婚しようと決心していた」(18〜19節)。この「現代訳聖書」は忠実な翻訳というよりは、聖書の言葉の意味を説明しようとする意訳と言ったほうがいい本です。ここでは原文の「夫ヨセフは正しい人であった」という言葉が二つの意味で説明されているのがわかります。まず彼は何よりも聖書に記された律法に従い、忠実に生きた人でした。しかし、ここで言う「正しい人」とは規則通りにしか生きられない冷酷な人物を表すものではありません。ここで言う「正しい人」とはもう一方で苦しむ者、弱い者に目を注ぎ同情し、彼らを助けたいと願う人のことを言っています。ヨセフはこのような意味で「正しい人」と呼ばれるにふさわしい人物でした。しかし、それだからこそこの二つの性質を兼ね備えるヨセフは現代訳聖書が説明するように、マリアのことについて葛藤し、深く悩んでいたのです。ヨセフはマリアを「ひそかに縁を切ろうと決心し」ていましたが、それもまた彼にとって本当の解決を与えるものとは言えませんでした。だからヨセフはあいかわらず悩み続けているのです。

 そこで神様はこのヨセフの夢の中に天使を送り彼の取るべき道を教えられたのです。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20〜21節)。

 実はこのヨセフの物語の中にもあのダニエル書と同じ主題が背後に流れています。どんなに「正しい人」ヨセフであっても、彼はその問題を解決することができません。この問題を解決することができるのは神様お一人です。ですからヨセフにはこの神様の言葉に聞き従う道しか残されていませんでした。このような意味で彼もまた「自分たちを救うことが出来る方は神様以外にはおられない」という信仰を示している人物の一人と考えることができるのです。

3.二つの名前
(1)イエスとインマヌエル

 ヨセフは天使から生まれて来る子どもの名前を「イエス」とするようにと夢の中で命じられています。当時、生まれた子どもに名前をつけるのは父親の大切な役目でした。ですからヨセフがここでマリアの生んだ子どもに名前をつけるといると言うことは、公に「この子は自分の子どもです」ということを認めることでもあったのです。つまり、この行為を通してイエスはヨセフの正式な子どもとされ、1章の最初に登場する系図につながる人物とされるのです。そしてイエスはヨセフの子どもとしてアブラハムやダビデの家系につながる、神が約束してくださった「救い主」であることを教えているのです。ところでこの名前についてマタイは旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用してこのように説明しています。

 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(22〜23節)

 皆さんはここで天使の言葉とこのイザヤ書の言葉に微妙なずれがあることに気づかれると思います。天使はヨセフに「イエスと名付けなさい」と命じましたが、イザヤは「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言っているのです。この二つの名前は「正雄」と「正夫」と言うような表記の微妙な違いではなく、その意味自身が違ってくるのです。イエスは「神は救い」という意味ですが、インマヌエルはここで説明されているように「神は我々と共におられる」と言う意味だからです。

(2)イエスとは誰なのか

 実はマタイはこの箇所でイエスにまつわる不思議な出生の出来事を伝えようとしているのだけではなく、このイエスがいったい誰であるかを私たちに教えようとしています。つまり、この二つの名前はイエスが誰であるかを教える言葉であり、この二つの名前はこのイエスという方の人格と行動の中に統一されていると考えることができるのです。それではこの二つの名前はどのようにイエスの中でつながっていくのでしょうか。「神は救い」。それは聖書の一環して語る主題の一つ、ダニエル書の三人もまた正しい人ヨセフも信じ続けていた「神様だけが救うことの出来る方である」という真理を表しています。そしてもう一つの「インマヌエル」はその神様がどのようにして私たち人間を救ってくださるのか、その方法を教る言葉だと言えるのです。神様が私たちのところに来てくださる。私たちと共にいてくださることによって私たちの救いは実現します。マタイはこの二つの名前を通してそのことを伝え、この救いがイエス・キリストの誕生を通して実現したと私たちに教えているのです。

4.聖霊によって宿る
(1)神の子イエス

 ヨセフは天使から「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と教えられます。マリアの受胎について様々なことが問題とされますが、大切なことは彼女が「聖霊によってイエスを宿した」という事実です。イエスは聖霊によってこの地上に生まれた方なのです。聖霊なる神によって生まれることになったイエス、それはまぎれもなくこの方が「神の子」であったことを私たちに教えているのです。そしてイザヤが語った「神が我々と共におられる」と言う預言は、神の子であるイエスがこの地上に人として誕生されたことで実現したのです。

 教会では毎水曜日の晩にキリスト教の基本教理を学んでいます。先週その学びの中でニカヤ信条というキリスト教会に伝わる古い文章について少し学びました。この文章の中に主イエス・キリストについて記したこんな表現があります。

 「われらは、唯一の主イエス・キリストを、信ず。 主は、父から生まれた神の独り子にして、父の本質より生れ、 神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生れ、 父と同一本質であって、天地の万物はすべて主によって創造された」。

 ここで「造られずして生れ」という不思議な表現が登場します。この表現はこのニカヤ信条が成立した歴史的事情に深く結びついています。実は当時、キリスト教会の内部でキリストを神に造られた最初の「被造物」として理解しようとする人々がいたのです。彼らはキリストについてこう考えました。キリストは私たちと同じ人間であって神の創られた被造物の一人にすぎなかった。しかし、彼は神の律法に従い、その御心を実現することで「神の子」になった。そして、この見解に立つ人々は「私たちもキリストに見習って、キリストのように生きるなら「神の子」となることができる」と教えたのです。このような見解の相違が生じていた当時の教会は会議を開き、そこで聖書によればキリストはどのような方として理解できるかをまとめて、このニカヤ信条を作成したのです。

(2)私たちのために遣わされた神の子

 この信条が主張する大切な点は、キリストは神の子であって、神ご自身であり、決して被造物ではないと言うところにあります。そして同時にこの神が人となってこの地上に来てくださらない限り、私たちの救いの道は開かれないと教えていることです。つまり私たちがいくらがんばってイエスの真似をしてみても私たちの力では自分を救うことはできないと教えているのです。私たちは自分の力では「神の子」になることができないのです。しかしだからこそ神の子キリストは私たちのためにこの地上に来てくださり、十字架の贖いと、復活の出来事を通して私たちを救い出し、私たちを神の子としてくださると教えているのです。
 「神様以外に私たちを救う方はおられない」。ダニエル書の三人はその信仰にたって燃え盛る火の炉に投げ込まれました。しかし、そこでバビロンの王ネブカデネザルは三人以外のもう一人の人物が彼らと共に立っているのを目撃します。その方は「神の子のような姿をしていた」と王は語ります。炎の中の三人と共におられたこの「神の子」が彼らをその試練の中から救い出したのです。
 同じようにキリストは「神の子」としてこの地上にお生まれになりました。それは自分では何もできない私たちを救い出すためであり、神の子であるイエスが私たちといつまでも共にいてくださるためでした。クリスマスはこのように「神以外に私たちを救う方はおられない」と信じる私たちのために神の子がこの地上にお生まれになり、神が私たちと共にいてくださるというすばらしい出来事を喜び祝うときなのです。

【お祈り】
天の父なる神様
今年もクリスマスを祝う礼拝を捧げることができ感謝いたします。私たちには自分を救う力はありません。私たちを救うことの出来る方はあなた以外おられないからです。そのあなたが私たちのために御子を遣わしてくださり、私たちの救いを成し遂げてくださった幸いを感謝いたします。どうか私たちがあなたにだけ救いの確信を置くことができるようにしてください。そしてそのあなたがイエス・キリストの救いのみ業を通して私たちと共にいてくださるという恵みを心から喜んで毎日の信仰生活を送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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